このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

菅江真澄ゆかりの地


『わがこゝろ』

天明3年(1783年)8月13日、菅江真澄は 姨捨山 の月を見に出かける。

 天明三の年の春より、信濃の國筑摩の郡に在りて、此秋更級や姨捨山の月見てんと、思ふどちうちものがたらひて、葉月の十三日、いまだ明けはてぬより旅裝ひして、本洗馬の里を出でゝ野原になれば、

   更級の月思ふとてしるべ無き闇にぞたどる野邊の中路

或人、虫も曉は聲うちよわるかなど、聞きつゝ言ふに、



   夜とゝもに照る月かげを霜と見て虫の音

小さき河に渡したるを 不二橋 といへり。此あたりより富士の見えけるにやいかゞ。けふは雲深ければ、

   橋の名の富士こそ見えねくもる日はそこと心をかけて渡りぬ



會田の驛 に至りて、夕近ければ宿つきたり。



麻績の里 に休らひて、女の機織れるを見つゝ詠めたり。

   賤機の織り縫ふわざのいと無さやこゝにをうみの里のわざとて



市の川渡り 猿が番場 に登る山路にかゝりて、雨のいたく降り出でて田のこひぢを渡るが如にぬかり、山阪のふみも止まらず、脛も横ざまに行きて、倒れ或はつまづきひざまづいて、心すく思へど足の任せねば、休らひ休らひ歩み困(こう)じて、老いたるも若きも細き杖を力に辛うして下りはてゝ、

   更級の月に心のいそがれて猿が馬場(うまば)も足とくぞ過ぐ

と戯(たぶ)れ口すさびて、日高う中原といふ處に到り宿を定む。こゝは更級の郡更科の里なれば、嵐を分けて出づる月を見てん。



十五日。雨雲の餘波無う晴れて、朝びらけ行くに、月の山口を喜びうち言ひて、宿を出でゝ桑原といふ名のあれば、

   草枕かり寢の露もくははらはで袖に月やどさなん

同じ處に詠を、直堅、

   里の子がかふこのまゆのいとなひも程へて淋し秋の桑原

さればにや、其昔捨てられし伯母にたぐへけん、祖母石、姪石、小袋石、甥石など侍ると、案内もほゝゑみてをしへたり。暮れなば再び登り來ん。いざ麓の神事(かんわざ)に詣でんと、更科の里に降り、八幡といふ處に至るに、ひきつらなれる軒毎に、色々の火ともしをかけ、人多く群れ立つ中に、かたゐ等錢もらふとて、谷水の樋の如く落ちかゝるに赤裸の優婆塞、こりめせ、こりの代り代りと左右の手に小笹束ね持ちて打振り、路の傍にかたしろ作りたるは、夜邊の花火のはてふるひたる也けり。



こたびの雨に水いや高く溢れて、塘(つゝみ)などところところ懐れたれば、 丹波島 を左に入りて、廣き河原に出でたり。



行き行きて 善光寺 の御寺に至りぬ。詣づる人多く賑はへるさまは、昔見しに事かはらず。暫し御前に在りて、ぜむかうじといふことを句毎の上に置いて、

   せきあへずむせぶ涙にかきくれぬうき身の罪をしれる心に



旅のあれこれ に戻る



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください