このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
新年の旅日記
笹原家の庭
〜高浜虚子の歌碑〜
昭和27年(1952年)11月10日、
高浜虚子
は笹原耕春を訪ね、2泊している。
小國町南小國村芋水車
十一月十日 小國を突破して阿蘇外輪山に至る
かけて見せ外しても見せ芋水車
十一月十二日 昨夜も亦耕春居泊り
『七百五十句』
小国町宮原に笹原邸がある。
笹原家の庭と二つの文学碑
笹原家は小国町の代表的旧家で、当主の芳介(俳号耕春)氏は若い頃から文学に親しみ、特に小国は俳句が盛んであったことから、句作に励み高浜虚子の主宰する俳誌「ホトトギス」で活躍し、昭和34年に同人に推された。
高浜虚子の歌碑
火の国の火の山裾の山並の幾尾根越えて小国やはある 虚子
虚子の句碑
は、全国に現在150以上あるが、虚子の歌を刻んだ歌碑は日本でこの耕春邸のものが、唯一である。
この歌のいきさつについては、昭和28年5月号の中央公論に、虚子の小説「小国」として詳しいが、要約すれば「昭和24年九州入りした虚子一行は。小国を訪れる予定であったが、事情により突然中止した。
小国では、虚子一行が明日は訪れるものと待ち受けていたところへ、この知らせが届き一同落膽したが、中でも耕春の妹梨影女は声を上げて泣いた。後日、虚子にこの事を伝える者があり、この歌の外2首を耕春・梨影女へ贈って来た。
それから3年後の昭和27年11月、
虚子
は小国を訪れ、耕春居に2泊した。昭和53年秋、耕春は、この歌碑を建てた。
高野素十の句碑
一日の阿蘇行その後冬籠 素十
高野素十
は、虚子門弟第一の俳人、茨城県の人、晩年、主宰した俳誌「芹」に、虚子亡き後、輩下の小国俳人を引き連れ、その指導を仰いだ。
素十は、前後7回小国を訪れ、この耕春宅に旅装を解いた。
句碑に刻まれた句は、昭和26年11月、2回目の小国訪問の際、耕春へ贈られたもので、この時、素十は小国に3泊し、明くる11月3日、大観峰吟行の後、内牧温泉の地元俳人の歓迎句会へ臨んだ。
発熱を押してお供する耕春の姿は誰の目にも痛々しく映った。句会終了後、1枚の短冊を所望した素十は、この句をしたためて耕春に贈った。
昭和52年、耕春は自宅の庭にこの句碑を建てた。
笹原耕春邸茶庭
この庭を造った平山繁夫、号砂庭は大分県別府市の人、千葉高等園芸学校造園科から東北帝国大学法文学部美学科に学び、文部省文化課や国会図書館に勤務したが、役人勤めは肌に合わず、退職した。これを惜んだ東北帝大の恩師の世話で、日本女子大学の講師に迎えられたが、生来の人と妥協を許さぬ性癖が禍いして、こゝも退職し故郷の別府へ引き籠ったが、昭和56年64歳で病没するまで、遂に就職せず作句と作庭による、孤独の一生を終った。
彼は文部省の委嘱を受けて、国指定の史蹟の庭園修復や成田山新勝寺の作庭などを手がけた。この庭を造ったのは、彼の晩年で、耕春の好みを多く取り入れ、山採りの櫟や朴を使った回廊式茶庭である。庭奥の左手の四阿でゆっくりくつろいで、ご鑑賞ください。
オニユリが咲いていた。
大観峰
へ。
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