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アンコール遺跡−30 地雷を踏んだらサヨウナラ
1973年11月22日もしくは23日、一人の日本人カメラマンが単身アンコールワットへ潜入し、そのまま消息を絶った。カメラマンの名は 一ノ瀬泰造 という。今回、飛行機の中で「 地雷を踏んだらサヨウナラ 」(講談社文庫)という彼の撮影した写真と手紙を中心にまとめられた文庫本を読んだ。浅野忠信主演で映画化されたので、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれない。タイトルは、消息を絶つ直前の11月18日付の、友人に宛てた手紙の一文による。
旨く撮れたら、東京まで持って行きます。
もし、うまく地雷を踏んだら、サヨウナラ!
今から同居している多勢の子供たちを撮ります。
一ノ瀬泰造が最初にカンボジアに入国したのは1972年3月。ロン・ノル政権とクメール・ルージュの 内戦 の真っ只中である。当時シェムリアップは最前線であり、 アンコール・ワット はクメール・ルージュの支配下にあった。宗教や文化を否定したクメール・ルージュがアンコール・ワットを破壊しなかったのは奇跡のように思える。内戦が始まってからアンコール・ワットを写真に撮った者はおらず、撮影に成功すれば世界的なスクープになるところであった。
1972年8月にはカンボジア軍に追放されてベトナムに向かい、ベトナム戦争を撮影。戦闘シーンだけでなく、ベトナムの市民の生活も撮影している。ベトナム戦争の終戦は1973年1月のことであり、停戦の日や、米軍に釈放される捕虜を撮影している。
その後、内戦の続くシェムリアップに戻り、1973年11月22日または23日、単身アンコールワットへ潜入し、そのまま消息を絶った。ご両親により死亡が確認されたのは1982年である。
一ノ瀬泰造の墓は、 東バライ 周辺のプラダックという村にある。帰国後にその存在を知ったので、今回は訪問できなかった。地球の歩き方にも載っていない。
一ノ瀬泰造が、死ぬ前にアンコール・ワットを見たのかは定かではない。写真が残っていないからだ。正確な死亡日や死因も不明である。本当にうまく地雷を踏んだのかもしれないし、クメール・ルージュによって処刑されたのかもしれず、政府軍の流れ弾に当たったのかもしれない。
ただ、たとえ写真は残っていなくても、彼の眼がアンコール・ワットを捕らえ、その雄姿を脳裏に焼き付けたと信じたい。
現在、アンコール・ワットを観光していても、戦乱の跡を感じることはない。一ノ瀬泰造が命を賭して潜入しようとした場所も、今では歩き回ることが出来る。シェムリアップの道端では子供が遊び、水牛が草を食べている。15年ほど前まで内戦が繰り広げられていたとは信じがたい、一見のどかな光景である。
しかし、観光客に写真や絵葉書を売り付けて生計を助ける幼児、地雷博物館の前にいた片足の少年、 タ・プローム で地面にござを敷いて楽器を演奏していた地雷被害者など、ふとした拍子に戦場が、ポル・ポトが姿を現す。
記憶違いかも知れず、やや大袈裟かもしれないが、シェムリアップでは老人をあまり見掛けなかったような気がする。ポル・ポト時代に5人に1人が犠牲になったため、というのは考えすぎだろうか。
戦争は、ポル・ポトは、まだ終わっていない。傷口はまだ癒えていない。
アンコール・ワットの第三回廊に腰掛け、 中央祠堂 を見上げながら、しばし考えた。栄華を誇ったクメール王朝と、戦乱に巻き込まれて発展が遅れてしまったカンボジア。両方ともまぎれも無い真実である。文明の寿命は短く、人間の寿命はさらに短い。
正直に言って、カンボジアは発展途上国である。道路は整備されておらず、観光地や都市部以外では至る所に地雷が埋まっている。
それでも、植民地統治は終わり、その後の内戦と恐怖政治も終わり、今では平和な独立国となった。一ノ瀬泰造のような戦場カメラマンが、再びカンボジアで仕事をするようなことが無いよう、心から祈る。
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