このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

長崎街道〜木屋瀬宿〜
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扇天満宮 から長崎街道木屋瀬宿を歩く。


 明和8年(1771年)5月4日、蝶夢は 黒崎 から木屋瀬を経て直方へ。

 黒崎ははや筑前の国なり。そのかみ伊予掾純友兄弟のこもりし所か。木屋の瀬より川づらにそひて行ば、直方にいたる。文紗といふ人の別業にやどる。


古い家並みが続く。


郡屋跡

 郡内の村役人と藩の役人の集会所で、大名などの通行の割当、年貢の調整、普請の打合わせなどを相談した。宿駅などに置かれ、郡屋守一人がいた。福岡藩でいつから郡屋が置かれたか不明だが、資料として天文2年(1737年)頃から点々と見え、木屋瀬でも延享元年(1744年)に「郡屋立替え」の記録がある。

 文化2年(1805年)10月15日、 太田南畝 は木屋瀬宿で昼休みする。

木屋の瀬の宿に晝休す。長崎屋彌平次といふ主にして、去年もいこひし所なり。めのわらはの見なれたるにも一年へし事思ひいづ。宿に煙草うるものゝ招牌に、志んでんひのくまそうばなと畫るは、地名なるべし。

『小春紀行』

問屋場跡(野口家)


 人馬継や飛脚・荷物を取り扱う所である。仕事上、問屋場前は広場になっていて、道路幅も他が5メートル程であったのに対し、7.5メートルと広く、また水害に備えて宿内で一番高い位置にあった。最後の問屋は野口家であって、長崎街道沿いに飛脚井戸も残っている。

 また、明治4年(1871年)木屋瀬郵便取扱所の開設のとき野口家が初代の郵便取扱人になっている。

 嘉永3年(1850年)8月30日、 吉田松陰 は長崎に遊学する途中で 黒崎 から木屋瀬に至る。

 一、晦日  晴。黒崎を發し木屋瀬に至る、此の處より小竹に至る迄、土地卑(ひく)く且つ河あるを以て、洪水田を傷(そこな)ふこと甚だし。甚だしきものは、田稲水底に在ること十日許りと云ふ。


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