このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

大日本炭鉱勿来鉱専用鉄道 3

 

 

 

 

旧国道289号線を渡った専用鉄道は四沢作田地区に入る。

 

大日本炭鉱は昭和22(1947)年に専用軌道(当時)と丘陵に挟まれたこの地に炭鉱住宅を建設した。

 

初期には150戸ほど建っていたと言う。昭和30年代中期には200戸強、1000人弱が暮らす一大住宅街を形成していた。

 

今ではモダーンな住宅が建ち並び、往時を偲べるものは無い。

 

 

 

 

 

 

 

昭和50年の航空写真から四沢炭鉱住宅の様子を見る。「国土画像観覧システム」より。

 

航空写真に資料「黒ダイヤの記憶」おやけ こういち氏著 から炭鉱住宅の施設を書き写してみた。

 

風呂、床屋、生協、商店など生活に必要なものは一通り揃っている。

 

それでも不足するものは川向こうの窪田まで行けば事足りる。

 

なかなか便利な立地だと思うが…問題は職場(炭鉱)から3kmほど離れている事だ。

 

 

 

 

 

 

 

(参考)通勤手段

戦後、常磐炭田内の炭鉱では山元(炭鉱)と炭鉱住宅が2〜3km程離れている事が少なくなかった。炭鉱では通勤の便を図る為に従業員輸送用の客車(気動車)を用意した。

常磐炭鉱専用鉄道 高倉線 では今でも気動車の車庫が残っている。

 

大日本炭鉱でも四沢炭鉱住宅と炭鉱との通勤のために客車を用意した。

昭和22年〜31年までは鉄道聯隊より払い下げられた貨車を改造した客車を運行していた。

改軌後の昭和32年からは鹿島参宮鉄道(関東鉄道)竜ヶ崎線で運行されていた「キハ11型」を譲り受けて運行していた。

 

左の画像は四沢炭鉱住宅における停留所の位置を書き込んでみたものである。(一部推測)

610mm時代は住宅街の中央、1067mm時代はやや川沿いに設置されていたものと思われる。

 

 

 

 

(参考)大日本炭鉱と軍部との密接な関係

昭和10年代後半、戦争の激化に伴い軍部との結び付きを強めた大日本炭鉱は鉄道聯隊より K2型蒸気機関車を7機導入 (払い下げ)するなどして輸送力の増強を図った。

戦後、通勤用客車に使われた貨車も恐らくは97式軽貨車の改造であろう。K2型蒸気機関車が97式軽貨車を牽く…戦時中の津田沼(聯隊の所在地)のような光景が戦後も勿来で見られたのだろう。

 

勿来駅近くには戦時中、風船爆弾(フ号兵器)の発射場が存在した。敗戦後、大日本炭鉱は直ちに風船爆弾の証拠を工場から炭鉱に運び去り使われなくなった坑口に廃棄したと言う…軍部との強い結び付きを窺わせる話である。

 

大日本炭鉱と軍部…もっと調べてみようと思う。専用軌道の果たした別の役割も見えてくるかも知れない。

 

 

 

 

上の画像はホームページ「伊勢崎軌道株式会社」のにわとり氏が作成したK2型蒸気機関車と97式軽貨車の画像である。通勤用客車は97式の下回りを使用し、その上に極めて簡素な客室を架装した物だったようだ。

 

 

すっかり話が逸れてしまった。探訪に戻ろう。

 

鉄道跡を見つけ、四沢作田の住宅街を通り抜けようとした私だが、出口は見当たらなかった。

 

仕方が無いので一度蛭田川の堤防まで戻り、鉄道跡をさがす。

 

画像の地点が専用鉄道跡のようだ。今では民家の庭先になっており、簡易的なパイプで仕切られている。

 

 

 

 

 

 

 

振り返るとそこには見事な専用鉄道跡が残っていた。

 

関本炭鉱専用側線 を思い起こさせる光景だ。

 

築堤と言うほど盛り上がっていない道床だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

専用鉄道跡はしばらくの間、蛭田川の堤防を右手に見ながら炭鉱へ進む。

 

未舗装の畦道と言った風情だが、この道は市道である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄道跡(右)と畦道(左)は並行しながら進んでいく。

 

鉄道により農地が分断されたので、保障的な意味合いもあって畦道が作られたのであろう。

 

これも関本炭鉱専用側線と同様の風景だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄道跡は舗装路へと変わる。

 

勿来市街のバイパス的な役割もあるのだろうか、数台の車とすれ違った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄道跡を辿って行くと、よく整備された市道と交差する。

 

鉄道跡は市道を過ぎてもなお直進しているように見えるが、実はこの道は鉄道跡ではない。

 

鉄道跡はこの市道の先からしばらくの間消滅してしまっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

専用鉄道の存在した方向を撮影する。

 

かつてはこの方向に真っ直ぐ専用鉄道が敷かれていた。

 

昭和50年の航空写真でも専用鉄道跡が確認できる。

 

何故無くなってしまったのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

炭鉱へ向かう途中、大槻地区でこのようなものを見つけた。

 

「竣功記念」と記してある。

 

この記念碑から専用鉄道跡が消滅してしまった理由が読み取る事が出来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(前略)

かつて日本産業振興のエネルギー供給源として石炭産業華やかなりし明治、大正、昭和の時代、大日本炭鉱の鉱区として石炭の採掘が行なわれその影響により水源地の崩落による湧水の減少、地盤沈下による田面の不均平、漏水、配水不良による湿田等の被害が発生した為、関係諸機関に早期復旧の陳情を重ねてきたところ昭和五十九年鉱害地区として認定され被害地の復旧が実現するところとなった。

 

…見ての通りである。勿来鉱は長年にわたって広範囲を採掘していた。閉山後の様々な弊害が起こるのはどこの炭鉱でもある事だが、採炭していた大日本炭鉱は昭和42年に消滅している。

復旧するべき会社が存在しないので、いわき市主導の事業として鉱害復旧と基盤整備が行なわれた。

 

その際に、専用鉄道跡も消滅したのだ。

 

 

 

 

大槻地区より先の酒井地区にも「耕心」と書かれた記念碑があった。

 

内容は大槻地区のものと似た様なものである。

 

鉱害復旧事業、基盤整備事業は昭和59年〜平成3年まで行なわれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酒井地区の碑の脇から専用鉄道の存在した方向を撮影する

 

画像奥に見える道路が先ほどの市道である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

炭鉱の方を向いて撮影する。

 

白い軽自動車の向こうから鉄道跡が復活する。

 

炭鉱跡まではもうすぐだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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