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菅江真澄ゆかりの地
『わがこゝろ』
天明3年(1783年)8月13日、菅江真澄は
姨捨山
の月を見に出かける。
天明三の年の春より、信濃の國筑摩の郡に在りて、此秋更級や姨捨山の月見てんと、思ふどちうちものがたらひて、葉月の十三日、いまだ明けはてぬより旅裝ひして、本洗馬の里を出でゝ野原になれば、
更級の月思ふとてしるべ無き闇にぞたどる野邊の中路
或人、虫も曉は聲うちよわるかなど、聞きつゝ言ふに、
夜とゝもに照る月かげを霜と見て虫の音
小さき河に渡したるを
不二橋
といへり。此あたりより富士の見えけるにやいかゞ。けふは雲深ければ、
橋の名の富士こそ見えねくもる日はそこと心をかけて渡りぬ
會田の驛
に至りて、夕近ければ宿つきたり。
麻績の里
に休らひて、女の機織れるを見つゝ詠めたり。
賤機の織り縫ふわざのいと無さやこゝにをうみの里のわざとて
市の川渡り
猿が番場
に登る山路にかゝりて、雨のいたく降り出でて田のこひぢを渡るが如にぬかり、山阪のふみも止まらず、脛も横ざまに行きて、倒れ或はつまづきひざまづいて、心すく思へど足の任せねば、休らひ休らひ歩み困
(こう)
じて、老いたるも若きも細き杖を力に辛うして下りはてゝ、
更級の月に心のいそがれて猿が馬場
(うまば)
も足とくぞ過ぐ
と戯
(たぶ)
れ口すさびて、日高う中原といふ處に到り宿を定む。こゝは更級の郡更科の里なれば、嵐を分けて出づる月を見てん。
十五日。雨雲の餘波無う晴れて、朝びらけ行くに、月の山口を喜びうち言ひて、宿を出でゝ桑原といふ名のあれば、
草枕かり寢の露もくははらはで袖に月やどさなん
同じ處に詠を、直堅、
里の子がかふこのまゆのいとなひも程へて淋し秋の桑原
さればにや、其昔捨てられし伯母にたぐへけん、祖母石、姪石、小袋石、甥石など侍ると、案内もほゝゑみてをしへたり。暮れなば再び登り來ん。いざ麓の
神事(かんわざ)
に詣でんと、更科の里に降り、八幡といふ處に至るに、ひきつらなれる軒毎に、色々の火ともしをかけ、人多く群れ立つ中に、かたゐ等錢もらふとて、谷水の樋の如く落ちかゝるに赤裸の優婆塞、こりめせ、こりの代り代りと左右の手に小笹束ね持ちて打振り、路の傍にかたしろ作りたるは、夜邊の花火のはてふるひたる也けり。
こたびの雨に水いや高く溢れて、塘
(つゝみ)
などところところ懐れたれば、
丹波島
を左に入りて、廣き河原に出でたり。
行き行きて
善光寺
の御寺に至りぬ。詣づる人多く賑はへるさまは、昔見しに事かはらず。暫し御前に在りて、ぜむかうじといふことを句毎の上に置いて、
せきあへずむせぶ涙にかきくれぬうき身の罪をしれる心に
旅のあれこれ
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