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私の旅日記2015年

秋月城跡〜虚子の句碑〜
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朝倉市秋月野鳥に秋月城跡があるというので、行ってみた。


 甘木鉄道甘木駅から甘木観光バス秋月線で郷土館前へ。乗客は私を含めて2名であった。

秋月の 鳴渡観音 に芭蕉の句碑がある。

種痘の父
緒方春朔顕彰の碑
(没200年記念)


 秋月藩医緒方春朔(1748〜1810)は中国医書「醫宗金鑑」の種痘に注目し日夜研究に没頭した。寛政2年(1790年)鼻旱種法という人痘種痘を完成させた時、上秋月の大庄屋天野甚左衛門より我が二児に試みをと申し出あり、春朔はこの二児に実施し我が国で初めて人痘種痘に成功した。ジェンナーの牛痘種痘発明より6年前のことである。

 日本初の種痘書「種痘必順辨」を著し、広く民衆に施し、多大の成果を収め、我が国天然痘予防の先駆者として不滅の業績を残した。

 2010年10月建立
   (社)朝倉医師会
   (社)甘木朝倉法人会

瓦坂


秋月城の正門に至る坂を瓦坂といい、坂には土の流出を防ぐため、瓦を縦に並べて敷き詰められている。 坂を上って御館正門(大手門・黒門)に至る。

坂を上ると秋月黒田藩時代の御館正門(大手門)に至る。

秋月城長屋門


 この門は、秋月藩主黒田家の居城である秋月城の裏手門として使用されていたものである。老朽化に伴い昭和62年から3年間、保存修復工事及び発掘調査を実施した。その結果、北棟のさらに北側に古い礎石が発見され、原形に近い形(北6間、南7間)での復元がなされた。

 秋月城内で唯一現地に残る建物であり、秋月城の面影を最もよく伝えている。

垂裕(すいよう)神社参道の黒門


 昭和21年(1946年)11月18日、 高浜虚子 は息子年尾、娘立子と共に秋月を訪れる。

一枚の紅葉且つ散る静かさよ

わが懐(おも)ひ落葉の音も乱すなよ

濃紅葉(こもみじ)に涙せき来る如何にせん

父恋ふる我を包みて露時雨

      十一月十八日 昨日『ホトトギス』六百号記念福岡俳句会に
      列席し、甘木、上野嘉太櫨居一泊。秋月に父曾遊の跡を訪ふ。
      年尾、立子と共に。


参道の左手に 高浜虚子の句碑 があった。


濃紅葉に涙せき来る如何にせん

 虚子の父池内庄四郎政忠は、武者修行の折、秋月藩師節の門弟と稽古館で試合をしたそうである。

濃紅葉に涙せき來る如何にせん

祖父は剣道の達人であつた。若くして九州へ武者修業に出、秋月に立寄られたといふ。ホトトギス六百号記念会に出席の途次、その秋月を訪ねた。折柄紅葉が日に映えて、私等を染めてゐた。

『虚子一日一句』 (星野立子編)

 無元邸休憩。甘木、秋月兩所の句碑を見る。甘木の句碑は無元君の負擔重大。秋月は亡き父が青年の頃、武者修業に來た處。父はどの山路をとつて秋月の城下に來たか、とその當時を憶ひ見る。甘木市長、嘉太櫨、無元東道。

   あの尾根を斯く來られしか春の山   立子

「關門トンネルを通る」

 昭和33年(1958年)4月27日、句碑除幕。虚子も列席した。

老いて尚雛の夫婦と申すべく

      四月二十七日 甘木、秋月の句碑除幕に列し、門司行。二十
      八日、関門トンネル開通祝賀句会列席の為め門司岡崎旅館泊
      り。二十九日、夜汽車帰東。

『七百五十句』

垂裕神社


垂裕神社由来記

 ここは、旧筑前の国秋月である。

 当社は垂裕大明神(秋月黒田藩 初代藩主 黒田長興公(1610〜1665)を奉祀する。

 長興公は、福岡藩祖黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚沈毅にして英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。

 寛永元年(1624年)秋月黒田藩5万石の城主として入府する(公は14歳)

 福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。

 寛永15年(1638年)島原の乱に際しては(公は時に28歳)幕命に従って諸藩と共に出陣。原城本丸攻略などに大きく戦功を挙げた。

 安政6年(1859年)東陽院殿(長興公)の二百年祭典挙行にあたり、時の十代藩主長元公(土佐山内家より養子)は藩祖を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。

 明治6年(1873年)この神社造営に当たっては、台地を開き道をつくり、旧御館裏の空谷杉や入府当時に植樹した丈余の老松が用いられた。又坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に士族坂と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者多く崇拝の社となっている。

 時がうつりて昭和22年(1947年)歴代藩主、島原の乱以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家の為に忠誠を尽くし、殉華なされし日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀さる。

 参道の黒門は秋月氏時代(1202〜1587)の古処山城の搦手門(からめてもん)であったものを、長興公の秋月城築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである。(県指定文化財)

   1999年10月

垂裕神社維持委員会

 秋月の乱は、明治9年(1876年)に起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。

秋月の西念寺にも虚子の句碑があるようだが、帰りのバスの時間である。

帰りのバスも乗客は2人だけだった。

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