このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉の句碑
『奥の細道』
〜東北〜
〜田植塚〜
穂徳美術館
で
法圓寺
(HP)に田植塚があると聞いて、行ってみた。
朝日山法圓寺
真言宗豊山派
の寺である。
田植塚
『諸国翁墳記』
に「
田植塚 奥州桒折駅
ニ
アリ 馬耳建
」とある。
俳聖芭蕉が奥の細道行脚の途次、須賀川の「等窮」宅で詠んだ、
風流のはじめやおくの田植唄
の句を、当地の俳人「馬耳」が享保4年(1719年)5月12日此処に埋め、塚を築き、「芭蕉翁」と刻んだ碑を建立し、芭蕉追慕景仰の供養と当時盛んであった信達地方の俳壇の隆盛を祈願したといわれています。このとき建碑記念句座を設け
「田植塚」
乾坤二冊を馬耳が撰集し開版しております。 「諸国翁墳記」(宝暦11年(1761年)粟津義仲寺開版)によりますと、この塚は東北最古のもののようです。
馬耳
は、当地本陣の役人佐藤佐五左衛門宗明の俳号であり、奥州俳壇の実力第一人者である。(
「西国曲」
巻5「諸邦発句」に入集した奥州俳人のうち、桑折の俳人が最も多いことや当時一流俳人
祇空
等が馬耳の亭に宿泊したことからも考えられる。)
馬耳の先輩で、天野桃隣 と交りのあった東柳軒不碩の墓も当山に現存しています。
桑折町教育委員会
元禄9年(1696年)、天野桃隣は『奥の細道』の跡をたどる旅の帰途で桑折の田村不碩宅に足を休めている。
是より段々出て桑折に着
ク
。田村何某の方に休足。
仙台領宮嶋の沖より黄金天神の尊像、漁父引上
ゲ
、不思儀
(議)
の縁により、此所へ遷らせたまひ、則朝日山法円寺に安置し奉
ル
。忽の御奇瑞に諸人挙て詣
ス
。まこと所は辺土ながら、風雅に志
ス
輩過半あり。げに土地清浄、人心柔和なるを神も感通ありて、鎮座し給ふとは見えたり。農業はいふに及ず、文筆の嗜
ミ
、桑折にとゞめぬ。
天神社造立半
○石突に雨は止たり花柘榴
[無都遅登理 五]
「黄金天神の尊像」は今でも法圓寺諸尊のひとつとして祀られている。
伊達郡桑折 、田村氏は、武江不卜門葉にして、年来
(としごろ)
此道を好み、陸
(みちのく)
の巷を蹈分たり。迷ひ行下官
(やつがれ)
、彼が扉
(とぼそ)
を敲き、膝をゆるめて、
誰植て桑と中能
(なかよき)
紅畠
桃隣
蓬菖蒲
(あやめ)
に葺き隠す宿
不碩
陰の膳旅の行衛をことぶきて
助叟
子どもの三十おさな名を呼
馬耳
『陸奥鵆』
不碩の句
二日酔是や躬恒の菊の亭
『陸奥鵆』
元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、桑折に馬耳を訪ねて「田植塚」を見ている。
桑折といふへ出て。馬耳といふ人の風雅ありと聞きて尋ぬ。主人の今日は此所に泊りてよと止められ侍れど。日も未だ巳に至らず。殊に此比日和も續きたれば。近々に雨もあるべし。先づ松島急がれ侍ると言へば。主。
雲晴れてとむるに手なし時鳥
といふ。歸るさ必すまかるべしと約して去る。此所に翁松島行脚の時。
風流のはしめや奥の田植歌
といふ短冊を。土中に籠めて。田植塚 といふあり。此塚に到り。
風流のはしらや奥の田植歌
と書きて。塚の前に指置く。是や俳諧の鸚鵡躰とも謂ふべき歟。
『蝶之遊』
宝暦5年(1755年)5月14日、南嶺庵梅至は田植塚を見ている。
好子馬耳か築る田植塚 をミる
風流や長き早苗の植ちから
『奥羽の日記』
田植塚の傍に芭蕉の句碑があった。
風流の初やおくの田植うた
平成15年(2003年)5月、建立。
『
俳諧
田植塚
乾
』
の「田植塚記」が石に刻まれていた。
田植塚記
ミちのく伊達桑折の里、朝日山法圓寺の田植塚は、はせを一とせ奥羽の抖薮に、風流のはしめや奥の田うへ歌と事捨給ひし真跡を土中に埋んて、霊魂を祀る也けり、於呼馬耳子ハ丸額のむかしより風雅を好ミ、やゝふて付合の味をしるに随て、故翁の正風をしたひ、今の流行におくれす、そこらの僧俗を駈立て、月々の興行をすゝめ、花紅葉の衾にふれては、一句の手向草に、誹永く諧久しき事を祈る、 さるは昌黎か作りて其功徳を仰くの類ひにひとしきか、今年野僧か再遊の杖をとらへて、供養の法席をひらき、これか記を乞ふ、其金鉄の厚心辞するに道なし、後の連衆も耳子か信を続て、誹諧の邪路におちいらすんは、今日碑を建るの志にそ無かしと、おつおつ筆を取て其大概を記すものならし
享保四
己
亥五月十二日
雲水
無外坊燕説謹誌
芭蕉像があった。
俳聖芭蕉翁
太田良平作、昭和62年(1987年)5月奉納。
太田良平氏略歴
大正2年7月梁川町生まれ。昭和6年上京、三木宗策彫塑塾に入門、三木宗策没後は
北村西望
に師事、西望会員となる。11年「浴後」が帝展初入選、以来、文展、日展に連続入選する。 昭和20年に郷里梁川町に疎開、28年「双華」が日展特選、朝倉賞、昭和29年「修道女ヴィンセンチア」日展特選となり、以来日展審査員3回のほか昭和42年日展評議員、昭和58年「みちのくの芭蕉展」開催(日本橋高島屋)、平成6年日展参与としてわが国彫塑界の重鎮として活躍。平成6年日展参与としてわが国彫塑界の重鎮として活躍。昭和35年桑折町「桑外居」に居住、平成9年4月18日没。行年83歳。
『奥の細道』
〜東北〜
に戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください