このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
翁 塚
総持寺
〜芭蕉翁之塔〜
あわら市花乃杜に総持寺という寺がある。
総持寺の境内に雨夜塚があった。
芭蕉翁之塔
雨夜塚
町指定史跡
当寺の境内にある雨夜塚は、今から約230余年前の寛延2年(1749年)9月に、金津の俳人坂野我六が芭蕉翁の遺徳を慕って、美濃(岐阜県)の
田中五竹坊
が越後行脚の折に建てたものである。
俳聖芭蕉が「奥の細道」俳句行脚の途すがら、吉崎から汐越の松をたずねて金津へ着いたのは、元禄2年(1689年)8月10日であった。
折しも俄か雨に逢って、総持寺の門前で雨宿りをした。同志が集って旅情を慰めたが、句会を開く間もなく晴れ間を待って
松岡
へと向かった。
雨夜塚の碑銘は僧曇秀の作で、碑の左側面に次の碑文がある。
「野分して盥に雨を聞く夜かな 」とは故翁の遺吟なるが、坂野氏我六のぬし風雅の冥慮を仰がんと、此碑下に埋みとゞめて雨夜塚と尊むなるへし
その道も潤ふ秋や雨夜塚 五竹坊
惠みは広き野に草の色 我 六
庭園は閑雅で美濃以哉老師の笠塔をはじめ
金津姫川吟社第三代二逐坊の
月の秋や心にかゝる雲もなし
など16基の句碑があり、阿部精の壽碑もある。雨夜塚は、これまでいくたびか移転されてきたが、近くは昭和57年10月に正端寺境内からここに移された。
金津町教育委員会
寛延2年(1749年)、幾暁は金津を訪れている。
金津 有隣亭
葉にも猶薫る風あり宿の梅
幾暁
耳にちなみの空に蝉の音
我六
『
俳諧
百合野集』
明和元年(1764年)7月28日、我六は64歳で没。
天明2年(1782年)、
田上菊舎
は金津の二逐亭に滞在している。
福井城下祐阿老賀のもとに滯杖して雅會有。それより金津の庄山氏二逐亭にも宿りを重ね、贈答の句付合有。
『手折菊』
以哉老師の笠塔
天明2年(1782年)8月29日、
以哉坊
の三回忌に二逐坊建立。
二逐坊の句碑
月の秋や心にかゝる雲もなし
文化11年(1814年)正月26日、二逐坊は74歳で没。
越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松 西行
此一首にて数景尽たり。もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。
『奥の細道』
「雨宿り」のことは書かれていない。
平成16年(2004年)3月1日、金津町は芦原町と合併してあわら市となった。
「芭蕉句碑」
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