このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
一茶ゆかりの地
一茶ゆかりの里
一茶館
山田温泉「藤井荘」
から県道66号豊野南志賀公園線を下り、左折して県道351号山田温泉線に入り、高井橋で松川を渡る。
芭蕉の句碑
があった。
高山村役場の近くに「
一茶ゆかりの里
一茶館」がある。
一茶の遺墨が展示されている。
扇面
墨染の蝶がとぶ也秋の風
人も一茶
文政9年(1826年)、一茶64歳の時の句。出典は『文政九・十年句帖写』。『文政句帖』(文政5年8月)には「墨染の蝶もとぶ也秋の風」とある。
『父の終焉日記』(文化3〜4年頃)
享和元年4月、一茶39才の春、たまたま帰省中であった一茶が父の発病にあい、その臨終、初七日を迎えるまでの出来事を書き綴った日記である。寛政12年刊の天地庵我泉の歳旦帳の裏面に書かれたこの草稿は、明治の世になってから束末露香によって『父の終焉日記』と名付けられ、大正11年、露香の校訂本が荻原井泉水によって刊行された。
久保田春耕に宛てた書簡(文政10年6月15日付)
御安清奉賀。されば私は丸やけに而是迄参り候。此人田中へ参り候。私参候迄御とめ可被下候。右申入度、かしく。
壬
(閏)
六月十五日節
土蔵住居して
やけ土のほかりほかりや蚤さは
(わ)
ぐ
紫畊大人
一茶
6月1日の柏原の大火で焼け出された後、六川に行って、そこで書いたものと言われている。数多い書簡の中で最も有名なものである。
一茶をとりまく人々の作品も展示されていた。
宮本虎杖
既望
(いざよい)
はいざよふうちのながめかな
埴科郡戸倉町の人。当時江戸で高名な宗匠であった加舎白雄の高弟で、更科、埴科を中心に北信濃の俳諧を育て上げた功労者である。一茶も江戸と柏原を往復する際、何度か虎杖を訪ねて風交を求めたようである。
古田月船
浅草のかね襟に入るあはせかな
茨城県利根郡布川の人。裕福な文化人で一茶を厚くもてなした。一茶の布川における宿泊数は289泊と常総随一であるが、そのほとんどは月船宅であろう。
変わった屋根の建物である。
一茶逗留の離れ家
離れ家と呼ぶこの茅ぶきの小さな建物は、当地紫の
久保田春耕
の先代兎圍
(とえん)
が18世紀末の天明から寛政期頃に建てた隠居所であり、春耕は、この建物を一茶に提供した。
一茶はここに136日も逗留して、高山村や近在の門人たちを精力的に指導した。
「
一茶ゆかりの里
一茶館」には6つの句碑があった。
扇面の句が句碑になっている。
墨染の蝶がとぶ也秋の風
人も一茶
文政5年
義仲寺へ急候はつ時雨
寛政7年10月12日、当時京都にいた一茶が、芭蕉の墓のある近江
義仲寺
の芭蕉忌時雨会に参加した折の句で、
『しぐれ会』
(重厚編、寛政7年刊)に収められている。
苦の娑婆やさくらが咲ばさいた迚
文政2年(1819年)春、一茶57歳の句。
『八番日記』には「苦の娑婆や花が開けばひらくとて」とある。
さをしかやえひしてなめるけさの霜
出典は『八番日記』。
文政2年(1819年)9月、一茶57歳の句。
高井のや只一本の花の雲
出典は『八番日記』。
文政4年(1821年)3月、一茶59歳の句。
にはの蝶子が這へばとびはへばとぶ
出典は『浅黄空』。
『浅黄空』の原本は「
一茶ゆかりの里
一茶館」に伝わっているそうだ。
記念に扇子を買った。
秋風や磁石にあてる古郷山
出典は『八番日記』。
文政2年(1819年)9月、一茶57歳の句。
『おらが春』では「高井野の高みに上りて」の前書きがつけられており、高山村荒井原の山ノ神あたりでの作と推定される。「磁石にあてる」が印象的な望郷の句である。
高山中学校
に句碑があるそうだ。
松川渓谷温泉
へ。
一茶ゆかりの地
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください