このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

俳 人

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高野一栄

出羽国大石田村の船問屋。本名は平右衛門。

元禄2年(1689年)5月28日、芭蕉と曽良は高野一栄亭を訪ねた。

 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。

『奥の細道』

芭蕉46歳、一栄は8つ年上の54歳だったそうである。

高野一栄亭跡 に芭蕉翁真蹟歌仙”さみだれを”の碑がある。



歌仙の初折の表六句

さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川
芭蕉
岸にほたるを繋ぐ舟杭
一栄
爪ばたけいざよふ空に影待ちて
曽良
里をむかひに桑のほそミち
川水
うしのこにこゝろなくさむゆふまくれ
一栄
水雲重しふところの吟
芭蕉

大石田町の 西光寺 に一栄の句碑がある。


岸にほたる繋ぐ舟杭

歌仙の脇句である。

 6月1日、芭蕉は大石田から新庄の渋谷甚兵衛 風流亭 を訪ね、2泊している。

 同年9月14日、芭蕉は伊勢神宮に参詣し、翌日小幡に向う。そこで偶然、伊勢参りの一栄と出会った。

○十五日 卯ノ刻味右衛門宅ヲ立。翁、路通、中ノ郷迄被送。高野一栄道ニテ逢。小幡ニ至テ朝飯ス。至津、宿申二下ル。

『曽良随行日記』

明治40年(1907年)10月9日、河東碧梧桐は大石田を訪れた。

 一栄というのは盲人で名字は高橋通称を平四郎というた。川水は土屋某というて屋号をアカシヤという土地の旧家であった。一栄の宅というのは、最上川に沿うた当時は茂った芦の中にあった。二人とも檀林のまね位しておったのが、芭蕉を迎えて始めて悟入したものらしい。など種々言ひ伝えられた事がある。アカシヤは一家滅絶して今は何の跡も残っておらぬそうである。


一栄の句

若水や竜の都も千尋繩


しられけり鐵西行の秋の暮


鳥海の雪よりおろせほとゝぎす


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