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俳 人
佐藤馬耳
桑折宿本陣の役人佐藤佐五左衛門宗明。
元禄9年(1696年)、
天野桃隣
は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で桑折の田村不碩宅に足を休めている。
伊達郡桑折 、田村氏は、武江不卜門葉にして、年来
(としごろ)
此道を好み、陸
(みちのく)
の巷を蹈分たり。迷ひ行下官
(やつがれ)
、彼が扉
(とぼそ)
を敲き、膝をゆるめて、
誰植て桑と中能
(なかよき)
紅畠
桃隣
蓬菖蒲
(あやめ)
に葺き隠す宿
不碩
陰の膳旅の行衛をことぶきて
助叟
子どもの三十おさな名を呼
馬耳
『陸奥鵆』
正徳3年(1713年)、露川は奥州桑折で俳人佐藤馬耳に招かれ欖翠軒を訪れている。
享保元年(1716年)5月、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上佐藤馬耳を訪ねている。
さて此ところに馬耳といふ誹子有へきよし、それは佐藤氏なめりと、こゝに案内しけれはいとむつまし。二夜やすみてこれより奥へゆくに、なを帰路を契りて出ぬ。
『烏絲欄』
享保2年(1717年)冬、無外坊燕説は欖翠軒を訪れる。
享保4年(1719年)5月12日、
田植塚
を建立。
『
俳諧
田植塚』
刊行。燕説は再び欖翠軒を訪れ「田植塚記」を書いている。
元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、桑折に馬耳を訪ねて「田植塚」を見ている。
馬耳の嫡子佐藤新五郎は如風と号した俳人。
元文3年(1738年)4月下旬、山崎北華は松島の帰途に馬耳を訪ね、子息如楓に迎えられる。
夫より馬耳子の許に行く。あるじ此頃會津に行き留守也。子息如楓宿にて出迎へられ宿す。可貞。可則。錦蓆なといふ人尋ね來り。風雅の物語に夜更したり。此あるじの亭を攬翠といふ。正徳の比より詩歌連俳の好士。此處に遊ぶ者。風景を述べて。
正徳集
と云ふ。此度の行脚此所に宿り。此の風景を見。此集を閲す事。風雅の妙也。我も賤しく拙き筆を殘さまほしく思へど。あるじの留守なればいかゞといへば。如風の苦しからずと許さるゝにぞ。矢立取出し。
『蝶之遊』
元文5年(1740年)、
榎本馬州
は馬耳亭を訪れる。
馬耳亭
夏草に其おたまきや馬の跡
松島をいそけは又の契りを約して別
『奥羽笠』
寛保3年(1743年)9月19日、燕説は73歳で没。馬耳は追悼の句を詠んでいる。
誰か皃の跡や手の跡塚の露
『こぬ世の風』
寛延3年(1750年)11月9日、没。
大安寺
に墓がある。
宝暦5年(1755年)5月14日、南嶺庵梅至は馬耳を訪ね、既に故人となっていたのを知る。
十四日桑折の馬耳を訪ふ猶子新五郎の曰六年已前の古人と成と
尋るに甲斐なし噫十人の酬和九人ハなし
なきを訪ふしるへの水や杜若
『奥羽の日記』
法圓寺
に馬耳の句碑がある。
釜ふいて閑々無事や年の暮れ
馬耳の句
今朝は誰秣を刈て女郎花
『陸奥鵆』
雨しよぼしよぼことにあやなし梅の花
十六夜の遅さや親を疊輿
『西国曲』
松明の聲や夜討の夜水引
『北国曲』
如風の句
青すたれ捲や法事の休ミ所
『
俳諧
田植塚
乾』
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