このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

2019年の旅日記

宗林寺〜碑巡り〜
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さぬき市長尾町西に宗林寺という寺がある。


「一畑御坊」とある。

宗林寺には種田山頭火その他の句碑が数十基ある。

種田山頭火の句碑


しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

うしろ姿のしぐれてゆくか

 「しぐるるや」は昭和4年(1929年)、『層雲』発表の句。 『草木塔』 (鉢の子)に収録。

 「うしろ姿の」は 『行乞記(二)』 に「自嘲」とある。昭和6年(1931年)12月、熊本県から福岡県に抜けてから詠まれた句。

以下、特に名前がなければ、 山頭火の句碑 である。



   行乞途上

秋ふかみゆく笈もぴったり身について

出典未詳。

昭和14年(1939年)の句らしい。

高浜虚子の句碑


琴瑟に仏法僧も相和して

河東碧梧桐 の句碑


名残の土筆摘む松三本のよりて立つ影



まことお彼岸入りの彼岸花

『草木塔』 (山行水行)に収録の句。



草が咲くかまゝのてふてふ

『草木塔』 (孤寒)に「草は」として収録。



もう一杯の柄杓どの

昭和9年(1934年)2月28日に詠まれた句。

『其中日記(五)』に「もう一杯、柄杓どの(酔ざめに)」とある。



歩々到着

『春菜』層雲250号記念集(昭和7年5月刊)による。



日ざかりの空腹はなく山頭火

風の明暗をゆく

山頭火の句ではない。

『草木塔』(柿の葉)に「風の明暗をたどる」とある。

「『草木塔』以後」に「日ざかりの空腹は鳴る」とある。



うれしいこともかなしいことも草しげる

出典は『其中日記(六)』。

 昭和9年(1934年)7月1日、小郡(現山口市)の 「其中庵」 で詠まれた句。

夏目漱石 の句碑


柊を幸多かれと飾りけり

 明治33年(1900年)、英国留学中の漱石が正岡子規に宛てた絵葉書に書いた句だそうだ。

河東碧梧桐の句碑


さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ

宗林寺山門


山門の左右に山頭火の句碑があった。



まつたく雲がない笠をぬき

出典は 『行乞記(一)』

 昭和5年(1930年)10月26日、高鍋町から都濃町へ向かう途中で詠まれた句。



音はしくれか

出典は『其中日記(一)』。

 昭和7年(1932年)10月21日、山口県小郡の其中庵で詠まれた句。

宗林寺本堂


真宗大谷派 の寺である。

本堂の左右雨樋受け水槽に山頭火の句が刻まれていた。



うどん供へて母よわたしもいたゞきまする

『草木塔』(孤寒)に収録の句。

昭和13年(1938年)3月6日、母の四十七回忌に詠まれた句。



このみちをゆくよりほかない草のしげくも

出典不詳。

『草木塔』(孤寒)に「このみちをたどるほかない草のふかくも」とある。

正岡子規の句碑


御仏も扉をあけてすゞみかな

出典は 『寒山落木 巻四』 (明治二十八年 夏)。「須磨寺 二句」とある。

菊池寛の句碑


   横光君逝く

行く年や悲しき事の又一つ

昭和22年(1947年)12月30日、横光利一は49歳で没。



東漂西泊
花開草枯
自性本然
歩々佛土

尾崎放哉 の句碑


翌ハ元日がくる佛とわたくし

尾崎放哉の句碑


お寺の秋は大松のふたまた

大谷句佛の句碑


勿軆なや祖師はかみこの九十年

東本願寺第二十三代法主。真宗大谷派管長。

昭和18年(1943年)2月6日、68歳にて示寂。

山頭火の句でも出典が分からないもあるものだ。

よく知らない俳人やよく読めない句碑もあった。

住職は落葉の処理が大変だと言っていた。



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