このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
大慈禅寺
〜種田山頭火句碑〜
熊本市南区野田の緑川と加瀬川に挟まれて、大慈禅寺という寺がある。
熊本県指定史跡
大慈寺境内
当寺は、
曹洞宗
の九州総本山で、山号を大梁山という。弘安元年(1278年)、地頭河尻泰明の妹素妙尼が、曹洞宗開祖の道元の出子で、順徳天皇(一説では後鳥羽天皇)第3皇子の寒巌義尹
(かんがんぎいん)
を請じて、開創した寺で、九州の名刹として栄えた。寺の付近の景色が寒巌のかつて遊んだ中国明州の大慈山の風光に似通っているところから寺名をとり、彼が近くの大渡に長橋を掛けたところから山号をとった。
その後、建物は戦乱等によりしばしば火災に会い、再建され変化した。また、四町四方あったといわれる境内も、河川改修等により狭くなっている。
寺宝として、弘安10年(1287年)の銘がある梵鐘、寒巌義尹文書(以上国指定)や、永仁5年(1297年)の銘をもつ層塔、宝篋印塔、宝塔、山出釈迦図、観音菩薩図、雀竹図(以上県指定)などのほか、多くの仏像、仏画および古文書が残っている。
熊本県教育委員会
山門
七堂伽藍の一つにして、三門とも云う。2階に十六羅漢を安置す。享保5年(1720年)七十八世大梅天常和尚代の建築にして、昭和50年代修復を行う。
大慈禅寺
鐘楼
梵鐘は国指定重要文化財であるが、現在は無い。
種田山頭火句碑
まったく雲がない笠をぬぎ
出典は
『行乞記(一)』
。
昭和5年(1930年)10月26日、高鍋町から都濃町へ向かう途中で詠まれた句。
種田山頭火
(本名正一)は、明治15年山口県生まれの俳人。早大を中退後、郷里で酒造業を営みますが破産し、大正5年に大人が多かった熊本市で古本屋等を始めますがうまくいかず当てのない生活を送っていました。同14年に坪井の
報恩禅寺
望月和尚のもとで出家し植木町味取観音の堂守となりましたが長続きせず、旅に出て俳句と酒の行脚人生を送り、昭和15年松山市で生涯を終えました。この句碑は昭和27年、山頭火を偲ぶ人々の手によって望月師在住のこの寺に建てられもので「まったく雲がない笠をぬぎ」の自筆の句が刻まれています。
昭和27年(1952年)12月6日、建立。
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、4番目の山頭火句碑である。
「ゆかりの深い熊本に山頭火の句碑を一つ贈りたい」と四国松山にいる
大山澄太
氏から丸山学氏(当時熊本商大教授)に云ってきた。昭和二十六年のことである。友人らが集まって場所をさがしたがふさわしいところがない。結局、山頭火を出家得度させた望月義庵和尚が当時おられた大慈禅寺がよかろうとなった。老師もよろこんで承知し、山頭火をなつかしんでくれた。
『山頭火句碑集』
仏殿
七堂伽藍の中心。
建物中央には、御本尊釈迦牟尼佛、両脇侍に迦葉、阿難両尊者を安置、再々の火災を蒙り、現在の木像は、安永8年(1779年)八十一世義梁和尚代再造されたものである。
その他諸佛が奉安されている。
座禅堂
七堂伽藍の一つで、坐禅弁道の道場。
昭和62年、九十六世源雄代落成。
60名の坐禅が出来る。
法堂
(はっとう)
七堂伽藍の一つであって、往時の説法の道場であり又読経供養の殿堂である。正面に聖観世音菩薩、向かって右側に阿弥陀如来、左側に如意輪観世音菩薩坐像を奉安し、昭和59年再建のものである。
裏庭に池がある。
池の畔に芭蕉の句碑があった。
古池や蛙飛ひこむ水の音
出典は『蛙合』(仙化編)。
貞亨3年(1686年)春、
深川芭蕉庵
で詠まれた句。
天保10年(1839年)、建立。
「私の旅日記」
のトップページへ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください