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私の旅日記
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2012年
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功山寺
〜田上菊舎の句碑〜
下関市長府川端の県道246号長府前田線(旧山陽道)沿いに
功山寺
(HP)という寺がある。
曹洞宗
の古刹である。
嘉暦2年(1327年)、臨済宗の長福寺として創建。
慶長7年(1602年)、曹洞宗の笑山寺として再興。
慶安3年(1650年)、功山寺に改名。
総門
国の登録文化財
である。
紅葉の山門
安永2年(1773年)、再建。
市指定文化財
山門の下左手に田上菊舎の句碑があった。
鐘氷る夜や父母のおもはるゝ
天明2年(1782年)、北陸・奥羽行脚の途次、日光で詠まれた句。菊舎30歳の時である。
鐘氷る夜や父母の思はるる
この句は江戸後期の女流俳人
田上菊舎
が奥羽行脚の道すがら
日光山
に詣で故里長府に在ます父母に思いを寄せた寒夜の句であり、その筆跡である。
菊舎は宝暦3年(1752年)豊浦郡田耕村在住の長府藩士田上由永の長女として生まれた。名は道と云い菊舎はその号である。16歳近隣の村田家に稼したが、24歳夫君利之助の病死にあい、当時長府に移っていた
父母の許
に復帰した。
28歳俳諧の修業を志し、得度し尼となって、独り長途の旅にたった。先ず美濃獅子門宗匠
大野傘狂
の門に入り、一字庵の号を受けた。その後北陸・奥羽を経て江戸に出で、東海・京阪・九州の各地に遊び、知名の俳人を訪ねて生涯句道を磨き、その足跡殆んど全国に亘り延べ数千里に及んだその間、書道・絵画・茶道・琴曲・和歌・漢詩などの良師に従って、その奥義を窮めた。晩年は概ね長府にあり、深く佛道に帰依し、信仰の句が多い。文政9年(1826年)8月23日、74歳で没した。
著書には生前自費をもって出版した
『手折菊』
4巻外数篇がある。
今この顕彰の建碑に当って、生地と由縁の村田家の庭石数基を受けて主石に配したことを追記する。
昭和48年11月14日 下関市長府観光協会
仏殿
国宝
である。
山口県の国宝建築は功山寺仏殿の他、下関市の住吉神社本殿、山口市の
瑠璃光寺
五重塔がある。
文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち三条実美・
東久世通禧
等5名が滞在したそうだ。
元治元年(1864年)12月15日、高杉晋作は五卿を
太宰府
に移送することを知り長州藩俗論派打倒のために功山寺で挙兵した。
日和山公園
に高杉晋作の陶像がある。
功山寺境内に高杉晋作挙兵像があったようだが、気付かなかった。
後日、写真を撮りに行った。
昭和47年(1972年)12月15日、建立。
高杉晋作回天義挙銅像
解 説 碑
嘉永6年(1853年)米艦4隻
浦賀
に来航して徳川300年鎖国の夢破れ 国論は支離滅裂 我長州藩もまたその帰結を知りません 国外では欧米諸国が競って全アジアを制圧し 最後の塁である我国に迫って来つつあります 時は元治元年(1863年)12月15日夜半 高杉先生は遂に意を決して四面の楚歌を排し この地この処に義挙の一鞭を奮い 藩内の俗論派を倒して藩論を尊皇倒幕に統一し 薩・長・土の盟約を結び 第二征長幕軍を長州藩の四境に迎え討って皆これを敗退させ 遂に内は王権を復古して明朗闊達な大和民族本然の姿に返し 外は四海を圧する明治維新(1864年)の基を作られました
明治維新発祥の地 ここ功山寺境内に この度回天義挙像の建設成り 高杉先生当時の姿そのままに只今眼前にあります この誇りを我等永久に語り伝え 言い伝えて 子々孫々教育の糧に致さんと切に願うものであります
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