このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

高萩炭鉱櫛形鉱専用線

十王町と共に歩んだ炭鉱〜

 

高萩炭鉱櫛形鉱専用線の基礎知識

開設 昭和18(1943)年11月

廃止 昭和51(1976)年3月31日

茨城県多賀郡十王町日立市十王)友部

全長 910m

 

 

十王駅の基礎知識

開設 明治30(1897)年2月25日:川尻駅として開設

改称 平成16(2004)年3月13日:川尻駅→十王駅へ

 

 

十王町の変遷

明治22(1889)年 櫛形村と黒前村が編成される

昭和30(1955)年2月 櫛形村と黒前村が合併し十王村へ

昭和31(1956)年1月1日 町制施行により十王村→十王町

平成16(2004)年11月1日 日立市と合併

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

常盤炭田最南の炭鉱

福島県双葉郡富岡町から茨城県多賀郡十王町(当時)まで南北に大きく広がる常盤炭田であるが、この櫛形(くしがた)炭鉱はある程度以上の開発規模を持つ炭鉱では最も南に存在する。

この櫛形地区に開発の手が入ったのは昭和12(1937)年と遅かった。

昭和17(1942)年には東邦炭鉱㈱櫛形鉱となり、更に昭和20(1945)年には合併により高萩炭鉱㈱櫛形鉱となった。

 

閉山は茨城県の地中掘り石炭炭鉱の中では最も遅い昭和48(1973)年1月である。

 

 

茨城県内の運炭鉄道

茨城県には戦前から数多くの運炭鉄道が存在したが、そのいずれもが軌間が508mm〜762mmの軽便規格の軌道であった。

昭和12(1937)年から戦時色をますます強くしていった日本にとってエネルギーの要である石炭の増産は国策として最も重要な案件の一つであった。

 

それまでの茨城県内の運炭鉄道は、馬力から蒸気、ガソリン(ディーゼル)機関車への牽引方法の変化こそあったものの軌間は軽便規格のままであり、

接続駅での積替えや絶対的積載量の少なさによる効率の悪さは如何ともし難いものがあった。

 

昭和16(1941)年の太平洋戦争で石炭増産体制に拍車がかかった日本では常盤炭田内の運炭鉄道に着目し「専用側線」として改軌、新設が急がれた。

     常磐炭鉱鹿島鉱線 (福島県湯本) ② 関本炭鉱、常磐炭鉱神ノ山鉱線 (関本) ③ 重内炭鉱、山口炭鉱線 (磯原) ④ 常磐炭鉱中郷鉱線 (南中郷) ⑤高萩炭鉱、向洋炭鉱線(高萩)

の5路線である。

 

しかし、この5路線全部が終戦までに敷設を終了できなかった。当時の国の上層部に先を見通せる人材がいなかった事の何よりの証である。

昭和19(1944)年後半から敷設を開始したのでは間に合う筈も無い。

もう2年着手が早ければ事態は僅かながらも違っていたかも知れない。

 

 

櫛形鉱専用線

一方、東邦炭鉱㈱櫛形鉱は上記の専用側線建設の流れとは別個に川尻駅からの専用線の敷設を昭和16(1941)年頃より計画していた。

全長が900m程と短い事、敷設後の鉄道敷地の管理面などの面も考慮されたと思われる。

 

専用線は茨城県内で唯一、1067mm軌間の運炭鉄道として戦時中の昭和18(1943)年11月に開通した。

戦時中はアメリカ軍の空襲から専用線を守る為に専用線の偽装(カムフラージュ)などの様々な苦労があったと伝えられる。

 

戦後は櫛形鉱の石炭搬出に貢献し、昭和48(1973)年の櫛形鉱閉山まで働き続けた。

閉山後はしばらく川尻駅の引込線の様な扱いであったが、昭和51(1976)年頃線路が撤去されたという。

 

櫛形鉱の跡地は十王町役場として活用され、現在は「日立市役所十王支所」となっている。

 

 

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