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私の旅日記2014年

日和山公園〜文学の散歩道〜
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酒田市南新町1丁目に日和山公園がある。


(旧)酒田灯台


 この灯台は、木造六角洋式灯台で明治28年(1895)10月20日に最上川左岸河口に竣工した。棟梁は佐藤泰太郎といわれている。

 その後対岸に移され、昭和33年(1958年)高砂に近代灯台が完成するとともに、町内会連合会の熱意によりこの地へ移築保存された。

 この灯台の光源は、当初石油ランプであったが、大正8年(1919年)アセチレンガス明暗紅光に改良され、さらに大正14年(1925年)電化された。

■高さ12.83m   ■周囲18.45m

酒田市教育委員会

日和山公園に文学の散歩道がある。

文学の散歩道案内板

 酒田市には今から1100年前の平安時代・出羽の国府がおかれ現在の山形秋田両県の政治、経済、文化の中心であったと推定される。室町時代、すでに酒田港には36人衆と称する豪商たちが海船を諸国に走らせ、早くから京都文化を受け入れていた。とくに寛文12年(1672年)河村瑞賢が幕命により、西廻り航路を開発してから日本海有数の港として繁栄した。

 日本海に沈む夕陽、秀峰鳥海山、日本三大急流の最上川、景勝を誇る酒田には、芭蕉をはじめ多くの文人墨客が足をとどめ、すぐれた文芸作品を残している。

 酒田市では市制50周年記念事業の一つとして、日和山公園を整備するに当り、来遊文人の文学碑を建立し、「文学の散歩道」をつくり、往時を偲び後世に伝えようとするものである。

   昭和59年10月

酒田市

①松尾芭蕉


   あふみや玉志亭にして
   納涼の佳興に瓜を
   もてなして発句を
   こふて曰 句なきものは喰
   事あたはしと戯れけれは

初真桑四にや断ん輪に切ん
   はせを

初瓜やかふり廻しをおもひ出つ
   ソ良

三人の中に翁や初真桑
   不玉

興にめてゝこゝろもとなし瓜の味
   玉志

   元禄二年晩夏末

 芭蕉が酒田在住の元禄2年(1689年)6月23日、市内の あふみや に招かれて、即興の発句会を催した時の作で、芭蕉が懐紙に残しており、本間美術館に保存されている。

②幸田露伴


峠を雨に越えて 湯の田に
一杯を傾け 吹浦より藤崎を経て
酒田に入りぬ(中略)
福浦より酒田に至る
六里ばかりの間は
いづれも皆海風荒く 砂舞ひて
人の行き悩むところなりがし
佐藤藤蔵 服部外右エ門 曽根原六蔵
本間宗善(註光丘) 堀善蔵等の
人々の松を植え林を造りしが
ために 今の如くなるに
至れりといふ
十九日
酒田を立ちて最上川を渡る
茫々たる盧萩人をも車をも
埋めんとす

幸田露伴『遊行雑記』

幸田露伴

 東京の人。明治文学に巨大な足跡を残している露伴は、明治25年(1892年)7月、土崎港から汽船で酒田に向かったが、嵐のため上陸を断念した。その後明治30年10月18日、友人の大橋音羽と同道して、酒田に来遊している。『遊行雑記』はその時の紀行文である。

与謝蕪村


毛見の衆の舟さす下せ最上川

新米の坂田ははやしもがみ河

 蕪村著『新花摘』に収められた句。寛保2年(1742年)秋、奥州旅行の際、酒田を通っているので、その時の作と思われる。坂田は酒田のこと。「早し」、「新米の積み出しの早さと、最上川の流れの早さの両方にかけられている。碑の文字は天保版『蕪村句集』による。

 ⑤ 斎藤茂吉の歌碑 、⑥ 野口雨情の歌碑 、⑦ 若山牧水の歌碑 、⑨ 常世田長翠の句碑 、⑪ 松尾芭蕉の句碑 、⑫松尾芭蕉像、⑬松尾芭蕉の句碑は前回見たので省略。

田山花袋


飛島の風情に 富めるは われこれを 耳すること久し(中略)
我は 車上遥かに 其島の狭長なる翆色を望みつつ
頻りにさまざまなる 空想に耽りぬ(中略)
われは車夫より この島の趣味ある物語を聞きつつ
海上十数里を隔てたらんと覚しきその小さき島を幾度となく
打見やりぬ(中略)
酒田にやどりし夜は月明かにして積水千里転た旅情の寂寞た
るに堪えず 則ち歩して日和山に登り遥かに過ぎ来し方を顧
るに 金波閃々として山翆微茫 宛然夢中の景に似たり

田山花袋、「羽後の海岸」より

田山花袋

 群馬県館林に生まれ、明治文学に大きな足跡を残した自然主義作家。明治36年(1903年)の夏、秋田から人力車に乗って羽後の海岸を南下し、酒田に1泊、翌日最上川沿いにさかのぼって行った。「羽後の海岸」はその時の紀行文である。

河村瑞賢翁像


 河村瑞賢翁は元和4年(1618年)伊勢に生まれ、すぐれた独創力と行動によって江戸屈指の豪商となった。寛文12年(1672年)幕府の命により、出羽の幕府米を酒田港から江戸に回漕する西回り航路を開発し、わが国の米穀・紅花などの流通と海運の向上に大きく貢献した。

 これにより酒田港の名声は全国に高まり、日本海有数の良港として繁栄する基礎が築かれたのである。

伊東不玉の句碑、正岡子規の句碑などもあったようだが、時間切れである。

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