長い峠道を登り詰めた先に現れた貧相な『穴』。
と言うか本当に『穴』としか言いようが無い。
一見したら素彫りにコンクリ噴きつけショボイ隧道にすら見える。
一応坑口左側には谷積みのコンクリブロックが積まれ坑門っぽいモノが出来ているが、どうも元来あったものではなく昭和中期製に築かれたもののようだ。
右側に至っては隧道上部斜面が崩れてきており坑口の5分の1ほど土砂によって塞がってしまっている
この坑口右側の崩落、2001年辺りまではなかったようだが2003年頃から崩れ始めたようだ。
2003年には、宮城県北部を震源とする震度6強の地震があったが会津方面はそれ程強い揺れとはなっておらず、この坑口の崩壊の原因となったかは微妙だ。
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開通当初の大峠隧道
左が北側、右が南側の坑口
(両画像とも福島県立図書館 デジタルライブラリより転載) |
開通当初の大峠隧道両坑口。
どうやら石組みの校門だったようだ。
此処で気になるのは北側坑口上部の木組み落石よけだ。
どうやら山形側坑口は非常に崩れやすい地質だったようで、
こちらの資料
によると昭和初期の改修時にもこの坑口の作業は難航したようだ。
昭和の大改修時にこの石積みの坑口は一度崩され、
コンクリブロック積みの坑口にリニューアルされた。
土砂の上へ上がり坑口上部を観察。
素彫り穴にも見えた坑口だがこのようにコンクリ、もしくは煉瓦のブロックに巻かれた「キチンとした」隧道であった事が窺える。
2000年以前に探索されたと思われる『
山形の廃道
』様の
レポの画像
を見ると既にこの時にはかなり崩れかけているのだが、一部残った坑口の欠片を見ると石積みにも見えるが、劣化したコンクリのようにも見える
ともかくこの崩れやすい北側坑口は昭和中期頃にも崩れかけ再び改修されている可能性は高い。
一つ此処で意外な発見だったのが、この北側坑口にもかつては扁額が掲げられていたような跡があった事だ。
今となっては見る影もないが完成当初はそれな立派な坑口が此処にあったのだろう。
隧道内部。
南側坑口付近が水没している。
深さもそこそこあり、少しスピードを出して通ると結構な水飛沫が飛ぶ。
坑内中心部には申し訳程度に通行止めバリケード。
粗雑な感じを受けるコンクリの坑壁には幾多のもの亀裂が入り、そこから地下水が染み出している
一部は完全にコンクリが崩れ落ち、内側の岩盤が見えてしまっている所も。
・・・と言うか、コンクリ薄すぎだろ。
栗子隧道の坑壁もヒドかったが、此方はそれを遥かに上回るしょっぱさだ。
頼りない鉄線ネットと防水シートで申し訳程度に補強されているが、いかにもヤル気の無さをうかがわせる。
当初、これ等の施工を素彫りの岩盤に補強しているのかと思っていたがそういう訳ではないようだ。
よく崩壊した穴を見てみると崩壊しかかっている左右の亀裂の内側に更にコンクリらしきものが見れる。
付け加えて、05年に探索した
ヨッキれん氏のレポ
の崩壊口の画像を見ると、なんとコンクリブロックが顔を覗かせているではないか。
つまり、かつて坑内はコンクリブロック巻きの坑壁だった事を窺わせる。
南側坑口で見たブロックがこれで辻褄があう。
この隧道を訪れた人々の評価の殆んどは決して高い物ではなかったが、もしかしたらその認識は改めなけれなばならないかも知れない。
それを強く感じさせたのが南側坑口。
坑内を抜け後を振り向くと、予想外に立派な坑口があった事に驚いた。
恐らく坑内の吹き付けと同じく、
この坑口も昭和中期の改修でコンクリを一面塗ったくられたのだろう。
文化的価値なんかへったくれも無く、ただ耐用年数が伸びればそれで良いといった
なげやり改修で往年の姿からは変わり果ててはいるが、
崩壊した南側坑口と比べれば、まだ此方は過去の面影が残っている。
更に皮肉な事に人の手を離れ放置されたお陰で、
上塗りされたコンクリがはがれ初め、かつての姿へと回帰しているようだ。
坑口上部は一年中の殆んどが蔦に覆われて様子をうかがう事が出来ないが、草枯れの季節ならば笠石の意匠がはっきりと見て取れる。
光沢も艶やかかな御影石の扁額も主要街道としての品格を感じさせ、少なくとも隧道が完成した当時は決しておざなりな扱いはされておらず、栗子隧道のように県境の象徴として扱われていたのだろう。
隧道右上を見ると荒い谷積みの石垣.
正直、現地では全く気付いてなかったのだがヨッキれん氏の「大峠」レポにおいて
北側坑口上部右側の崩落面にやはり谷積みの跡のようなものがある事を指摘している。
この石垣、もしかしたら明治隧道の痕跡かもしれない、とヨッキ氏は予想している。
確かに、先ほど見ていただいた開通当時の隧道の石積みと良く似ている。
しかし、昭和初期の改修工事の写真(
土木建築工事画報 S10年9月号参照
)を見ると、
ほぼ完全に坑口を取り壊しているように見えやはり明治期のものでは無い気もしないでもない。
考えうる予測として
- 坑口は改修時に取り壊しているが端の部分の石垣は残した。
- 全部取り壊し、端の石垣も昭和製。(ただし石材は再利用の可能性あり)
と言ったところだろう
少し離れた場所から南側坑口を望む。
山間奥深くに放棄された隧道。
朽ちたコンクリがまるで白骨死体を思い浮かばせる。
秋が過ぎ、やがて東北の厳しい冬の雪に埋もれ、だひたすら最後の時を迎えるまで黙して此処に佇むのであろう。
「山形 78km 米沢33km」
この場所から上記の地へは数字以上に離れてしまった。
4輪はもちろん、通常の観念からすれば2輪車ですらこの峠で山形側へ降りることは出来ないはずなのである。
正直、自分も「イヤイヤもう此処を越えるのはムリでしょ。」と思っていて「峠越え、しちゃうよ。」と聞かされた時は本気で
「マジか!?」と思った。
でも、こうして自分は山形側から上がってきて、今、此処にいる。
ホント、ビックリである。
しかし、一人でやるのは絶対イヤだし、ムリだ。
死ぬ。
と言うか、バイクで山形側行くのはカンベン。
MR氏と二人で隧道を穴が開くほど・・・と言うか既に開いているので「拡張するほど」眺めていたら、既に他の方たちは先へ向われてしまった。
隧道より先、会津側の旧道は全面舗装されているのでそれ程過酷な道程ではない。
急いで後を追う。
とは言え、ほぼこちらも放棄されたに等しい道なので路面には晩秋を過ぎ木々から散りきった落ち葉が一面覆われている。
のっぺらぼうになった黄色い標識がポツンと立つ。
断崖狭路であった山形側に比べると、会津側は幅員もカーブにも余裕を持たせたような感じがする。
地形的な理由も考えられるが、やはりこちらは三島の「直轄領」であった事も影響しているだろう。
山形の各所に「大路」を開鑿して言った手腕をこちらでも発揮しているようだ。
ただし、それは大多数の民衆が望んでいた訳ではないが・・・。
標高1156mの高所から会津盆地へと出来うるだけ緩やかに下りる為の代償として、
尋常の数ではない程の九十九折れを授ける事となってしまった。
その数、47箇所。
徒歩、もしくは馬車での交通の時代なら問題ではなかったのだが、
車両交通が本格化してくると、この膨大な数の九十九折れがネックとなる。
山形側と比べれマシとは言え、大型車が通れば一気に幅員に余裕が無くなり
九十九折れの度に厳しい切り替えしを迫られる事となる。
結局、会津側も近代道路としては失格の烙印を捺される事となった。
以前、東北・北海道を自転車で縦断すると言う旅行に出たのだが、
その復路にて山形の親戚宅に止まり、翌日のルートを地図で模索していた際、
従兄弟から
「大峠は止めとけ。」と言われた事を思い出す。
すでにその時、大峠道路は開通していたのだが、
それだけ地元民にとって大峠=使えない道と言うイメージが植えつけられていたのだろう。
大木が幾つか倒れた箇所で「先発隊」に追いつく。。
此処は更に路肩も崩れていて、かなり際どいポイントとなっていた。