このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
翁 塚
太宰府天満宮
〜夢 塚〜
太宰府市宰府に
太宰府天満宮
がある。
心字池の東側に「夢 塚」があった。
天保14年(1843年)、五段麻斗丈が太宰府天満宮の梅林に建立。
天保14年(1843年)10月12日、菊屋平兵衛が松尾芭蕉の百五十年忌にあたり、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
の辞世より、芭蕉は、若いころに大宰府に参詣した事を記し、再度参拝の夢を持っていたとして、建碑したもの。芭蕉は連歌の先達、
宗祇
のように筑紫路への旅を夢みていたという。
『夢塚集』(宇逸・石岱・野竹編)刊。
夢塚銘
千載遠しといへども同気相求れば人麿の碑・西行の塚目前の記念となり、万里渺茫たれども同声相応れば水茎の跡に李杜の腸を探るとかや。茲に吾徒の祖師
芭蕉の翁、元祿のむかし浪花津の仮寐に蘆の枯葉の露と消玉ひしに空骸を
木曽塚
に埋まゐらせしより以来、折ふしの弔ひ毎に追慕墮涙の塚を営む事、其数あげて算ふべくもあらず。当時行脚斗藪の結縁ある名所旧跡はいふも更也、東北の巷西南の海浜に至るまで、風景おのづから遺詠になふものあれば是を石に勒してながく世に朽ざらんことを謀る。まして
故郷塚
・
笠塚
・
発句塚
・松島の
朝よさ塚
・あかしの浦の
蛸壺塚
、此類は殊に紅涙を□くべき因縁仮初ならざるものなるをや。茲に亦仮初ならぬ一基の塚あり。吾一とせ洛に遊び、翁の消息集を得たり。是を閲するに親友・門人贈答の文なり。中に金沢の
北枝
に送り給ひし文あり。其略に曰、
二十六七年以前同行三人にて太宰府に参詣いたし候えども、宗房時分にていまだ知音もなく見物所計尋帰候。所々発句も留候へども調はぬ事のみにて候間、再歩みを運び吟じ直し度放念に候。此度は其元同行いたし度、[ ]候へば、十人にもまさる力を得候事と候間、□□の御返事待入候と云々
いかにぞや、旻天齡をかし玉はず、生前の本意空しく終に黄泉の旅に頭陀を負玉ひしこそ、吾徒のうらみ於今おもひやられ侍りけれ、さるにても「枯野をめぐる」と口ずさび玉ひし夢路にや遊びて御座らん、翩々たる胡蝶のよしやうつゝにはあはずとも、夢魂の御座し所を營み心づくしの結縁をし奉らんと、好士かれこれかたらひ、かねてより物し侍りけるに、今としは既に一百五十年の弔ひ、各此時にあへる隨喜の力をつくし、土を運び石を疊てかたの如くの功なりぬ。アゝ
聖廟此地に立せ給はずんば、此 翁の因縁こゝに至る事を得んや、是誠に 神徳のしからしめ玉ふにこそ。□之 神の愛し玉ふ梅の林を乞、夢塚の二字を標して誹諧幽玄の霊を納む。伏希くは、氷魂長へに香しく松の緑こまやかに正風の声颯々たらん事を。合掌敬白、
五段麻斗丈謹識
「金沢の北枝に送り給ひし文」は偽簡(偽物の手紙)とされている。芭蕉は太宰府には来ていない。斗丈は秋月の人。博多に住む。通称三角勘三郎。
明治2年(1869年)、現在地に移転。
翁 塚
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