このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

私の旅日記

雲仙温泉〜碑巡り〜
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雲仙地獄 から雲仙宮崎旅館へ。

雲仙宮崎旅館の前に 北原白秋の歌碑 があった。


色ふかくつつじしづもる山の原夏向ふ風の光りつつ来る

  北原白秋 は明治18年、福岡県柳川市の旧家に生まれた。明治40年の夏、 「五足の靴」 の旅で本県を訪れた後、明治42年に処女詩集『邪宗門』を発表して以来、詩人、歌人、童謡作家として多彩な活動を続けた。昭和10年の5月には、三菱重工長崎造船所から所歌制作の依頼を受けて来崎し、雲仙にも訪れた。雲仙つつじが満開の季節、宿泊した旅館で詠んだ12首の中の1首が次歌である。

色ふかくつつじしづもる山の原夏向ふ風の光りつつ来る

 長崎・佐世保の「白秋会」と、白秋が当時宿泊した旅館の協力によって建立された碑には白秋の門下生である島内八郎氏の筆による歌が刻まれ、昭和52年5月に長男隆太郎氏も招かれて除幕式が行われた。

長崎県立長崎図書館「長崎文学散歩」

 雲仙宮崎旅館から国道57号を歩き、温泉神社を過ぎると「湯元ホテル」がある。

 元禄8年(1695年)、「湯元ホテル」は雲仙で最初の宿泊施設として誕生。「湯守の宿」と称される。

「湯元ホテル」の入口に吉井勇の歌碑があった。


雲仙の湯守の宿にひと夜寝て歌などおもふ旅づかれかも

大正9年(1920年)、吉井勇は「湯元ホテル」に泊まっている。

昭和30年(1955年)7月、建立。

温泉神社から原生沼に向かうと、右手に温泉山一乗院歴代先住墓所がある。

墓所の入口に芭蕉の句碑があった。


ひばりより上にやすらう峠かな

出典は 『阿羅野』 (荷兮編)。

貞亨5年(1688年)、 『笈の小文』 の旅で詠まれた句。

『笈の小文』には「空にやすらふ」とある。

明和7年(1770年)3月、建立。

『諸国翁墳記』 に「雲雀塚 肥前嶋原温泉山在 五芳・一甫」とある。

原生沼


 大正9年(1920年)6月はじめ、 斎藤茂吉 は小喀血。7月24日、 島木赤彦 は見舞いに来る。26日、共に雲仙へ。

   温泉嶽療養

      大正九年七月二十六日。島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽
      にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二
      十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる

この道は山峡(やまがひ)ふかく入りゆけど吾はここにて歩みとどめつ

この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越しになりにつらむか

赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道をおりて行きしが

草むらのかなしき花よわれ病みて生(いのち)やしなふ山の草むら


車百合(クルマユリ)が咲いていた。


 昭和30年(1955年)5月17日、虚子は三角港から 島原 へ向かう。18日に雲仙 、19日には 長崎 を訪れている。

山さけてくだけ飛び散り島若葉

      五月十七日、三角港より有明湾を渡る。島原泊り。

『七百五十句』

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