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松本清張 (まつもと・せいちょう) 1909〜1992。




通過する客  (文春文庫「虚線の下絵」に収録)
短編。誠実で寛容な性格の十五歳年上の歯科医・山根正造と再婚した波津子だが、生活する上での考え方がまるで違う夫に対して、どうしても深い愛情を持つことができない。観光会社からの依頼で、日本へ旅行にやって来たアメリカ人・ミセス・ブロートンの英語ガイドを引き受けた波津子は、彼女の無愛想な態度に手を焼き、行きずりのアメリカ人青年と浮気をする不潔さに嫌悪感を覚えるが…。「でも、あなたにはその悪路が生甲斐があるからいいじゃないの。エンコしている車は埃をかぶってゆくだけで、新しい景色は見ようにも見られないわ」。自由な生き方を羨望しながら、ハネを伸ばすという素朴な脱出行為さえできない女主人公の諦念を描いた現代小説。

海嘯(つなみ)』  (文春文庫「無宿人別帳」に収録)
短編。無宿者であるというだけで石川島の人足寄場に送られてしまった新太。毎日、草履造りをすることになった新太は、もう二年も寄場にいるという卯之吉と出会う。飯が貰えて、寝るところもあって、医者にもかかれる寄場は極楽だという卯之吉の心境に納得がいかない新太は、女恋しさに寄場を脱け出す決心をする。そんな中、高波が押し寄せてきて…。「おれは此処がありがてえところだと思っている。出来ることなら、おりゃア一生でも此処に置いてもらいてえ」。人間らしい生活とは何かを考えさせられる。 → 山本周五郎「さぶ」

Dの複合  (新潮文庫)
長編。
旅行雑誌「草枕」に「僻地(へきち)に伝説をさぐる旅」を連載することになった作家の伊勢忠隆。編集者の浜中三夫と一緒に、「浦島・羽衣伝説」の取材旅行に出掛けた伊勢だが、丹後・木津(きつ)温泉で偶然、殺人事件の死体捜索現場に遭遇する。その後、山中から白骨死体が発見され、現場にはなぜか「第二海竜丸」と書かれた舟板の破片が!

伊勢のところに、二人の読者から、連載についての問い合わせがくるが、そのうちの一人である計算狂の女・坂口みま子が、熱海で何者かに絞殺されてしまい、もう一人の元トラック運転手・二宮健一も行方不明になってしまう。

丹後・木津温泉…、京都・松尾(まつのお)神社…、明石・人丸神社…、静岡・三保ノ松原…、千葉・館山──。これまで取材に出掛けたところが全て北緯三十五度か、東経百三十五度の線上にあることに気づいた伊勢は、いつの間にか自分が、事件の渦中に巻き込まれていることを知る。そして新たな殺人事件が…。

「僻地に伝説をさぐる旅」は、一体誰による発案で、何の目的で企画されたものなのか? 案内役の浜中は、果たして、善人なのか、悪人なのか、そして、一体何者なのか? 経緯度線に絡んだ奇妙な事件(Dの複合事件)の意外な真相を描いた傑作長編推理小説。

「君は今度のことでほとんど知らないところはないくらいに真相を追究してきたと思ってるがね。ぼくも君にはずいぶん引きずりまわされた。いくらぼくが人がよくても、もう我慢できない。この際、全部打ち明けてしまってはどうだ?」

「浦島・羽衣伝説」の主題(テーマ)となっている「淹留(えんりゅう)・抑留」がヒントになって、数十年前に起きた海難事故が浮かび上がってくるというプロットが知的で素晴らしい。何でも計算しないではいられない計算狂の女や、藤村進という同名異人の二人の男を登場させる展開も楽しい。期待に違わぬ面白さだ。

 (新潮文庫「共犯者」に収録)
短編。九州・K市の旅館に滞在中、みすぼらしい九歳の女の子の訪問を受けた脚本家・伊村。女の子が父親・笠岡重輔に頼まれて持参した手紙の内容は、スパイとして日共に潜入した経験のある元警察官・笠岡の暴露素材の押し売りであった。子供を道具に使ったやり方に嫌悪を覚える伊村だが、笠岡という未知の人物への興味も湧く…。特殊な仕事に携わったがゆえの変貌と崩壊…。「まあ、われわれはたとえて云えばぽつんと在る“点”のようなもんですよ」。清張作品に出てくる子供って、何だか暗くて不気味なのが多いよね。

天才画の女  (新潮文庫)
長編。
有名なコレクターの眼にとまった新人女流画家・降田良子(おだ・よしこ)を、一手に売り出す銀座の画廊・光彩堂の社長・中久保精一。独特な幻想画を描く良子は「天才画家」として画壇で注目されるようになる。
光彩堂の商売敵である画廊・叢芸洞(そうげいどう)の支配人・小池直吉は、降田良子という金の卵を発掘した光彩堂に羨望を感じる一方、どの画家からも影響を受けていないという良子の画風に疑問を抱く。
「天才画」の源流(ルーツ)を見極め、その欺瞞性を暴き、光彩堂に打撃を与えてやろうと考えた小池は、良子の実家がある福島県真野町へ調査に出掛ける。良子の実家に長期滞在している精神障害者の老人・小山政雄の存在を知った小池は、遂に良子の画の秘密を突き止めるが、そのために身の危険に晒されてしまう…。

「君のばあいは被害を受けたという証拠は何もない。つきつめてゆくと、何も存在しない」
「先生、そ、それはひどい、それはあんまりです」

白黒写真の現像を断わるカメラ店の謎と、小池を殺害しようとする人物の意外な正体は? 絵画関係者たちの思惑とからくりが内幕もののようで面白い。ラストの“オチ”も楽しい。

点と線  (新潮文庫)
長編。
汚職事件に関係のある××省の役人・佐山憲一と、赤坂の料亭の女中・お時が、博多近郊・香椎の海岸で情死した。事件を調べる警視庁の刑事・三原紀一と福岡署の中年刑事・鳥飼重太郎は、佐山とお時が博多行の特急「あさかぜ」に一緒に乗車したにもかかわらず、佐山は食堂車で一人で食事をし、福岡市内の旅館に一人で何日も宿泊していたことを知り、疑念を抱く。もしかしたら情死に見せかけた殺人事件なのではないか? ××省に出入りしている機械工具商・安田辰郎の名前が浮上するが、安田には北海道出張という鉄壁なアリバイがあった…。

「なにしろ課長補佐というのは義理人情家とみえて、一省の危急存亡を背負ったつもりでよく死んでくれる。大きな汚職事件で自殺する者は、かならず課長補佐クラスだ」
「すると、佐山の死も──」
「今までは、たいてい一人で自殺している。佐山のは女が道づれだ。ちょっと変って、妙な色気があるね」

東京駅の四分間の間隙を利用したトリック…、国鉄と西鉄の二つの香椎駅と二組の男女の謎…、青函連絡船の乗船者名簿のカラクリ…。心中事件の意外な真相を描いた社会派推理小説の秀作。鉄道ファン大満足の時刻表アリバイ崩し!

投影  (新潮文庫「張込み」や、文春文庫「危険な斜面」に収録)
短編。短気を起こして東京の一流新聞社を辞めてしまい、瀬戸内海のS市にある零細新聞「陽道新報社」に再就職した田村太市。市役所の土木課長が水死した事件を調べる太市は、立ち退き補償金に絡んだ汚職の実態と、方向の錯覚を利用した犯行トリックを暴いていく…。都落ちした太市を優しく支える妻・頼子や、熱血の社長・畠中嘉吉と先輩記者・湯浅新六との交流…。「いいえ、僕こそ社長には大へんお世話になりました。僕はこの土地に来て、社長によってはじめて新聞記者の正道というものに目を開けてもらった思いです。このご恩は一生忘れられません」──。地味な作品ながら、人情味あふれるストーリーが素晴らしい。

東経一三九度線  (新潮文庫「巨人の磯」に収録)
短編。大学時代の同級生で文部省の下級役人・小川長次から「邪馬台国東遷説」という自説を聞いた文部政務次官・吉良栄助。この説に興味を持った元皇族・倉梯(くらはし)敦彦が、吉良の選挙区にある上州・貫前(ぬきさき)神社の神事を見物することになり、吉良と小川は、大学の恩師である教授・岩井精太郎たちと共に事前下見を行うのだが…。「小川は妙なことを考えついたもんだね。グリニジ子午線測定の東経一三九度が三世紀半ばに生きていた九州の卑弥呼の予見的暗号だったというんだからね。この珍説には度胆を奪われたよ」。交通事故死の意外な真相を描いた推理小説だが、東経一三九度線と邪馬台国の卑弥呼を絡ませた仮説がすこぶる面白い。

逃亡  (文春文庫「無宿人別帳」に収録)
短編。罪のない、ただ無宿人というだけの理由で、江戸から佐渡の金山へ送られ、過酷な水替人足として強制労働させられる人々。この地獄の世界から脱れるため、島からの脱出を企てた新平たち七人。監視の役人を殺して、逃走した七人は、小さな漁村で一艘の舟を見つけるが、その舟はせいぜい三人しか乗れない小舟であった。知恵者である新平は、仲間を罠にかけるが…。「おめえも人がいいぜ、他人(ひと)のことよりわが身だ。構っていられるか」。自分だけ助かろうとする人間のエゴを描いて面白い。策士、策に溺れる?

突風  (講談社文庫「紅刷り江戸噂」に収録)
短編。隅田川で起きた船の転覆事故で救助された訳ありな女に興味を持った香具師(やし)の善助。女が京橋の太物屋「菱屋」の内儀・お綱であること、転覆事故で死んだ「菱屋」の手代・長三郎と秘密の関係にあったことを突き止めた善助は、餅屋の才次を誘って、悪事を企てるが…。「才次、おめえはおれに抜駆けしてお綱をうめえこと云いくるめ、おれを押しのけるんじゃあるめえな?」、「そういうおめえこそ先回りして、お綱に妙な吹っ込みをするんじゃあるめえな?」。悪党同士である善助と才次の、お綱を巡る探り合いが面白い。

 (講談社文庫「紅刷り江戸噂」に収録)
短編。甲府の鯉幟(こいのぼり)問屋「皐月屋」に雇われた渡り職人の与助は、女中のお梅と一緒になる。しかし、江戸へ出て出世したい与助は、邪魔になったお梅を殺害して、出奔する。男色の医者・了庵の薬箱持ちになった与助は、了庵の財産を相続して、金持ちになるが…。「おまえさんのところは張子の虎も造りなさるのかえ?」、「へえ。前も造っておりましたが、なかなか評判がよかったんで、今度もまた造りはじめたのでございます」。お梅が集めていた“張子の虎”に悩まされるようになる与助の姿に、悪業の報いを感じる。

七草粥  (講談社文庫「紅刷り江戸噂」や、角川文庫「蔵の中」に収録)
短編。なずな売りから七草を買って七草粥を食べた日本橋の織物問屋「大津屋」の主人・庄兵衛と番頭・友吉夫婦が中毒死した。実は手代・忠吉が、不倫関係にある庄兵衛の後妻・お千勢と共謀して起こした事件であった。事件後、番頭になった忠吉だが、妻・お絹にお千勢との仲を勘づかれ、共犯者のなずな売りの男・丑六(うしろく)には金を強請られ…。「片をつけるって、まさか、おまえ?」、「なに、もう、そんな手荒なことはしません。ほかの、うまい方法を考えるのです」。岡っ引・文七が暴く犯行トリック。なんともむごい犯罪小説。

波の塔(上巻)』  (文春文庫)
長編。
旅先で出会った新米検事・小野木喬夫(たかお)に好意を持ったR省の局長・田沢隆義の娘・輪香子は、小野木と人妻・結城頼子との関係に興味を抱くようになる。
不倫という危険な関係にありながらも、急速に惹かれ合っていく小野木と頼子は、富士川沿いにあるS温泉に旅行に出掛けるが、台風の被害に遭い、東京に帰れなくなってしまう…。

「どこにも出られない道って、あるのよ、小野木さん……」

方々に女を作り、たまにしか家に帰ってこないニヒルな夫・結城庸夫(つねお)との不幸な結婚生活…。運命的に出会った若い男女の不倫の行方を描いた長編恋愛小説の上巻。
輪香子の友人である呉服屋の娘・佐々木和子が楽しい。好奇心旺盛な性格で、探偵顔負けの活躍を見せてくれる。

波の塔(下巻)』  (文春文庫)
長編。
東京地検特捜部に配属になり、R省の汚職事件を担当することになった小野木喬夫。役人と業者の間を仲介する情報ブローカー・結城庸夫を逮捕するが、頼子が結城の妻であることを知り、衝撃を受ける。
頼子と小野木の不倫は、遂には「被告の妻」と「担当検事」というスキャンダルな関係に陥ってしまう…。頼子と小野木の関係に気づき、嫉妬を覚える結城の策謀…。自殺の名所「青木ヶ原の樹海」を舞台としたメロドラマ色の濃い悲恋小説。

 結城は、この間、頼子が別れたいと言いだしたことを思いだした。
 これまで、その話は、頼子から何度か持ちだされた。結城は、そのたびに知らぬ顔をしていた。
 自分のしていることを、頼子が気に入らないのは承知だった。結婚した当初に、頼子がその失敗に気づいたことも、結城には分かっていた。
 結城が意地になったのは、そのときからである。妻に愛されもせず、尊敬もされていないと分かると、自分の気持の方向を失った。
 勝手なことをしようと思いたったのは、そのころからである。女のことだけではない。生活の方法も、潔癖な頼子が嫌う、暗いものだった。わざと頼子が嫌うように、自分で自分をしむけたともいえる。性根は、頼子を愛していただけに、これは空虚だった。それを埋めているのが意地みたいなものと、刹那的な愉楽であった。
 頼子から、別れたいという話があったのを、横着に無視してきたのは、彼女を放さないためだった。頼子の中に、古風な倫理のあるのを彼は知っていた。夫が承知しないかぎり、勝手に逃げることのできない女だと信じていた。
 が、今度は違っていた。
 ──そうか。好きな男ができたのか。
 結城は、暗い空間を眺めてすわっていた。
 

なかなか屈折していていい感じですねえ。本当は愛している妻に愛されないモテ男の悲哀…。この小説の成功は、結城庸雄のキャラクター成形にあり!

二階  (新潮文庫「黒地の絵」や、文春文庫「危険な斜面」に収録)
短編。自宅療養したいという夫・英二にせがまれて、仕方なく夫を療養所から退院させた妻・竹沢幸子。夫の代わりに家の印刷屋の仕事を任されている幸子は、坪内裕子という付添看護婦を雇って、英二の看護をしてもらうことに。世話の行き届いた看護ぶりに、いい人に来てもらったと喜ぶ幸子だが、次第に、英二と裕子がいる二階の病間に上がるのを躊(ためら)うようになってしまう…。「ご主人は、だんだん元気になられますね」、「あら、そうですか。そんなに?」、「いや、病気の方は大して変化はありませんがね。気持がひどく元気そうなんですよ」──。二階の圧迫!! 不合理な世間!! 妻(女)の意地といったものの凄まじさに驚嘆。

濁った陽  (双葉文庫「断崖」に収録)
中編。
汚職事件をテーマにシナリオを書くことにした劇作家・関京太郎。輸入原料品の割当てに関する汚職事件に関係し、二年前に伊東の旅館で自殺を遂げた××公団の職員・草刈雄造のことを調べ始めた関は、草刈の自殺に疑念を抱くようになる。しかし、草刈の死に関係があると睨んでいた公団職員・多賀謙三郎が、真鶴の海岸で溺死してしまう。九州への転勤を悲観しての自殺だと思われたが…。

「えてして、計画は綿密でも、実行にあたると、いろいろ思わぬつまずきが出るものだが、彼の場合は、悪運が強いというか、すべてが成功したわけだ」
「それを先生が看破したわけですね。やっぱり決め手はメバルからですか?」
「まあ、そんなところだね」

役所に顔がきく“官庁ボス”である弁護士・西原圭太郎のアリバイ・トリックに挑む関京太郎の名推理! 劇作家と女弟子(森沢真佐子)のコンビが楽しい軽快な本格推理小説だが、二人のやりとりが“調査報告”のパターンになってしまったのがちょっと残念。

二冊の同じ本  (双葉文庫「失踪」に収録)
短編。古書店で「東洋研究史」という学術書を購入した私。実は知人の故・塩野泰治氏から貰った同じ本を持っている私だが、二冊共に塩野氏による書き込みがあった。塩野氏は同じ本を二冊持っていて、しかも代わるがわる両方に書き込みをしていたのだ。それはなぜか? もう一冊の本の出所を調べ始めた私は、ある殺人事件を知り…。「相場? 相場というと株の売買のようなことですか」、「いいえ小豆相場だそうです。私にはよくわかりませんが、あれはずいぶん儲かるそうで、相場の変動が激しければ激しいほど儲けが大きいそうです、慶太郎もずいぶん儲けたようです」。塩野氏の秘密と殺人事件の真相を描いたミステリー。報復のラストが意表で面白い。

偽狂人の犯罪  (新潮文庫「死の枝」や、新潮文庫「暗闇に嗤うドクター」に収録)
短編。仕事の失敗が元で、高利貸の荒磯満太郎から多額の借金をした経師屋の猿渡卯平。返済に窮した彼は、精神病者が刑事責任を問われないことを利用して、“偽狂人”となり、荒磯を殺害する。まんまと精神鑑定を突破するが…。「ぼくは猿渡が正真正銘まともな人間としか思えないんだ。何とか猿渡の詐病を剥いでやりたいよ。君、何とか工夫はないかねえ?」。意外な結末が面白くて笑える。

寝敷き  (文春文庫「陸行水行」に収録)
短編。屋根や二階の壁を塗りながら、よその家の情事を覗き見して楽しんでいるペンキ職人の森岡源治。その話を種にして、仕事先の家の主婦・小村澄子と仲良くなり、その場限りの情事を楽しんだ源治は、澄子の若い姪(めい)・夏井季子(すえこ)とも関係を持つが、しつこく付きまとわれてしまう。結婚相手のいる源治は、邪魔者である季子を心中に見せかけて殺害してしまうが…。「おや、さすがに女性だな、ちゃんと寝敷きをしている」──。寝敷き(寝押し)に着目した刑事の見事な推理と肩透かしすぎるラストとの落差が面白い。

剥製  (新潮文庫「共犯者」に収録)
短編。鳥寄せ名人・塚原太一を取材する新聞社の芦田だが、鳥の啼きマネをしても一向に鳥が集まらない。事も有ろうに、木の枝に剥製の鳥を並べて、カメラマンに写真を撮らせ、千円の謝礼を要求する塚原に唖然となる。塚原はとんだ食わせ者であった。一年後、作家T氏の担当者になった芦田は、T氏に頼まれて、落ちぶれた評論家・R氏に仕方なく原稿を依頼するが…。「近ごろ忙しくてね、急な締切を云われると困るんですが」、「いや、おひまな時で結構です」。見せかけだけの中身のない“人間の剥製”にはなりたくないものだ。

白梅の香  (新潮文庫「西郷札」に収録)
短編。出府する藩主の共で、初めて江戸へやって来た美男子な若侍・白石兵馬。何度も芝居見物に行くうちに、芝居茶屋の主人に呼びとめられた兵馬は、白梅の香が漂う邸に招待され、見知らぬ女と夢のような一夜を過ごす。しかし、衣服についた白梅の匂いによって、思わぬ事態になってしまう…。「昨夜は夢のようだった。あんな思いもよらぬことがこの世にあるとは。なるほど江戸は面白い。あの女にもう一度会いたい。何とか口実をつくって外泊の許しを得たいものだが」──。田舎侍の江戸見物のてん末を描いた時代小説。

箱根心中  (新潮文庫「或る「小倉日記」伝」に収録)
短編。従兄妹(いとこ)同士であり、既婚者同士である健吉と喜玖子(きくこ)は、会えばいつも軽口ばかり言いあっている間柄だ。夫の雄治とうまくいっていない喜玖子を誘って、箱根へ日帰り旅行に出掛けた健吉だが、よりによって自動車事故に巻き込まれ、怪我を負ってしまう。東京に帰れなくなってしまった二人は、箱根の旅館に宿泊することを余儀なくされる…。「だめよ」、「どうしても?」、「いけない。健さん、明日の朝、わたしを帰せるようにして」──。心中(しんじゅう)という必然に導かれていく男女の姿を描いた純愛小説。

張込み  (新潮文庫「張込み」に収録)
短編。東京・目黒で起きた強盗殺人事件の共犯者・石井久一を追跡する警視庁の刑事・柚木(ゆき)は、石井の元恋人宅を張り込むため、はるばる九州・S市まで出張する。「石井はどこかで自殺するかもしれぬ。昔の女には必ず会いにくる」。年の離れた吝嗇家の夫と、三人の継子と暮らす主婦・さだ子の単調で平凡すぎる日常生活…。──あの疲れたような、情熱を感じさせなかった女が燃えているのだ──。女に対する刑事の同情と思いやりに共感を覚える。“激しいときめき”つながりで、藤沢周平の短編「小ぬか雨」も必読。

左の腕  (文春文庫「無宿人別帳」や、新潮文庫「佐渡流人行」に収録)
短編。子供相手の一文飴(あめ)売りをして、苦しい生活をしていた六十近い老人・卯吉と十七の娘・おあき。深川の料理屋「松葉屋」に拾われ、暮らしが楽になったことを喜ぶ卯吉だが、人の弱味につけ込んで金を捲き上げている目明しの麻吉(あさきち)に、左腕の古疵(過去の秘密)を見られてしまう。そんな中、松葉屋に押し込みが入り、おあきも他の女中たちと一緒に賊に縛られていると知った卯吉は…。「──子供はいい。子供は飴の細工だけを一心に見ているからな」。卯吉の意外な正体と、人生の悲哀を描いた時代小説。

秀頼走路  (新潮文庫「佐渡流人行」に収録)
短編。大坂夏の陣で豊臣方に加担して敗北した浪人・山上順助。大坂城から逃走した順助は、豊臣秀頼(ひでより)の側室だった女から、桐の紋のある小袖と脇差(わきざし)を力ずくで奪い取ってしまう。小袖と脇差の威光で、まんまと秀頼に成りすました順助は、三人の朝鮮人を従えて九州に逃れ、薩摩まで辿り着くが…。「おのれ、よくもこのような恥辱を与えおったな。予を秀頼と知ってか。あとで後悔いたすな」──。大酒のみで好色である醜悪すぎる男のなんちゃって出世話。秀頼脱出説(生存説)を題材にした歴史時代小説。

ひとりの武将  (新潮文庫「佐渡流人行」に収録)
短編。同い年である加賀の前田利家に敵愾心を燃やす越中の佐々内蔵助成政。仕えていた信長が横死し、秀吉が台頭する中、利家と仲の良い秀吉を嫌う成政は、次第に孤立し、追い込まれていく。家康に秀吉打倒の協力を得るため、成政は命がけで冬山を越えて行くが…。「さてさて年は同じでも人間の値打ちの違いは天と地じゃ。内蔵助め、ひとかどの暴れ者と思うていたが、武士の死場所も得ずに、生死を請いにくるとはきたなき奴じゃな」。敗北という現実に目を背け続けた男の“死に際”を描いて印象深い歴史時代小説。

火の記憶  (新潮文庫「或る「小倉日記」伝」に収録)
短編。幼い頃に、父親が失踪し、母親を亡くした過去を持つ高村泰雄は、長い迷いの末に、妻・頼子に父の失踪の理由を打ち明ける。父の失踪は、河田忠一という警察関係の男と母との不倫関係が原因ではないか。炭坑のボタ山の火の記憶から、そう確信するに至った泰雄は、失踪した父をかわいそうに思い、不潔な母を憎むのだが…。「おまえはええ子じゃけん、今夜のことを人に言うじゃないよ。おまえは言うなというたら、言わん子じゃけんのう」──。主人公が考え及ばなかった失踪事件の意外な真相を描いた傑作短編。

美の虚像  (新潮文庫「憎悪の依頼」に収録)
短編。画壇の権威であった美術評論家の故・遠屋則武が真作だと鑑定したファン・ダイクやドラクロワ、セザンヌなどの素描画が、若手評論家の梅林章伍の指摘で贋作(がんさく)であるかもしれないと知った新聞記者の都久井。梅林の説が正しいとすると、なぜ遠屋ほどの人物が偽作に折紙をつけたのであろうか? そして贋作者は一体誰なのであろうか? 遠屋によって見い出され、遠屋の死によって没落した画家・小坂田二郎に着目し、調査する都久井だが…。「ところで、君には、この偽作者が誰か見当がついてるかね?」、「これだけの絵をかいた人物だもの、ぼくには、その推察がついている」──。贋作者の秘密と深謀な復讐が面白い美術ミステリー。



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