このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
草臥て宿かる比や藤の花
天理市福知堂町に八坂権現がある。
八坂権現の南の藤棚に芭蕉の句碑があった。
草臥て宿かる比や藤の花
左側面に「芭蕉翁之藤」とあるが、こちらが正面であろう。
草臥れて宿かる比や藤の花 はせを
「歩きくたびれて、そろそろ宿を借りなければと思っていたところ、ある家の門辺に、夕暮れの色にまぎれず紫色の藤の花が咲いている。それが旅にあるもののわびしい心に沁みいるばかりであった」と、暮春の旅情が詠まれている。
貞享4年(1687年)江戸を発って故郷伊賀上野で越年した芭蕉は、翌年3月弟子の
杜国
とともに吉野、高野、紀伊、大和、須磨、明石を巡って京へ入った。この6ヶ月の旅を綴ったのが、
「笈の小文」
で、右の句はここに収められている。
道中、芭蕉、杜国連名で旧友に送った手紙によると、当地では在原寺、
石上神宮
に詣でたあと、桃尾の滝へも足を延ばし、「……淡培地、
やぎ
と云処、耳なし山の東 に泊まる。”ほととぎす 宿かる比の藤の花”(下略)」とある。この句が初案だったのを、”草臥れて 宿かる比や”と詠嘆的表現に改め、余情深い現行の句ができたと言われている。
なお、この句碑は文化11年(1814年)の春「三輪山下芝邨風来庵雪酔」によって建立されたものである。
天理市観光協会
「
道中、芭蕉、杜国連名で旧友に送った手紙
」は、貞亨5年(1688年)4月25日付の猿雖宛書簡である。
昭和40年(1965年)6月、山口誓子は三昧田で芭蕉の句碑を見ている。
このあたりを三昧田という。
藤には「芭蕉翁之藤」と書いた碑が立っている。はっきり読める。
自然石の句碑には
くたびれてやどかる比や藤の花
と書かれている筈だが、「具○ひれてや堂かる比やの「た」の字がよく読めない。
「芳野紀行」
に出て来るこの句が何処で作られたかに問題がある。
「芳野紀行」からそれはわからない。初瀬の句の前に置かれているから、それまでの作と云い得るだけだ。
「泊船集」
には、この句に「大和行脚のときにたんば市とかやいふ処にて日の暮かかりけるを、藤の覚束なく咲こぼれけるを」という前書を附け、この句を丹波市の作とする。
しかし芭蕉が猿雖書いた手紙には「やぎと云所、耳なし山の東に泊る」として、この句を八木の作とする。
句碑は八木よりも丹波市に寄った地点に立てられているのだ。
『句碑をたずねて』
(大和路)
芭蕉の句碑
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