このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
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予想外のとら氏の栗子隧道前合流に驚く我々。
ともかく、これにて参加者全員集合。
昭和隧道探索の次は「初代隧道」なり。
「いやー、どうもー。こんなオッサンですいませんw」 とら氏、合流直後の第一声。 たしかに一見は温厚そうな壮年の紳士である。 しかし・・・ 雨天の万世大路を単独で突っ込むって凄すぎだろ! しかし当のとら氏は 「んー、なんかこれちゃったねー。」 と余裕すら感じる。 一月前、涙目で撤退したオイラっていったい・・・orz 正直、「合流場所:栗子隧道」と言う発想は無かった。 そんな素敵なとらさんのサイトはこちら http://www.fsinet.or.jp/~tora/ | |
取りあえずとら氏も隧道内部を見てみたいと言うコトで、熊五郎氏が同行して内部へ。 残った自分とMR氏は、一旦外へ出て今度は「初代の穴」へと向かう | |
栗子隧道のすぐ横に開く大きな穴。 一見すると単なる洞窟にも見えなくも無いが、 これこそ一番最初に栗子の山塊に風穴を開けた初代隧道 『栗子山隧道』である。 この栗子山隧道、延長870mと当時としては破格の長大隧道であった。 この隧道が出来る以前は明治9年開通の 宇津ノ谷隧道 (224m)が最も長い隧道であり それを一機に4倍近い距離を持つ隧道を明治13年に作ってしまったのだ。 しかも長いだけではなく馬車が離合できる程の広い幅員を持っているのである。 この隧道を開削する為にわざわざアメリカ製の削岩機を導入するなど 惜しげもなく当時最高の土木技術を導入して工事が進められた。 当時の山形県令であり、隧道開削計画の発案者、そして最高責任者である ご存知万世大路の代名詞たる男『三島通庸』。 この隧道は三島にとって政治家としての最初にて最大のプロジェクトであった。 当時としては無謀とも思える計画を、周りの反対を押し切り己の全てを費やして実行させた、 鬼県令として恐れられた彼も、東西から掘り進められた隧道が貫通した際は 工夫達と抱き合って喜んだという それから半世紀後、昭和の時代になって来るべき車社会に備え隧道は改築された。 初代隧道は、山形側坑口付近を屈折させ冬季の雪の吹き抜けを防止させていたのだが、 昭和の改築時に坑口を直線に変更させられた その結果として初代山形側坑口が残る事になったのだ。 | |
中を覗き込むと更に洞窟っぽい。 http://correlative.org/exhibition/antinomie/zuidou.html このサイトに、画家 高橋由一によって描かれた開通当初の栗子山隧道が掲載されている。(恐らく山形側) 元々の坑口の姿は綺麗な長方形だったのが、長い月日により上部岩盤が崩れだし歪な形の坑内へと変化していったようだ。 ここまでの道程もそうだし、何処の廃道、廃隧道へ行っても思う事だが、ここはホントに人が行きかっていた場所とは思えない状況となっている。 | |
ここが自然洞窟でない何より証拠であるのがコレ。 ノミの後である。 この幾重にも刻まれたノミの跡が、明治初期の人々のリアルな息吹を感じさせる。 ここまで来るのも一苦労だが、それゆえにレプリカでは味わえない本物の感動があるのだ。 | |
さて、内部へと入って行くが当然真っ暗なので目の前がどうなっているのすらわからない。 | |
で、ライトをつけてみれば足元には大きな岩がゴロゴロ。 しかも、坑口から内部へはキツイ傾斜がかかっているので、つまずくと下へと転げていってしまうのでちょっと危険。 足元に気をつけ奥へと入っていく。 転がる巨石に混じって朽ちた木材がうもれていた。 恐らくかつての支保工であろう。 当時はただ単に「ああ、あるな。」程度の感覚であったが、あとから考えてみれば、これもまた貴重な明治の遺構である。 | |
とりあえず此処でも到達の喜びを表してみました。 | |
しばらくして、とら氏、熊五郎氏が昭和隧道の探索を終えて此方にやってきた。 平地の無い坑内。 気をつけていても、いかんせん暗いので時折転びそうになる。 これが現役当時の長さがあったら到底奥地へ行く気にはならないが、現在の終端はそれほど深くない | |
坑口から僅か数十m。 剥き出しの岩盤だった坑壁から突如コンクリートの壁が現れる。 言うまでも無く、これは昭和洞坑壁である。 ここで昭和洞と明治洞が合流しているのだ。 | |
非常に見づらい画像で申し訳ないが、これが明治隧道の末端の画像である。 このすぐ先で完全に空間は閉じている。 現在はこのように閉塞している明治隧道だが、先ほどの昭和隧道の坑壁の薄さを考えればそのうち『再貫通』と言うコトもあるかも。 ただし、明治隧道は昭和隧道に対しやや高い位置にあるので1,2mほどの高さから飛び降りなければならないが。 | |
明治隧道の最深部を確認し、坑内より撤収。 先ほども述べたが、ご覧通り内部より坑口へはややキツイ傾斜となっている。 元々こうだったのか、それとも内部崩落や外からの土砂の浸入よってできたのだろうか? ともかく足元は覚束なく、帰りのときは派手に転んで数十センチほどだが下へと滑り落ちてしまった。 分厚い防寒装備だったので特に怪我もなかったが。 | |
栗子山隧道を出たすぐ脇の所。 かつてここには栗子神社があったのだが、今では見る影もない。 この上部から滑り落ちてきた土砂をどければ、もしかしたら土台か何かが見つかるかもしれないが、個人で出来る作業力ではまず無理であろう。 | |
念願だった山形側の昭和、明治両隧道の探索を終え撤収準備にかかる。 あっという間のようだったが、いつの間にか滞在時間は1時間以上過ぎていたようだ。 過酷な道程によって激しく熱を持っていたエンジンもすっかり冷えている。 エンジンだけでなく、人間にとっても吹きさらし坑口前の広場は少々肌寒い。 比較的温度が保たれている隧道内が恋しいぐらいだ。 | |
とはいえ、福島側探索を控えており時間も無いので早々に下山しなけれない。 再びエンジンに火を入れ、我々は霧に覆われた藪の海へ身を投じていった。 | |
帰りはとらさんにもお世話になりますたw |
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