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芹沢鴨、平山五郎 暗殺

文久3(1863)年9月18日、新選組筆頭局長である芹沢鴨と芹沢の腹心で副長助勤をつとめた
平山五郎が、新選組隊士たちの手によって暗殺されました。

よく近藤たち試衛館派が自ら自分たちの単独体制にしようとして、邪魔な芹沢派を粛清したように
描かれていますが、事実は京都守護職より試衛館派に向けて、芹沢一派追討の打診が
あったのです。

これは、僕の個人的な見解ですが、近藤たちは芹沢一派の粛清を京都守護職の打診により、
「しかたなく」実行したと思っています。

芹沢の葬儀では、近藤が弔辞を読んだそうで、「時に声を詰まらせての熱演ぶりだった」と伝えられて
いますが、実は本当に悲しかったのかもしれません。

ここでは、「新選組筆頭局長・芹沢鴨 暗殺」について紹介します。

芹沢 鴨(せりざわ かも)


生まれは、文政10(1827)年説と天保元(1830)年説があるが確定しない。
常陸国行方郡芹沢村の水戸郷士。
水戸郷士・芹沢貞幹の三男。 本姓、平。 諱は光幹。
攘夷派脱藩浪人で水戸天狗党出身。
(水戸藩では尊王攘夷派を天狗派と呼んだ。 天狗党というのは、彼らが元治元(1864)年に
挙兵してからの呼称)
剛胆な親分肌で神道無念流免許皆伝の達人。

常陸の板子宿で、同志の者3人を斬り殺し、江戸に送られ入牢した芹沢は、小指を噛み切り、
その血で
「雪霜に色よく花の魁けて 散りても後に匂ふ梅が香」
という辞世の句を書いた。
しかし、その後、幕府の大赦の際、芹沢も放免される。
それ以降の芹沢は病であったともいう。 また、梅毒に冒されていたとも伝わる。

文久3年2月、同志の新見錦・平山五郎・平間重助・野口健司らと共に浪士組へ加わり上京した。

「新見錦 切腹 以降、芹沢鴨が徐々に変わり、ついに 法令 を破って、
乱暴がことにはなはだしくなった。

近藤勇が説得してもことごとく聞き入れず、一同が困り果てているところへ、会津藩公用方より
近藤勇が呼び出され、さっそく出かけると、芹沢鴨があまり市中で乱暴を働くため、朝廷筋より
召し取るようにとの御沙汰があったことを聞かされた。

近藤勇が戻って役付き者たちに相談したところ、一同は驚いて心配した。

芹沢鴨は新選組を創立した本人であり、まさか召し取って差し出すわけにもいかず、
しばらくの間は一部屋に謹慎させておく以外にないだろうと相談したのである。」

上記の文は、隊士・永倉新八の手記によるものです。

僕が、芹沢暗殺は仕方なく実行したという根拠もここからきています。

この時点では、「暗殺」ということには触れられていないからです。

芹沢は、京都入洛後の4月から7月にかけて、大坂の平野屋・加嶋屋・鴻池などから借金を
重ねています。
しかし、当時の 壬生浪士組 の経済面を考えれば、こうでもしなければ壬生浪士組は自滅した
ことでしょう。

数々の乱暴を働く芹沢に、ついに朝廷の堪忍袋の緒が切れた事件が発生します。

8月13日、芹沢は借金を断られた腹いせに、隊士を連れて、葭屋町一条の生糸問屋
・大和屋庄兵衛宅に押しかけ、土蔵を打ち壊し、火を放ちました。
世にいう「大和屋打ち壊し事件」です。

駆けつけた所司代の火消し役まで追い払ったといいます。

この大和屋がある(現存はしていません。  晴明神社 の裏側を南に行ったあたりです。) 西陣 は、
その昔から西陣織や京菓子、工芸品にいたるまで朝廷御用達だったため、朝廷を怒らせることに
なったのです。

そしてついに、文久3(1863)年9月18日を迎えます。 大雨の夜だったといいます。

「島原遊郭の角屋 徳右衛門の座敷を借り、新選組は再び会合を開いた。

国事の論議が終わって、芸妓や舞子をあげて愉快にやっていたが、島原が総仕舞いとなる
午後6時ごろになって、芹沢鴨、平山五郎、平間重助は角屋から帰った。

土方歳三、沖田総司、御倉伊勢武も帰って、芹沢、平山、平間、土方の4人は壬生の
八木源之丞の本宅 を借り、酒宴を開いた。

このとき芹沢鴨は、四条堀川西へ入るところの菱屋という家の妾お梅を愛しており、彼女を
呼んでいた。

平山五郎は島原の桔梗屋お抱えのお栄、平間重助は島原の 輪違屋 お抱えの糸里を呼んで、
一座は盛り上がっていた。

土方は芹沢を酔わせて早く寝かせなければならないと、もはや夜更けになったのでお開きに
しよう、といって酒を引き上げ、下間で芹沢と平山が横になり、平間は別間に寝た。

各人が女を抱いて寝入るのを見届け、土方は八木家を去った。

その際に玄関の障子を開け、門の扉を開けておいた。

まず御倉伊勢武が真っ先に刀を抜いて入り、直後に土方歳三、沖田総司、藤堂平助も抜き身を
持って入ると、いきなり平山五郎の寝首を斬り、ついで屏風を隔てて眠る芹沢鴨に、その屏風
ごと刀を突き立てた。

2人とも大声を発し、芹沢鴨は枕元にある刀を手にして、抜きかけたところで腕を斬られ、
そのまま死んだ。
お梅は床のなかで苦しみながら死ぬ。

平山五郎には屏風ごと5、6回、刀を突き立てた。

そのうちに八木の家内が目を覚ましたので、4人は八木家を去っていった。

平山の女は、襲撃のときに便所に行っていたため、難を逃れ、平間重助と女は傷も無く、
驚いた平間重助はその夜のうちに局を脱走した。

芹沢鴨が誰に暗殺されたのか、新選組では知らぬふうを装い、死骸は立派に神葬で弔い、
壬生寺 へ埋めた。」

上記も永倉の手記によるものです。

角屋では、芹沢最後の宴となった部屋は、「松の間」だったと伝わっています。

また、暗殺の様子については、永倉の手記は、八木家に伝わるものと若干の違いがあります。

八木家に伝わるものは、

①芹沢・平山暗殺を実行した隊士は、土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助で、
剣の腕が立つ芹沢には、土方と沖田があたり、平山には山南と原田があたったといいます。

②芹沢暗殺の現場は、八木邸母屋で、玄関から見ると、一番奥にある「奥の間」ですが、
襲われた芹沢は、縁側伝いに隣の部屋まで逃げ、その逃げ込んだ部屋に置かれていた文机に
つまずき、よろめいたところを斬られたといわれています。

逃げ込んだ部屋の鴨居には、「芹沢暗殺時の刀傷」といわれるものが現在でも残り、また、
芹沢がつまずいた文机も、部屋にそのまま残されています。

八木家の子どもたちは、その隣の部屋で眠っていたといいます。


9月20日、 前川邸 において2人の葬儀がおこなわれました。 そこには会津藩からも参列が
あったといいます。

その時、暗殺の実行犯は長州による間者かという噂がささやかれましたが、弔辞を読み近藤に
対し、八木家の人たちは、「みんな知ってるくせに、近藤さんも役者や」と思ったそうですが、
事の真相は、明治まで決して語られませんでした。

でも、この頃の新選組に、長州の間者が紛れ込んでいたのもまた事実です。

芹沢暗殺時、真っ先に刀を抜いて八木邸に入っていった、御倉伊勢武がそうです。
新選組の筆頭局長を殺すチャンスと意気込んでいたのでしょうか。

芹沢存命時、越後三郎・御倉伊勢武・荒木田左馬之介・松井龍三郎が新選組に入隊を
申し込みましたが、彼らを長州の間者と知りながら、近藤と芹沢は加入させたそうです。

近藤と芹沢は、永倉を間者として彼らのもとへ入れました。

芹沢の暗殺から2ヶ月がたった11月頃、御倉伊勢武は近藤に向かい「いろいろと探索したところ、
長州が新選組を焼き討ちにするとの論が盛んで、近藤先生はここにいては御身が危険なので、
御立ち退きになるべき」と進言し、実現すれば、それから局中に同志を募って、ますます新選組を
混乱させようとの謀略だったそうです。

これによって、この新加入の4人を殺害しようということになったそうで、12月中旬に御倉・荒木田
を殺害。 また、彼らの同志の楠小十郎ともうひとりも殺害。
越後と松井、そのほか4人ばかりが、この事件を聞くと、局を脱走したそうです。

さらに、12月27日には、芹沢派の残党である野口健司も切腹させられました。

野口健司切腹の現場は、前川邸の長屋門の右側の出格子窓の部屋だそうです(非公開)。

これによって芹沢派の一掃は完了し、新選組は近藤のひとり局長となり、幹部に試衛館派が
名を連ねる新体制になったのです。

芹沢派の墓

壬生寺境内の壬生塚にある芹沢派の墓

左側が芹沢鴨と平山五郎の墓です。
右側の墓は、7人の隊士の合葬墓ですが、野口健司と田中伊織の名も刻まれています。
(田中伊織は新見錦のことでは?という説もある)

隊士たちの墓は、それぞれ壬生寺の境内の別の場所にありましたが、境内に「壬生塚」を
造る際に、この場所へ集めたそうです。

ちなみに、芹沢と平山の墓石は、後年建て替えられたものだそうです。

なお、芹沢の墓は、この壬生寺にあるものが唯一のものだそうです。

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