このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
森々庵松後
名は弼次
(ひつじ)
。通称は与三太夫。初号松吾。別号道阿。
仙石廬元坊
、
田中五竹坊
に学ぶ。
享保17年(1732年)5月3日、備前岡山に生まれる。
延享4年(1747年)5月10日、廬元坊は57歳で没。
明和2年(1765年)10月12日、操山
松琴寺
に「時雨塚」建立。
菊の香やけふはかりには限らねと
移し植てこの地にも亦歸り花
『志久禮農恩』
安永5年(1776年)正月27日、総年寄役となる。
安永8年(1779年)、美濃北方に
帰童仙
の病床を見舞う。7月26日、帰童仙は81歳で没。
天明2年(1782年)5月8日、
金比羅宮
に詣でる。
首 途
出る日は角をわすれむ蝸牛
『厳島紀行』
天明2年(1782年)7月、『
俳諧
今者昔』(森々庵松後述)序。
寛政3年(1791年)、嫡子源三(松雨)に家督を相続。
寛政3年(1791年)10月12日、美濃・伊勢に旅立つ。
首 途
靜にて老の旅には小春かな
舟中芭蕉忌
芭蕉忌や船に煎茶の一つまみ
『杖のはじめ』
寛政5年(1793年)3月13日、筑紫に向かう。
首 途
春にあかぬものやけんけの田に疇に
『心つくし』
寛政7年(1795年)、三越奥羽の旅。
善光寺
よく光る寺で月見の今宵かな
寛政8年(1796年)、美濃派(再和派)の道統六代を継ぐ。
寛政10年(1798年)4月3日、67歳で没。
天保3年(1832年)3月12日、森々庵松後門人は
芭蕉の句碑
を建立。
寺に寐て誠顔なる月見かな
左側面 夕暮をしらぬ鳥あり花の中
任地齋
右側面 物とては曙ひとつ雪の晴
森々庵
岐阜県北方町の
西運寺
に「森々庵主」の碑がある。
比叡もけふ雲なき空や更衣
松後の句
浦山の月に歟皃の其黒み
『窓の春』
夕顔や子の這て居る門むしろ
『
蕉門
むかし語』
山寺に一日寐たり春の暮
『
俳諧
三つの手向』
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