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国道121号線
大峠
(八谷新道/米沢街道)

山形県米沢市〜福島県喜多方市
平成20年11月2日 来訪







長い峠道を登り詰めた先に現れた貧相な『穴』。
と言うか本当に『穴』としか言いようが無い。
一見したら素彫りにコンクリ噴きつけショボイ隧道にすら見える。

一応坑口左側には谷積みのコンクリブロックが積まれ坑門っぽいモノが出来ているが、どうも元来あったものではなく昭和中期製に築かれたもののようだ。
右側に至っては隧道上部斜面が崩れてきており坑口の5分の1ほど土砂によって塞がってしまっている

この坑口右側の崩落、2001年辺りまではなかったようだが2003年頃から崩れ始めたようだ。
2003年には、宮城県北部を震源とする震度6強の地震があったが会津方面はそれ程強い揺れとはなっておらず、この坑口の崩壊の原因となったかは微妙だ。







開通当初の大峠隧道
左が北側、右が南側の坑口

(両画像とも福島県立図書館 デジタルライブラリより転載)

開通当初の大峠隧道両坑口。
どうやら石組みの校門だったようだ。
此処で気になるのは北側坑口上部の木組み落石よけだ。
どうやら山形側坑口は非常に崩れやすい地質だったようで、
こちらの資料 によると昭和初期の改修時にもこの坑口の作業は難航したようだ。
昭和の大改修時にこの石積みの坑口は一度崩され、
コンクリブロック積みの坑口にリニューアルされた。








土砂の上へ上がり坑口上部を観察。
素彫り穴にも見えた坑口だがこのようにコンクリ、もしくは煉瓦のブロックに巻かれた「キチンとした」隧道であった事が窺える。

2000年以前に探索されたと思われる『 山形の廃道 』様の レポの画像 を見ると既にこの時にはかなり崩れかけているのだが、一部残った坑口の欠片を見ると石積みにも見えるが、劣化したコンクリのようにも見える

ともかくこの崩れやすい北側坑口は昭和中期頃にも崩れかけ再び改修されている可能性は高い。



















一つ此処で意外な発見だったのが、この北側坑口にもかつては扁額が掲げられていたような跡があった事だ。

今となっては見る影もないが完成当初はそれな立派な坑口が此処にあったのだろう。





















隧道内部。
南側坑口付近が水没している。
深さもそこそこあり、少しスピードを出して通ると結構な水飛沫が飛ぶ。
坑内中心部には申し訳程度に通行止めバリケード。
粗雑な感じを受けるコンクリの坑壁には幾多のもの亀裂が入り、そこから地下水が染み出している











一部は完全にコンクリが崩れ落ち、内側の岩盤が見えてしまっている所も。
・・・と言うか、コンクリ薄すぎだろ。
栗子隧道の坑壁もヒドかったが、此方はそれを遥かに上回るしょっぱさだ。
頼りない鉄線ネットと防水シートで申し訳程度に補強されているが、いかにもヤル気の無さをうかがわせる。

当初、これ等の施工を素彫りの岩盤に補強しているのかと思っていたがそういう訳ではないようだ。
よく崩壊した穴を見てみると崩壊しかかっている左右の亀裂の内側に更にコンクリらしきものが見れる。

付け加えて、05年に探索した ヨッキれん氏のレポ の崩壊口の画像を見ると、なんとコンクリブロックが顔を覗かせているではないか。
つまり、かつて坑内はコンクリブロック巻きの坑壁だった事を窺わせる。
南側坑口で見たブロックがこれで辻褄があう。

この隧道を訪れた人々の評価の殆んどは決して高い物ではなかったが、もしかしたらその認識は改めなけれなばならないかも知れない。



それを強く感じさせたのが南側坑口。
坑内を抜け後を振り向くと、予想外に立派な坑口があった事に驚いた。
恐らく坑内の吹き付けと同じく、
この坑口も昭和中期の改修でコンクリを一面塗ったくられたのだろう。
文化的価値なんかへったくれも無く、ただ耐用年数が伸びればそれで良いといった
なげやり改修で往年の姿からは変わり果ててはいるが、
崩壊した南側坑口と比べれば、まだ此方は過去の面影が残っている。
更に皮肉な事に人の手を離れ放置されたお陰で、
上塗りされたコンクリがはがれ初め、かつての姿へと回帰しているようだ。












坑口上部は一年中の殆んどが蔦に覆われて様子をうかがう事が出来ないが、草枯れの季節ならば笠石の意匠がはっきりと見て取れる。
光沢も艶やかかな御影石の扁額も主要街道としての品格を感じさせ、少なくとも隧道が完成した当時は決しておざなりな扱いはされておらず、栗子隧道のように県境の象徴として扱われていたのだろう。















隧道右上を見ると荒い谷積みの石垣.
正直、現地では全く気付いてなかったのだがヨッキれん氏の「大峠」レポにおいて
北側坑口上部右側の崩落面にやはり谷積みの跡のようなものがある事を指摘している。
この石垣、もしかしたら明治隧道の痕跡かもしれない、とヨッキ氏は予想している。
確かに、先ほど見ていただいた開通当時の隧道の石積みと良く似ている。
しかし、昭和初期の改修工事の写真( 土木建築工事画報 S10年9月号参照 )を見ると、
ほぼ完全に坑口を取り壊しているように見えやはり明治期のものでは無い気もしないでもない。

考えうる予測として
  1. 坑口は改修時に取り壊しているが端の部分の石垣は残した。
  2. 全部取り壊し、端の石垣も昭和製。(ただし石材は再利用の可能性あり)


と言ったところだろう











少し離れた場所から南側坑口を望む。
山間奥深くに放棄された隧道。
朽ちたコンクリがまるで白骨死体を思い浮かばせる。
秋が過ぎ、やがて東北の厳しい冬の雪に埋もれ、だひたすら最後の時を迎えるまで黙して此処に佇むのであろう。
















「山形 78km  米沢33km」

この場所から上記の地へは数字以上に離れてしまった。
4輪はもちろん、通常の観念からすれば2輪車ですらこの峠で山形側へ降りることは出来ないはずなのである。
正直、自分も「イヤイヤもう此処を越えるのはムリでしょ。」と思っていて「峠越え、しちゃうよ。」と聞かされた時は本気で「マジか!?」と思った。

でも、こうして自分は山形側から上がってきて、今、此処にいる。
ホント、ビックリである。

しかし、一人でやるのは絶対イヤだし、ムリだ。
死ぬ。
と言うか、バイクで山形側行くのはカンベン。














MR氏と二人で隧道を穴が開くほど・・・と言うか既に開いているので「拡張するほど」眺めていたら、既に他の方たちは先へ向われてしまった。
隧道より先、会津側の旧道は全面舗装されているのでそれ程過酷な道程ではない。
急いで後を追う。



















とは言え、ほぼこちらも放棄されたに等しい道なので路面には晩秋を過ぎ木々から散りきった落ち葉が一面覆われている。
のっぺらぼうになった黄色い標識がポツンと立つ。



















断崖狭路であった山形側に比べると、会津側は幅員もカーブにも余裕を持たせたような感じがする。
地形的な理由も考えられるが、やはりこちらは三島の「直轄領」であった事も影響しているだろう。
山形の各所に「大路」を開鑿して言った手腕をこちらでも発揮しているようだ。
ただし、それは大多数の民衆が望んでいた訳ではないが・・・。














標高1156mの高所から会津盆地へと出来うるだけ緩やかに下りる為の代償として、
尋常の数ではない程の九十九折れを授ける事となってしまった。

その数、47箇所。

徒歩、もしくは馬車での交通の時代なら問題ではなかったのだが、
車両交通が本格化してくると、この膨大な数の九十九折れがネックとなる。
山形側と比べれマシとは言え、大型車が通れば一気に幅員に余裕が無くなり
九十九折れの度に厳しい切り替えしを迫られる事となる。
結局、会津側も近代道路としては失格の烙印を捺される事となった。

以前、東北・北海道を自転車で縦断すると言う旅行に出たのだが、
その復路にて山形の親戚宅に止まり、翌日のルートを地図で模索していた際、
従兄弟から「大峠は止めとけ。」と言われた事を思い出す。
すでにその時、大峠道路は開通していたのだが、
それだけ地元民にとって大峠=使えない道と言うイメージが植えつけられていたのだろう。











大木が幾つか倒れた箇所で「先発隊」に追いつく。。
此処は更に路肩も崩れていて、かなり際どいポイントとなっていた。


















しかし、地獄のような山形側を突破してきた我々にとって
この程度の障害は既に敵ではなかった。
それぞれ手分けをして工作し、突破ルートを開鑿。
この難所を全員を楽々と越えていった












障害を突破した後、また再び各々のペースで山を下って行った。
自分は一々、画像を撮って行くのでどうしてもペースが遅れてしまう。

他の人から遅れすぎてしまってもマズイので、出来るだけ急ぐようにするが晩秋の旧道の景色は素晴らしく、サイトで使いもしない画像を無駄に幾つもとってやはり遅れてしまう。

うーん、自分にどうしろと言うのだ。



















行く手に2機の重機。
地元の熊五郎氏が事前調査をした際、どうやらこの箇所も大きく崩れたらしい。
その時、マトモに通れた部分はバイク一台分。
軽く一本橋だ。

















しかし、すでにこの通り復旧は完了していた。
正直、万世でのトラウマがあるもんで一本橋はイヤだなァ、と思っていたのでコレはありがたかった。

道を塞ぐ重機のアームを潜り、先へと進む。




















崩落復旧箇所を過ぎると完全に路面状況は回復。
だいぶ先の人たちとは離れてしまったので、駆け足で山を下っていく。

この途中、夫婦と思われる自転車に乗った中年の男女と時間差ですれ違う。
この夫婦も通り抜けられないハズの峠道で8台もののバイクと出くわし驚いた事であろう。
そしてまさか、米沢から上がって峠を越えて来たとは夢にも思うまい








会津側の最大の見せ場である「大九十九折れ」.
先を走るMR氏のTT−Rの排気音が遠くなったと思ったらまた近づき、
近づいたと思ったらまた再び遠くなっていく。
画像では3段分の九十九折れしか見えないが、
下段に更にもう一段九十九が隠れている。

日本の廃道 」編集長のnagajis氏はこの峠道を訪れた際、
「ザ・ツヅラ」、「キング・オブ・ツヅラ」と呼んだ。

恐らく九十九折れのハードさでは日光いろは坂程ではないが、
辿っていく距離とカーブ数の上では圧倒的にこちらの道に軍配が上がる。
この道に対抗できる九十九道は、
登りも下りも果てしない九十九折れが続く旧R122の細尾峠ぐらいであろう。
因みにこちらの道をnagajis氏は「九十九の王」と呼んだ大峠に対し、
計算しつくされたカーブが美しい気品さを感じさせる道として「峠の女王」と呼んでいる。









47、全ての「王たる九十九」を曲がりきる。
阿賀川の支流の一つである田付川を渡ると、本当に長く険しい大峠の道の終焉を迎える




















栄光(?)のゴール地点。
やたらと目に付く通行止め看板。
規制期間は「当分の間」と記載されている。
この業界で「当分の間」というのは、「明日から頑張る。」と台詞と同じような物である。

つまり、その日は来ない、と言う事。
















自分がちんたら写真を撮りながら降りてきてしまったので、他の皆さんの大変お待たせする事になってしまった。

申し訳ない。

しばらく、此処で談笑した後、旧道沿いにある喜多方ラーメンの名店「赤れんが」に移動。








大量の焼豚と食べ応えのある太麺が特色の喜多方ラーメン。
今や全国区となったご当地ラーメンの一つであり、喜多方駅前には目も眩む程の数のラーメン店が立ち並ぶが、本当に美味しい喜多方ラーメンは市街地郊外の方へ行かねばならない。

「赤れんが」もまた中心部から離れているが、その味を求め店内には多くの客が訪れていた。
早朝からハードな日程をこなしてきた分、名店のラーメンが人一倍を旨く感じられた。

食事後、一息ついた後に今回の合同アタックは解散となった。
MR氏・SJ−30氏・熊五郎氏は更なるハードな道を求め再び山形入り。
kimi氏・黒jim氏、sin氏、モトラ氏は山形側の封鎖点に残してきた軽トラと「アレ」を回収しに戻る。

そして、自分は関東へと帰路に向かう。

こうして人の手離れた大いなる峠を舞台にした宴が終わった・・・





人気の無い旧国道を、一人。
通り抜けられぬはずの道を通る車は殆んどいない










道路情報案内には当然「通行止め」。
案内板の遙か後方に連なる山々に、その人の手を離れ自然に回帰してゆく峠道が眠る


















バイパスR121とついに合流。
途中、未開通区間が存在するバイパスを経ずに「正式な国道121号線」を通り抜けてこの交差点へとたどり着いてしまった。
この先、旧道は県道16号線の一部となり喜多方駅前へと向かう。

僕は右折し、遙か先の日光市の一部となった今市の町までR121と付き合う事になる。


さらば、大峠。

もう二度と来ねェよ!!





















出演&撮影


MR(Macx-Rider)
SJー30氏
kimi氏
熊五郎氏
黒jim氏
モトラ氏
このサイトの中の人


参照サイト


ORRの道路報告書
DTM
土木学会付属図書館
日本の廃道
福島県立図書館 デジタルライブラリー
山形の廃道
山さ行かねが


ご閲覧、ありがとうございました


補足レポ
〜血と涙と憎悪によって出来た道〜
大峠函嶺越


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