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松本清張 (まつもと・せいちょう) 1909〜1992。 |
『確証』 (新潮文庫「黒地の絵」に収録) |
短編。妻の多恵子が不貞を働いているのではないかという疑惑を持った会社員・大庭章二。同僚の片倉が対手だと睨んだ彼は、自分の手で、対手に気づかれずに確証を得る絶対の方法を思いつき、実行するのだが…。「近いうち、片倉を家に呼んで、一ぱいやろうと思ってるがな。いいだろう?」、「ええ、それは構いませんが。でも、もう少し先になすったら?」、「どうしてだい?」、「もう少し、わたしの疲れが癒ってからにして頂きたいわ」──。偏屈で陰気な性格の男の卑劣ともいうべき手段が招いた悲劇! 意外な結末が味わえる。 |
『影』 (新潮文庫「眼の気流」に収録) |
短編。編集者の江木に頼まれ、人気通俗作家・笠間久一郎の代作を引き受けた文学志望の貧乏青年・宇田道夫。笠間の文章を研究し、そっくりの文章を書けるようになった宇田は、才能を枯渇し尽くして、すっかり書けなくなってしまった落目の笠間のために、代作を書き続けるが…。「もう笠間の作家的生命も終りだな。但し、君がもう少し手伝ってやれば寿命が延びるのだがね」──。自己の文学作品は評価されず、代作した小説が評判になるという皮肉。作家とゴーストライターの持ちつ持たれつの関係とその破滅を描いて面白い。 |
『影の地帯』 (新潮文庫) |
長編。 いきつけの銀座のバー「エルム」のマダム・川島英子(ひでこ)が行方不明になった事件を追跡するカメラマン・田代利介は、飛行機の中で偶然乗り合わせた若い女と連れの小太りの男が、事件に関係していると確信する。信州へ湖畔めぐりの撮影旅行に出掛けた田代は、例の小太りの男を目撃する。男が「石鹸(せっけん)」を詰めた木箱を諏訪湖などに投げ捨てていたことを突き止めるが、事件に深入りしすぎた田代は、身の危険に晒されてしまう。 大物政治家・山川亮平が失踪した事件を追っている新聞記者の木南から、マダム事件と山川事件との関連を知った田代。木箱の謎を解明していた木南が行方不明になってしまったと知った田代は、木南を探しに野尻湖へ行くが、敵の罠にはまって、山奥の家屋に閉じ込められてしまう…。 「だいたい、犯人が殺人をやって、いちばん苦心するのは、その死体の処理だろうな。だから、たいていの犯人は、殺した死体を発見されないように工夫するものだ。君が聞きたいのは、犯跡をくらますための、死体の変った処理の仕方だろう?」 東京・世田谷の「石鹸」工場と信州・柏原の製材所の秘密…、大胆で奇抜すぎる死体処理の方法(トリック)…、平和の奥に傲慢(ごうまん)に存在している目に見えない黒い影…。政治家と業者の利権に絡んだ大仕掛けな謀略を描いた一級のスリル&サスペンス。極限状態で芽生える「飛行機の女」とのロマンスが実に素敵だ。 「ぼくは君の名前さえ知らない。だが君のことを忘れられなくなった。君はぼくに会わないというが、ぼくは必ず会ってみせる」 |
『駆ける男』 (文春文庫「馬を売る女」に収録) |
短編。瀬戸内海に面した「亀子ホテル」の特別室に宿泊した会社経営者・村川雄爾(ゆうじ)と若い後妻・英子。三十年前に捨てた女・鎌田栄子に出くわした村川は、突然走って逃げ出し、それがために心臓発作を起こして死亡してしまう。村川の死に事件性を感じた警察は、捜査を開始するが…。「そのほか、あの特別室でお前が取ってきたものはないか?」、「はあ。そういえば…」。由緒あるホテルや旅館の「高貴の間」の備品を盗んで蒐集しているマニアな男(製薬会社社員・山井善五郎)の存在がこの小説を面白いものにしている。 |
『形』 (文春文庫「陸行水行」に収録) |
短編。道路建設のため、用地買収を進める観光会社だが、山林の所有者である養豚業・川口平六の頑強な抵抗に遭う。十数年前に平六に山林を売った旅館業・畠山行雄の行方が不明になっていると知った警察は、平六が土地の買収を頑なに拒絶しているのは、畠山の死体が埋まっているからではないかと考え、山林の大掛かりな発掘作業を行うが…。「何を云われても知りませんな。それとも、おれの山から人間の片脚でも出ましたかい?」。つい「形」に囚われてしまう人間心理! 「死体無き殺人事件」の顛末を描いた犯罪小説。 |
『紙の牙』 (新潮文庫「黒地の絵」に収録) |
短編。愛人の昌子と温泉地に滞在しているところを、市政新聞の記者に見られてしまったR市役所の厚生課長・菅沢圭太郎。市政新聞は、市役所に新聞を強制購読させているだけでなく、不正も強要している悪徳新聞だった。愛人のことを書き立てられて、地位と生活を失いたくない圭太郎は、市政新聞の言い成りとなるが、次第に追い詰められていく…。「わが社は、いつも市民の正義のために筆をもって闘っているのです」──。圭太郎は主役でも何でもなかった! 世の中はのし上がったもん勝ちだ! 情け無用のアウトロー小説。 |
『神の里事件』 (文春文庫「火神被殺」に収録) |
短編。兵庫県多可郡加美町に本部がある宗教団体「豊道教」の神鏡を見ようとした雑誌記者・石田武夫が、教団の宝物殿の中で殺害された。石田を宝物殿に案内した教団の教務総統・青麻紀元も、山林の中で殺人死体で発見される。教団の教祖である二十八歳の美女・伊井百世が言うように、石田と青麻の死は「神罰」なのか? 石田の友人・引地新六は、教団の秘密を調べ、事件の真相を突き止めていく…。「ちょっと訊くが、教祖は独身だそうだが、結婚はしないのかね?」。古代史の興味を盛り込んだ展開が面白い推理小説。 |
『鴉(からす)』 (文春文庫「松本清張傑作短編コレクション(下巻)」に収録) |
短編。仕事があまり出来ず、上役にも好かれず、職場でも家庭でも余計者のように扱われている万年平社員・浜島庄作。会社(従業員三千人の火星電器株式会社)の労働組合の委員になった浜島は、会社への仕返しのため、スト決行を激烈に主張する。しかし、労組委員長・柳田修二の判断でストは回避され、浜島は倉庫係に左遷させられてしまう…。「おれは証拠を持っている。柳田は組合を売って出世した裏切者だ」。浜島が道路公団の土地買収に頑なに応じない本当の理由は? 身の程知らずな「英雄」にはなりたくない。 |
『カルネアデスの舟板』 (新潮文庫「張込み」に収録) |
短編。戦時中に追放され田舎に引っ込んでいた恩師・大鶴恵之輔を大学に復職させた歴史学者・玖村武ニ。教科書と参考書の印税で、裕福な生活を送る玖村だが、改訂によって教科書執筆から外されてしまう。大鶴が邪魔な存在となった玖村は、刑法の「緊急避難」をヒントに完全犯罪を企てるが…。「ああ、それはね、カルネアデスの板というんだ」、「そのことを書いた本があるかね?」、「ある。刑法の解説書でね。緊急避難という項に大てい出ている筈だよ」。せっかくの“計算の頭脳”も“感情の突風”によって木っ端微塵の巻。 |
『巻頭句の女』 (新潮文庫「駅路」や、文春文庫「危険な斜面」に収録) |
短編。俳句雑誌で巻頭句をとったこともある常連の投句者・志村さち子が、もう三ヶ月も投句してこないことに不審を抱いた雑誌主宰者・石本麦人(ばくじん)。身寄りのない施療患者であるさち子が、末期がんで余命わずかであること、彼女が岩本英太郎という男と結婚し、施療院を退院したことを知った麦人は、さち子が死の間際に幸福を掴んだことに喜びを感じるのだが…。「それはどういう意味ですか? 先生は、さち女の死因を疑われているわけですか?」──。一石二鳥を狙った犯人の完全犯罪の崩壊を描いた推理小説。 |
『寒流』 (新潮文庫「黒い画集」に収録) |
中編。得意先である一流割烹料理屋「みなみ」の女主人・前川奈美と特別の関係を持ったB銀行R支店長・沖野一郎。妻・淳子と別れて奈美と結婚する決心までする沖野だが、大学の同期で上司である常務・桑山英己に奈美を寝取られてしまい、挙句は地方の宇都宮へ転勤させられてしまう。桑山に憎悪を覚えた沖野は、秘密探偵社の伊牟田博助と、総会屋の福光喜太郎を使って、桑山のスキャンダルを暴き、不正融資を追及するが…。「沖野さん。桑山常務の一件ですがね。あれは、あんた、もういいかげんに、いたずらは、おやめなさいよ。ははは、おとなげないですからな。ええ、どうですか?」──。花やかな暖流から押し出され、灰色の冷たい寒流に放り込まれてしまった男の復讐ストーリーを小気味よく描いて面白い。沖野と桑山と奈美の三人で箱根に宿泊する件(くだり)がバカ・エロで笑える。 |
『菊枕』 (新潮文庫「或る「小倉日記」伝」に収録) |
短編。九州のしがない中学教師の地位に満足している夫・三岡圭助を軽蔑し、家事を疎かにして、俳句にのめり込む妻・ぬい。尊敬する俳人・宮萩栴堂(せんどう)に会いに上京する彼女だが、栴堂の周囲から顰蹙(ひんしゅく)され、排斥されてしまう。自負の強い性格と、貧乏な田舎教師の妻という引け目ゆえに、次第に精神が破綻していく…。「先生。私はもっともっと先生にお近づきしたいのです。弟子としてもっと先生の懐にとびこみ、愛されたいのです」。才能ある女流俳人の不遇な生涯を描いて痛ましい。一種のモデル小説。 |
『危険な斜面』 (文春文庫「危険な斜面」や、角川文庫「三面記事の男と女」に収録) |
短編。十年ぶりに昔の女である野関利江と偶然に再会した西島電機の調査課長・秋場文作。バーの女給だった利江は現在、秋場の会社の会長である西島卓平の妾(めかけ)になっていた。利江と秘密の関係を持った秋場は、利江を利用して部長に昇進するが、次第に利江の存在が邪魔になっていく。一方、利江に捨てられた青年・沼田仁一は、山口県の山林中で利江の絞殺死体が発見されたという新聞記事を読み、驚く。ついに秋場の存在を突き止めた沼田だが、秋場には強固なアリバイがあった! 「手紙をくれたの、君だね、秋場だ」、「そうです、金、持ってきてくれましたか」──。東京発博多行の急行「筑紫」を利用したアリバイ・トリックが面白い推理小説。 |
『疵(きず)』 (光文社文庫「柳生一族」に収録) |
短編。筑前福岡藩主・黒田長政が手を焼いていた反逆の家臣・木谷太兵衛(たびょうえ)を見事に上意討ちにした若侍・高月(こうづき)藤三郎。しかし、衆道(男色)を使ってだまし討ちにした手段が、武士らしくないと長政に冷遇され、家老・平野美作(みまさか)の娘・萩江を嫁にもらうという約束も反古(ほご)にされてしまう…。「藤三郎にも一分(いちぶん)がござります。何をするか、見ていていただきまする」。美女に囲まれて大層な屋敷に住む老人が話す“身上(しんしょう)つくりの指南”とは? 傑物の凄みを描いて面白い時代小説。 |
『鬼畜』 (新潮文庫「張込み」に収録) |
短編。小さな印刷所を営む竹中宗吉は、愛人の菊代との間に三人の子供ができるが、子供(七歳の利一、四歳の良子、二歳の庄二)を残して菊代は蒸発してしまう。「あたしゃ、そんな子の世話はごめんだからね」。気性の勝った妻・お梅から子供を始末するよう迫られた宗吉は…。「あの子は、良子のときのように、うまくいかないね。七つにもなれば、この土地の名と自分の名前は人に言えるからね。捨てても、すぐ帰ってくるよ」──。子を捨てる親の視点で読んでも、親に捨てられる子の視点で読んでも、怖い…。異色の犯罪小説。 |
『奇妙な被告』 (文春文庫「火神被殺」に収録) |
短編。高利貸しの老人・山岸甚兵衛を殺害した容疑で逮捕・起訴された中華そば屋経営の男・植木寅夫の国選弁護人を引き受けた弁護士・原島直巳。警察の取り調べに、一旦は犯行を自白した植木だが、自白は警察に強要されたものだとして、一転して無罪を主張する…。「ぼくが警察に強制されて自白した証拠を申上げましょう」、「証拠?」──。“自白”を逆手に取った展開が面白い裁判もの。 |
『恐喝者』 (新潮文庫「共犯者」に収録) |
短編。九州・筑後川の氾濫で発生した大洪水のどさくさにまぎれて、拘置所を脱走した若い男・尾村凌太は、濁流にのまれ、溺れた人妻(竹村多恵子)を介抱してやり、その場を立ち去る。一年後、山奥のダム工事現場で人夫となった凌太は、思いがけず人妻と再会する。女は工事現場の出張所長の女房であった…。「ここに寄りつかないでください。さ、これを上げます。二度と来ないでください」。洪水の時に男に犯されたと思い込んでいる女と、女に会いたい一心で恐喝(きょうかつ)を続ける男──特異な構図が面白い犯罪小説。 |
『凶器』 (新潮文庫「黒い画集」に収録) |
短編。九州の穀倉地帯にある長閑な村で、仲買人である老人・猪野六右衛門が撲殺された。六右衛門が言い寄っていた女性で、殺害される直前にも立ち寄っていた若い未亡人・斎藤島子が容疑者として逮捕される。しかし、島子の家をくまなく捜索するも、血痕のついた凶器を発見することが出来ず、事件は迷宮入りしてしまう…。「おまえの家に、丸太ン棒のようなものはないか?」、「そういうものはありません」──。“丸太ン棒のようなもの”と推定された凶器は一体何であったのか? 凶器の意外性と皮肉なラストが面白い。 |
『怖妻の棺』 (新潮文庫「佐渡流人行」に収録) |
短編。旗本・香月弥右衛門が匿し女・おみよの家で急死した。この事実を弥右衛門の妻・おとわに告げた友人・戸村兵馬だが、権高な彼女は死骸の引き取りを拒否する。しかし、家の存続(跡目相続)のため、やむなくおとわは承諾するが、何とその後、弥右衛門が生き返ってしまい…。「のう。おれがこのまま邸に戻れると思うか。兵馬、おとわの気性は知っておろう。この上の恥をかきとうない。生き返ったのが不覚だった。生き恥をさらしとうないのじゃ。死なせてくれ」。家つきの妻に圧迫されてきた男の窮地を描いて面白い。喜劇。 |
『凝視』 (新潮文庫「水の肌」に収録) |
短編。農業・沼井平吉の家に強盗が入り、平吉の妻・トミ子が殺害され、平吉も負傷した事件は、意表にも、平吉による狂言強盗殺人として解決される。しかし、新米刑事・添田壮介は、犯行を自白した平吉の取調べに疑問を抱き、独自に事件を推理する…。「いや、無理というのではありませんが、なんだか沼井平吉があんまり警察の見込みどおりに自白したように思われますのでね」。なぜ犯人は死んだトミ子の見開いた眼をわざわざ塞いだのか? 事件の意外な真相を描いた推理小説。誤認逮捕や自白強要の問題も見逃せない。 |
『共犯者』 (新潮文庫「共犯者」に収録) |
短編。福岡で家具商として成功した内堀彦介。しかしその資金は、貧しい営業マンをしていた五年前に、銀行強盗をして手に入れたものであった。強盗の共犯者である町田武治が、彦介の財産を嗅ぎつけて、いつか脅迫してくるかもしれない。そう考え、不安にかられた彦介は、架空の新聞社の通信員として雇った男・竹岡良一に、宇都宮にいる町田の動向を調査させ、定期的に報告させるが…。「始めまして、と申しあげたいのですが、妙なことになりましたね」──。成功したがゆえの、犯罪者であるがゆえの人間心理が面白い。 |
『巨人の磯』 (新潮文庫「巨人の磯」に収録) |
短編。茨城・大洗海岸に漂着した溺死体は、F県の県会議員・水田克二郎と判明。三週間の予定で沖縄・台湾へ視察に出発した水田だが、なぜかこっそり帰国していた。北茨城市五浦にある別荘に滞在していた水田の義弟・広川博に焦点を当てた所轄署の刑事・福島康夫は、死体漂流の謎を解明するが、死亡推定時刻の壁にぶち当たってしまう…。「水田さんは、科学的にいって『溺死』というほかはありません。しかし、それでは貴兄のお訊ねの期待に応えられないのです。そこで、ぼくはここに科学者の態度を一時捨てて、推理を試みようと思います」──。法医学者・清水泰雄の名推理! 犯行動機はベタだが、膨張・腐爛した死体のトリックはさすがに面白い。 |
『虚線の下絵』 (文春文庫「虚線の下絵」に収録) |
短編。画家として成功した友人・倉沢との才能の違いを思い知り、芸術絵画を捨てて、肖像画家に転向した久間。保険の外交員をしていた妻・牧子の言うがままに、注文主とは直接会わず、写真だけを見て、肖像画を描き続ける久間だが、注文を取りに出掛ける牧子が、次第に化粧が濃くなり、服装も派手になり、色気が増していくことに、疑念を抱くようになる…。「ほらね、うまいもんでしょう。もう、血が流れることはありませんよ」──。画家ならではの方法によって、復讐的な実験を企てた主人公の破滅を描いた卑屈小説。 |
『距離の女囚』 (新潮文庫「共犯者」に収録) |
短編。学界から冷遇されている学者・石井琢一を尊敬し、考古学にのめり込んでいる青年・藤川英夫と結婚した私だが、大きな印刷所を営む私の父と英夫が折り合えず、やむなく私は英夫と別離する。父の急死で社長となった私だが、父の商売敵だった桐山武一に手込めにされてしまう。桐山の女となった私は、戦中・戦後の困難な時代を生き抜くが…。「英夫さんよ。南方から復員して最近帰ってらしたのですって」、「まあ。ほんとう? それ」──。元夫を愛してやまない女主人公の心情を、手紙による独白体で描いて切なすぎる。 |
『霧の旗』 (角川文庫) |
長編。 北九州のK市で起きた金貸し老婆殺しの犯人として逮捕・起訴された兄・正夫の無実を信じる二十歳のタイピスト・柳田桐子。兄を救うため、わざわざ東京の一流弁護士・大塚欽三に弁護を依頼するが、すげなく断られてしまう。 無実を主張したまま正夫が獄死したことを知った大塚は、取り寄せた裁判記録を読み込み、事件の一つの矛盾を発見する。自分がこの事件を引き受けていれば、正夫を無罪にすることができたということに後味の悪さを感じる。 上京して銀座のバーのホステスになった桐子は、彼女に同情を寄せる雑誌記者・阿部啓一の協力を得て、大塚と河野径子(フランス料理店の女主人)の不倫関係を探っていく。径子を尾行する中で、殺人事件に巻き込まれてしまった桐子に駆け巡った“黒い知恵”とは? 「なぜ、あのとき弁護を引き受けて下さらないんです? あとから真犯人を挙げても、兄の生命は還りませんわ。わたしは真犯人なんかどっちだっていいんです。無実の兄を救いたかったんです。生きているうちに兄を助けたかったんです。そのために、なけなしの金をはたいて、わざわざ九州から東京に来ましたが、わたしは先生だけが頼りでした。で、わたしのような貧乏人が東京に二晩も泊って、先生にお縋(すが)りしたんです。すると二日目には、先生はゴルフに行ってらしたではありませんか。それも弁護料が払えないだろう、と云って断られたんです。金がない者には有利な裁判ができないといういまの裁判制度にも落度がありますが、わたしは今でも先生を恨んでいます。もう兄の事件の真犯人のことなんか聴きたくありません」 冷徹で孤独な女主人公の悲しいまでに凄まじい復讐を描いた異色作。桐子の頭の中に啓一の姿が一瞬よぎるラストがあまりに切ない。 |
『疑惑』 (講談社文庫「増上寺刃傷」に収録) |
短編。しょっちゅう家に遊びに来るようになった同役の浜村源兵衛と妻の瑠美の仲を疑う御家人・伊田縫之助。愛する妻に蔑まれたくない彼は、彼女を問い詰めることができない。二人の不義を突き止めるため、無断で仕事を抜け出す縫之助だが、その咎で牢屋に入れられてしまう…。「違います。違います。あなた──」。嫉妬にかられた男の修羅場を描いて凄絶。夫婦の愛情の問題を描いて秀逸。 |
『金環食』 (新潮文庫「憎悪の依頼」に収録) |
短編。昭和二十三年、北海道の離島のR島で行われた金環食の観測を現地取材した新聞記者の石内。アメリカの観測陣が設定した観測地点よりも、日本側の観測地点の方が食帯の中心地に近かったという事実を記事にした石内だが、GHQ(連合国総司令部)から呼び出しを受けてしまう…。「日本は敗戦国である。敗戦国のくせに戦勝国の科学を批判するとは、もってのほかである」──。占領下の日本を舞台とした何とも不合理な話。いまだに勝った負けたの枠組みから脱却できない(しようとしない)国際社会が嘆かわしい。 |
『偶数』 (新潮文庫「駅路」に収録) |
短編。営業部長の黒原健一に睨まれているため、いつまで経っても出世ができないでいる会社員・城野光夫。黒原がアパートに愛人をこっそり囲っていると知った城野は、黒原に嫌疑が掛かるように女を殺害するという計画を立て、実行する。この殺人事件で、黒原は休職に追い込まれ、まんまと城野は出世を果たすのだが…。「ぼくはあなたを知っていますよ。たった一度だけお遇いしましたがね」──。題名の「偶数」は、“黒原が愛人に会いに行く日”だけの意味じゃなかった! 物的証拠である茶碗を巡る展開が面白い犯罪小説。 |
『空白の意匠』 (新潮文庫「黒地の絵」に収録) |
短編。和同製薬の強壮剤「ランキロン」の広告の真上に、「ランキロン」による中毒死の記事(後に誤報と判明)が掲載されてしまい、狼狽する地方紙Q新聞の広告部長・植木欣作。すっかり広告代理店・弘進社の怒りを買ってしまった植木は、謝罪のために上京するが、取引の全面的中止をほのめかされる。「二百三十段か。四百六十万円の減収となると、うちの経営は危くなる」。弘進社の責任者・名倉忠一を、社運を賭けて(まるで天皇の巡幸のように)歓待するQ新聞社だが…。吹けば飛ぶような地方小新聞の悲哀…、編集部と広告部のあつれき…、傲慢なる広告代理店の功罪…。不合理すぎる結末に唖然となるが、しかし、これが世の中の実態というものか…。 |
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