このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
街 道
善光寺街道
〜お仙の茶屋跡〜
麻績宿
から国道403号で
聖湖
に向かうと、聖湖の手前に「お仙の茶屋跡入口」があった。
史跡
お仙の茶屋跡入口
塩尻市の
洗馬
よりここを通り
善光寺
へ向うのが北国脇往還です。この道は、善光寺街道とも言われ、善光寺参詣で賑わいました。
また、江戸時代には信州や越後と両国を結ぶ重要な路線として整備され、人々の往来が盛んでした。
この道を約200米ほど下ると弘法清水とお仙の茶屋跡があります。お仙の茶屋は当時の旅人の憧れと憩いの場所で、今に残る馬場節の一節がそれを物語っています。
峠ナア恋しや清水の茶屋で店にやお仙が待っている。
弘法清水とお仙の茶屋跡
この清水はもと一杯清水と云ったが、弘法大師がこの地を訪れてから弘法清水といわれるようになったと伝えられる。当時、この茶屋にお仙という美しい娘が住んでいて、村の若者たちのあこがれの的であった。しかしお仙は人知れず旅の武士を慕い悲恋の一生を終わった。俳人松尾芭蕉翁は「さざれ蟹足這いのぼる清水哉」の句を残している。
麻績村
芭蕉翁
碑の裏に芭蕉の句が刻まれている。
さゝれ蟹足這ひ上る清水かな
出典は
『続虚栗』
。
『蕉翁句集』
(土芳編)に「貞享四卯ノとし」とある。
貞亨4年(1687年)であれば、ここで詠まれた句ではない。
寛政3年(1791年)8月、臼井鳥峨・飯沼可吟・臼井曉平建立。
常世田長翠
の書と思われる。
臼井鳥峨は麻績村の酒造家臼井丸太夫。晩年朴翁と号した。妻も東紅と号する俳人。
文化元年(1804年)、没。
追善集「こけのつゆ」がある。
文政3年(1820年)、
十返舎一九
は『金草鞋 十三編』(善光寺草津道中)で「弘法清水」と「芭蕉の碑」があると書いている。
それよりあをやぎのしゆく。こゝより
おばすて
さらしなへ出る道なり。すぐにさきの
おみのしゆく
へ出る道なり。あをやぎよりおみへは一り、おばすてへまわれば二りなり。おみのあいだにさるがとうげ あり。こゝにくはうぼうし大しのしみづ、ばせをのひあり。
○旅人も顔真赤にしてのぼる猿が峠の難所には
○桃もりしやうにころころさらかごにのりてぞさるがとうげをぞゆく
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