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田鶴浜の歴史
田鶴浜町は、鹿島郡のほぼ中央にあり、七尾に西湾に面しており、東隣は七尾市、和倉・奥原地区、北西には中島町、そして南西へ下ると志賀町に行け、日本海に出ることができる。山道もなく七尾湾と日本海を結ぶ道があることから、古くから能登の重要な交通の要衝でもあります。
先史時代から述べましょう。まず縄文時代には、前期の遺跡として吉田野寺遺跡がありますし、大津には縄文時代を中心とする広範囲の時代の大津遺蹟があります。弥生時代のものとしては、後期の墳丘墓群吉田塚山遺蹟があります。古くから開かれた地域でした。
承久3年(1221)9月6日の能登国田数注文によれば国衙領の高田保・三引保・吉田保・往留(いくろ)保の他、与木院が成立していたことがわかります。
南北朝 の内乱期には、高田保を本願地とする高田氏が北朝方に属して、で戦っていることが知られています。高田保は、現田鶴浜町の田鶴浜、高田・杉森あたりに比定されています。暦応3年(1340)8月1日高田彦次郎が、越前金津上野(現福井県金津町)の合戦で、北朝方の能登守護吉見氏頼軍に従軍しています。
越前は、太平記など好きな方ならご存知と思いますが、南朝方の新田義貞が、皇子(義貞本人は後醍醐天皇から言いくるめられ次期天皇になると思っていた)を奉戴して越前へ下ったのであり、この頃はもう義貞は死んでいなかったが、家臣であったものなど残存勢力がまだ頑張っていました。
高田彦次郎の他にも、同族と思われる高田弥次郎が、同年同月17日から20日にかけての黒丸城(現福井市)の合戦でも参陣が知られています(同年9月「石河頼景軍忠状」(天野文書))。ともに高田保を本願地とする武士で、同氏は後に能登国の所領を失ったらしく、高田兵部丞(兵庫助とも)・高田民部丞の2人が流浪の身となって上洛し、温井楽阿弥から扶持を受けたが、明徳の乱(明徳2年(1391))における京都内野口(現京都上京区)の合戦で、恩賞を得るため、能登守護畠山基国の軍勢に加わり戦死しています(畠山基国は、畠山家で最初に能登守護となり、また数々の国の守護も兼ね畠山家の繁栄の絶頂期を築いた人物である)。
その後、戦死した高田2氏の老父が国許に送られてきた遺書を持参して上洛し、時衆道場で語ったと明徳記という文書に記録があります。討死にによる論功によって民部丞の弟らが能登で所領を回復したものか、応永14年(1407)11月15日には、高田中務入道道教が、鹿島酒井保(現羽咋市)の山林を 永光寺 (現羽咋市)に寄進しているのが文書(「高田道教寄進状」永光寺文書」)に見えます。
また同じく南北朝の争乱期、貞和5年(1349)7月〜8月には、能登の有力国人の得田氏の長である老体の 得田素章 に代わって、一族の代官で大津(田鶴浜町大津村)を本願地していたらしい大津章広が、大和の南朝方討伐に赴く能登守護桃井兵部大輔の軍に従っています(貞和5年「大津章広着到状写」得田文書)。章広は、国人得田氏の庶流であるらしい。
話は前後するが、観応の擾乱(足利尊氏・直義兄弟の主導権争い)に際しては、能登でも足利直義方の桃井直常勢(直信と書く資料もあり)が越中から乱入し、足利尊氏方の吉見氏頼が観応2年8月18日、これを迎撃するため 赤蔵寺 に立て篭もっています。
以後9月21日にかけて同寺周辺の三引山を舞台に激戦が展開され、やがて吉見方が桃井勢を越中に撃退している。赤蔵山一帯は、当時三引山と呼ばれたらしく、付近には吉見方の 長秀信 が拠った「曲松要害」があり、秀信は大津から出陣し、赤蔵山に立て篭もる吉見氏頼を救援しています。
また赤蔵寺を攻撃する桃井勢が本営とした「三引御敵城」の城砦も設けられていたことが同年9月の「長野家光軍忠状」得江文書に書かれています。三引山の中心部で、赤蔵権現(赤蔵寺)の鎮座したところが、後に赤蔵山と通称されるようになったもの推定されます。赤蔵寺は、赤蔵山の別当寺で、能登の守護勢力と結ぶ一大勢力を形成していたと考えられます。
天文22年(1553)12月10日、先に能登から出奔していた元能登畠山家重臣・ 遊佐続光 らの牢人衆が、河内の畠山被官(同族の遊佐氏など)の支援を得て能登に侵攻した際、七尾城下から4里ほど離れた田鶴浜村に陣取ったが、27日の 大槻の戦い で反乱軍が大敗したため、翌28日続光は田鶴浜の陣を引き払って、加賀方面に遁走しています(「畠山氏年寄衆連署書状写」雑録追加)。
戦国後期は、田鶴浜村は、畠山被官の「坪川殿」の知行地であり、また大津村は、同じく畠山被官の 三宅伊賀守 と大津氏の知行地であったこともわかっています(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)。
天正8年(1580)織田信長から鹿島半郡を与えられた長連龍は、田鶴浜に館(旧内浦街道東側の得源寺坂上方、金岩山にあったとされる)を構えました。この館は、天正年間に建設されたと推定され、長連龍は、慶長11年(1606)に如庵と名乗り、当地に隠退したといわれます。
御旅屋(おたや)とも称していたようです。 長氏は以後、前田利家の能登入封後は、加賀藩の老臣となり、長氏の12村は加賀藩でありながら長氏の直接支配を受けていました。鹿島半群は、寛文6年(1666)の 浦野騒動 を経て、同11年長領は他村同様加賀藩直轄領となりました。その寛文11年まで、田鶴浜館は、能登半郡の長氏の本拠だった訳です。
特産品の建具製品は、慶安3年(1650)長家23代連頼が、先々代の菩提を弔うため、東嶺寺の堂宇を改築した際、尾張国から指物工を招いて戸障子・欄間を作製させてことにはじまるといいます。つまり村民がこぞって弟子入りし、それhが名産建具の発祥となったのです(鹿島郡誌)。
安政3年(1856)から文久元年(1861)までの能州四郡名物付(岡部文書)によれば、魚介類稼は、ごうな・なよし・黒鯛・こち・王余魚・たなご・うぐい・このしろ・すずき(鱸)・蛸などがある。蛸は名物で蜘蛛蛸と呼ばれる。検地奉行・永江善助を祖とする永江家は、寛延3年(1750)以来間改役・御郡蔵宿吟味役などを歴任しました(「永江家由緒書」永江文書)。
二宮川下流域は、新開田が多いことから、明治19年(1886)には、関係村地主代表による六ヶ用水区域土工会が結成され、現在も六ヶ用水が流れています。
明治21年、田鶴浜村・鶴尾尻村・高田村・杉森村・新屋村・川尻村・舟尾村・舟尾村奥原入会と、奥原村(現七尾市)が合併して、館ヶ浜村となる。
同22年の町村制実施によって同村は廃止され、端村(はしむら)(一部は現七尾市)・相馬村(一部は現鳥屋町)・田鶴浜村・赤蔵村・金ヶ崎村が成立した。昭和9年(1934)には、田鶴浜村・赤蔵村・端村が合併して和倉町(一部は七尾市)が成立し、同14年同町のうち奧原・和倉の2地区が七尾市に編入され、同29年和倉町と相馬村のうち瀬戸・花見月を除く地域、金ヶ崎村が合併して現町域が成立しました。
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