このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

新年の旅日記

小松天満宮〜芭蕉の句碑〜
indexにもどる

小松市天神町の梯川中洲に小松天満宮がある。

小松天満宮


 元禄2年(1689年)7月24日、芭蕉は 金沢 から小松へ向かう。27日、芭蕉は山中温泉へ。8月6日、芭蕉は山中温泉から小松に戻りに生駒万子に逢う。万子は小松天満宮の宮司能順と芭蕉を合わせた。

一 五日 朝曇。昼時分、翁・ 北枝那谷 へ趣。明日、於小松ニ、生駒万子為出会也。 従順シテ帰テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。 全昌寺 へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。

『曾良随行日記』

参道の途中に 芭蕉の句碑 があった。


あかあかと日ハ難面も秋の風

金沢から小松へ向かう途中に詠まれた句。

神門


小松城と小松天満宮

 加賀藩三代藩主前田利常公は寛永16年(1639年)に3藩(加賀藩、富山藩、大聖寺藩)分立して藩主を退任し、翌寛永17年に、一国一城令の特例として修築の認められた小松城に入城され万治元年(1658年)まで監国されました。小松城は梯川沿いの沼地に造成され、 金沢城 のほぼ2倍という広大なものでしたが、明治維新後の廃城令により取り壊され、二の丸・本丸跡地に創設された石川県第四中学校(現在の小松高等学校)の校地に保存されている小松城天守台が当時の面影を伝えています。右図は小松城と当社とのかかわりを示しています。利常公により明暦3年(1657年)2月25日に菅原道真公を祀る社として現在地に創建された小松天満宮は、小松城天守台の鬼門方向に立地(右図の黒線)し、利常公が在城した3つのお城(小松城、金沢城、守山城)を結ぶ線上に立地しています。また、白山山系の妙法山を越えて昇る冬至の日の出が神門を通り本殿に達するように社殿と神門(共に、国重要指定文化財)が配置されています(右図の赤線)。右図の白線は、安永9年(1780年)より5年間小松御城番を務めた富田景周の記す小松城の水回りを示しています。小松の町人板屋兵四郎を登用して辰己用水を完成させた利常公ですが、どのような仕掛けでこのように水を回していたのでしょうか。「小松城内分絵間図」(小松城のもっとも詳細な絵図面)と現行の国土基本図との比較検討により、小松城の水口は当社の十五重石塔(小松市指定文化財)の真南(右図の白点線)にあったことが判明しました。十五重の塔は大変めずらしいものですが、頂上部に相輪でなく宝珠をもつことから仏塔として建立されたものではありません。本石塔は社殿の東方に黒色の坪野石を使用して建立されており、また、十五重塔に面する水口より水をとりいれ、北から南へ、また東から西にまわしてから城内側の堀に流したり、本丸の南西方より流出させる等の遣水の方法より、小松城の作事には、利常公が所持していたと推定される『作庭記』(日本最古の庭園書)の影響が窺われます。

十五重の石塔


十五重の石塔秘話

前田利常公は当宮を創建された翌年、万治元年10月小松城で逝去されました。その折5人の追腹衆の1人品川左門とこの石塔にまつわる秘話が伝えられています。

利常公の遺命によって棺柩の供奉を命ぜられた品川左門は小松から金沢へ向う途すじ梯川を渡りながら天神の森を望み見た時、「尊霊御末期の御時我を召されけれども御存命の御影を拝し奉らず定めし御待ちなさるらんと、心の中に懸橋を心静かに打渡り懸橋の浜通りに輿をやる。日頃見馴れし天神の石の塔を見げつゝ重ねあげにし塔なれど限りありてぞ見果てぬる」と心中を語りかけたと三壺記に記されています。そうして大任を果たした左門は自ら殉死の儀式を行い割腹して公のあとを追ったのです。

本殿


 朝起会発祥之地


朝起きはお國を興す第一歩

昭和59年(1984年)10月、建立。

碑 文

上廣哲彦先生は、廣島原爆被災の身を以て祖国復興を念願し、昭和21年実践倫理宏正会を樹立した。はじめて朝起実践会場を設けたのは当社の一隅であった。今や会勢日に盛んにして天下を蓋わんとする時、先師の鴻業を偲び創業の地をえらんで遺徳を永世に顕揚せんとするものである。

社団法人実践倫理宏正会

梯川 へ。



このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください