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私の旅日記
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2015年
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本妙寺
〜加藤清正銅像〜
熊本市西区花園に本妙寺という寺がある。
巨大な仁王門から本妙寺境内に入る。
桜並木の長い参道両側に12の塔頭が並ぶ。
参道を進むと、右手に本妙寺大本堂(勅願道場)がある。
本妙寺大本堂(勅願道場)
この建造物は、本妙寺一山の大本堂であり
西南の役
で焼失し、明治17年起工・同27年落慶した。
本妙寺は、
日蓮宗旧六条門流
九州総本寺であり、天正11年
加藤清正
公が父君清忠公菩提のため大阪に建立されたのに始まる。天正16年、清正公が肥後の太守になられたのに伴い熊本城内に移された。慶長16年、清正公が薨去され、ご遺言によってこの中尾山中に御廟所が造営された。慶長19年いまだ城内にあった本妙寺が焼亡したことを機会にこの御廟所の地に移転再建されることになり 元和2年、清正公第七回忌に際し落慶遷仏会が行われた。
この間、慶長10年 後陽成天皇勅願の綸旨を賜り、翌11年永代紫衣を勅許された。
大本堂の門に『勅願道場』と東郷元帥書の掲額があるのは、これに由来する。
胸突雁木と呼ばれる176段の石段がある。
石段の右手に芭蕉の句碑がある。
芭蕉霊神
先頼しゐの木もありなつ木立
出典は
『猿蓑』
(幻住庵の記)。
元禄3年(1690年)4月6日から7月23日まで芭蕉は国分山の
幻住庵
に滞在した。47歳の時である。
浄池廟中門
天和3年(1683年)、
池西言水
は清正の廟を訪れている。
肥後の国加藤清正の廟に詣て
爰に秋あつて朝鮮扇破レけり
『稲莚』
嘉永3年(1850年)12月9日、
吉田松陰
は島原から熊本へ。清正公の廟に拝謁している。
海上七里にして肥後の尾島に着き、高橋を經、清正公の廟に謁し、ヨコテ
(横手)
八幡に謁し、山崎にて池部啓太を訪ふ、在らず。町に宿す。
『西遊日記』
300段の石段
明治31年(1898年)、
夏目漱石
は本妙寺で句を詠んでいる。
本妙寺
永き日を太鼓打つ手のゆるむ也
〔子規へ送りたる句稿 二十九〕
明治43年(1910年)4月28日、河東碧梧桐は本妙寺に参詣した。
四月二十八日。半晴。
鷺村と本妙寺に詣った。お籠り堂の太鼓が南無妙法蓮華経と絶えず鳴っており、お百度を踏んでおる者も四五人、その外清正の廟前でお題目を上げておる者は数知れずあった。
豊臣の遺菰を守って、能く苦節を尽したというても、清正は到底戦国の武士であったように思う。もとより単純な武弁ではなかったであろうけれども、その人格の信仰が、いつか日蓮宗の別動隊の如き異様な形式に落ちたのを奇とせざるを得ぬ。
『続三千里』
加藤清正銅像
中尾山(本妙寺山)の八合目、清正を葬る浄池廟の上手に屹立する。昭和10年(1935年)は清正の没後三二五年忌に当ったので、本妙寺では記念事業として清正の銅像を製作、安置することとし、その製作を長崎出身の彫刻家北村西望に依嘱した。
同年4月、高さ8.2メートルに及ぶ銅像は
上熊本駅
に到着し、現地まで僧達の読経に合せて信者達が紅白の綱を曳いて登り、台座に据付けられた。浄池廟裏手から銅像までの石段も25段区切りで300段につくられた。19年4月戦争末期の金属供出で撤去されたが、35年4月に再建され今日に至っている。
熊本市
島原城
内に北村西望記念館がある。
熊本市中央区花畑町にも
加藤清正公の銅像
がある。
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