このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道中山道


中山道和田宿

国道142号は中山道。


長野県小県郡長和町和田は江戸から28番目の宿場町。

国史跡中山道和田宿本陣


 中山道和田宿本陣は、文久3年(1861年)3月の大火で焼失したが、同年11月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町龍願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度、「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行100年記念事業の一環として、日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。

 居室棟・冠木門は旧位置に復元したが、御入門は、既に整備された道路の関係から、旧位置とは異なるこの場所に再建した。

 また、座敷棟については同じく敷地等の関係から復元することはできなかった。

和田村教育委員会

中山道和田宿本陣御入門


 延享2年(1745年)4月6日、 横井也有 は尾張公のお供をして江戸から中山道を下る。10日、和田に泊まる。

 十日

 此夜和田にとまる。

 あるじが子とて惣太郎といへる十二三なる童の、茶など運びてかしこげなるに、見えわたりたる山をとへ、かれハ大田沢、これ(檳)榔山とをしふ。名にしおふくろかミ山にもよらずして、いかで此名をよびけんとゆかし。


 天明2年(1782年)4月13日、五味可都里は和田の駅の増屋に泊まっている。

つかれたる折々は茶店に酒をくみ、あるは見もしらぬ道心などをはなしなぐさみつゝ、酉の下刻ばかりに和田の駅に着。増やにとまる。


 享和2年(1802年)4月2日、太田南畝は和田宿に着く。

かりやす村を過て和田の駅にいれり。駅舎のなかば左の方の寺の門に、風越嶺と書るもゆかしく、立いりてみる。堂の額に、信定禅寺とありて広沢細井知慎の筆なり。土人にとふに、こゝは小県郡風越の里なり、風越の嶺はこれよりはるかに跡のかたなりといふ。


 嘉永6年(1853年)5月19日、吉田松陰は江戸に行く途中、 洗馬 から和田に泊まる。

嶺を下れば諏訪湖あり、湖の旁に諏訪驛あり。驛を過ぐれば和田嶺あり、上下五里半。和田に宿す。行程十里半。


 文久元年(1861年)11月6日、 皇女和宮 は和田宿に宿泊している。

 昭和10年(1935年)8月4日、 与謝野晶子 は上諏訪がら和田峠を越えて 新鹿沢温泉 へ。

わが越ゆる古街道の和田峠常(とこ)あたらしき白樺しげる

『白桜集』 (白樺抄)

 平成17年(2005年)10月1日、和田村は小県郡長門町と合併し、小県郡長和町となった。

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