このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
ほとゝきすなきなき飛ぶハいそかはし
小田原市の
城前寺
から六本松跡へ。
六本松跡に芭蕉の句碑があった。
ほとゝきすなきなき飛ぶそいそかはし
芭蕉
人の知る曾我中村やあを嵐
白雄
出典は
『続虚栗』
。
貞亨4年(1687年)、芭蕉44歳の句。
『あつめ句』
に「
なくなくとふそ
」とある。
六本松跡
古代千代台地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、西から旅人は皆ここによって、この道を、目指す阪東や奥羽へと向かったと推定(弓削道鏡等)される。
その後、
源頼朝
が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩などにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。
また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、
阪東三十三観音
の5番
勝福寺
から6番長谷寺に行く巡礼道でもある。
戦国乱世のころ、京の聖護院
准后道興
は「答えする人こそなけれ足曳きの山彦山は嵐吹くなり」を詠み、降って元禄のころ、松尾芭蕉は「ほととぎす鳴き鳴き飛ぶぞいそがわし」、門人の白雄は「人の知る曽我中村や青嵐」、その後
蕪村
も「雨ほろほろ曾我中村の田植かな」と詠んだ。
この、六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。
加舎白雄
は芭蕉の門人とは言えない。
白雄の句の出典は
『しら雄句集』
。「馬門亭」と前書きがある。
中村は曽我の人中村左五兵衛。俳号は馬門。
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