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紀行・日記



『海道記』(作者未詳)

貞応2年(1223年)4月4日、京都に住む隠者が東海道を鎌倉まで下る。

 貞應二年卯月ノ上旬、五更ニ都ヲ出テ一朝ニ旅ニ立ツ。

 浜名橋ノ橋ノ下ニハ、思事ヲ誓テ志ヲノベ、清見関ノ関屋ニハ、アカヌ余波ヲトゞノメテ歩ヲ運ブ。富士ノ高峰ニ煙ヲ望メバ、臘雪宿シテ雲独リ咽ビ、宇津ノ山路ニ蔦を尋ヌレバ、昔ノ跡夢ニシテ風ノ音オドロカス。



 四月四日、曉、都ヲ出。朝ヨリ雨ニ逢テ、 勢多橋 ノ此方(こなた)ニ暫ク留(とどまり)テ、浅増クシテ行。今日明日トモシラヌ老人ヲ独リ思ヲキテユケバ、

   思ヲク人ニアフミノ契アラバ今帰コン勢多ノナカミチ

瀬田の唐橋


 潮見坂ト云処ヲノボレバ、呉山ノ長坂ニアラズトモ、周行ノ短息ハタヘズ。歩ヲ通シテ長キ道ニスゝメバ、宮道(みやぢ) 二村ノ山中 ヲ遙(※「目」+「余」)ニ過グ。山ハ何レモ山ナレドモ、優興ハ此山ニ秀(ひづ)、松ハ何レモ松ナレドモ、木立ハ此松ニ作(な)レリ。翠(みどり)ヲ含ム風ノ音ニ雨ヲキクトイヘドモ、雲ニ舞鶴ノ声晴ノ空ヲシル。松性々々、汝ハ千年ノ貞操アレバ面替(おもがは)リセジ、再征々々、我ハ一時ノ命ナレバ後見ヲ期シ難シ。

   今日過ヌ帰ラバ又ヨ二村ノヤマヌ余波ノ松ノ下道

二村山


 山中ニ堺川アリ、身ハ河上ニ浮デひとり渡レドモ、影ハ水底ニ沈デ我と二人リ行。カクテ参河の国ニ至ヌ。 雉鯉鮒 ガ馬場ヲ過テスリノ野原ヲ分レバ、一両ノ橋ヲ名ケテ 八橋 ト云。砂ニ眠ル鴛鴦ハ夏ヲ翁シテ去リ、水ニ立ル杜若ハ時ヲ迎テ開タリ。花ハ昔ノ花、色モカハラズサキヌラン、橋モ同ジ橋ナレバ、イクタビ造カヘツラム。相如世ヲ恨シハ、肥馬ニ駄(におほせ)テ昇遷ニ帰ル、幽子身ヲ捨ル、窮鳥ニ類シテ此橋ヲ渡ル。八橋ヨ八橋、クモデニ物思フ人ハ昔モ過キヤ、橋柱ヨ橋柱、オノレモ朽ヌルカ、空ク朽ヌル者ハ今モ又過ヌ。

   住ワビテ過ル三川ノ八橋ヲ心ユキテモ立カヘラバヤ

 此橋ノ上ニ思事ヲ誓テ打渡レバ、何トナク心モ行様ニ覚テ、遙ニ過レバ宮橋ト云所アリ。數双(しきならべ)ノワタシ板ハ朽テ跡ナシ、八本ノ柱ハ残テ溝ニアリ。心中ニ昔ヲ尋テ、言ノ端ニ今ヲ註(しる)す。

   宮橋ノ残る柱ニ事問ン朽テイク世カタエワタリヌル

暫ク旧橋立トゞマリテ珍キ渡ヲ興ズレバ、橋ノ下ニサシノボル潮ハ、帰ラヌ水ヲカヘシテ上ザマニ流レ、松ヲ拂フ風ノ足ハ、頭ヲ越テトガムレドモキカズ。大方、羇中ノ贈(おくりもの)ハ此処ニ儲タリ。

   橋本ヤアカヌ渡トキゝシニモ猶過カネツ松ノムラダチ

   浪枕ヨルシク宿ノナゴリニハ残シテ立ヌ松ノ浦風

 十一日、橋本ヲ立テ、橋ノ渡ヨリ行々顧レバ、跡ニ白キ波ノ声ハ、過ル余波ヲヨビ返シ、路ニ青キ松ノ枝ハ、歩ム裾(きぬのすそ)ヲ引トゞム。北ニ顧レバ湖上遙ニ浮デ、波ノ皺水ノ皃ニ老タリ。西ニ望メバ潮海広ク滔(はびこり)テ、雲ノ浮橋、風ノ匠(たくみ)ニ渡ス。水上ノ景色ハ彼モ此モ同ケレドモ、湖海ノ淡鹹ハ、氣味是異ナリ。

 此処ヲウチ過テ浜松ノ浦ニ来ヌ。長汀砂(いさご)フカクシテ行バ帰ガ如シ。万株松シゲクシテ風波声ヲ争フ。見バ又洲嶋潮ヲ呑ム、呑バ則曲浦ノ曲ヨリ吐キ出シ、浜い珠ヲ汰(ゆ)、汰バ則畳巖ノ畳ニ砕キ敷ク。優哉艶哉、難忘難忍。命アラバイカデカ再来テ此浦ヲ見ム。

   波ハ浜松ニハ風ノウラウへニ立トマレトヤ吹キシキルラン

 林ノ風ニヲクラレテ 廻沢ノ宿 ヲ過、遙ニ見亘(わたし)テ行バ、岳辺(をかべ)ニハ森アリ野原ニハ津アリ。岸ニ立ル木ハ枝ヲ上ニサシテ正シク生タレドモ、水ニウツル景ハ梢ヲ逆(さかさま)ニシテ本ニ相違セリ。水ト木トハ相生中ヨシトキケドモ、映ル影ハ向背シテ見ユ。時已ニ誰枯ニナレバ、夜ノ宿(やどり)ヲトヒテ池田ノ宿ニ泊ル。

 山口ト云今宿ヲ過レバ、路ハ旧ニ依テ通ゼリ。野原ヲ跡ニシ、里村ヲ先ニシ、ウチカヘウチカヘ過行バ、 事ノ任ト申社 ニ參詣ス。本地ヲバ我シラズ、仏陀ニゾイマスラン、薩タ(※「土」+「垂」)ニモイマスラン。中丹ヲバ神必憐給べシ。今身(こんじん)モヲヤカニ、後身(ごしん)モ穏カニ、椙ノ村立ハ三輪ノ山ニアラズトモ、恋敷ハ問(とぶらひ)テモマイラン。願ハ只畢竟空寂ノ法味ヲ納受シテ、真実不虚ノ感ヲ垂レ給ヘ。

   思フ事ノマゝニ叶ヘヨ杉タテル神ノ誓ノシルシヲモミン

 社ノ後ノ小河ヲ渡レバ、 小夜ノ中山 ニカゝル。此山口ヲ暫クノボレバ、左モ深キ谷右モ深キ谷、一峯ニ長キ路ハ堤ノ上ニ似タリ。両谷ノ梢(※「木」+「少」)ヲ眼ノ下ニ見テ、群鳥ノ囀ヲ足ノ下ニ聞ク。谷ノ両片ハ又山高シ。此際(あひだ)ヲ過レバ中山トハ見タリ。山ハ昔ノ山、九折ノ道旧(ふるき)ガ如シ。梢ハ新ナル梢、千條ノ緑皆浅シ。此所ハ其名殊ニ聞ツル処ナレバ、一時ノ程ニ百般(ももたび)タチ留テウチ眺メ行バ、秦蓋ノ雨ノ音、ヌレズシテ耳ヲ洗ヒ、商テツ(※「イ」+「至」)ノ風ノ響(ひびき)ハ、色ニ非シテ身ニシム。

   分ノボルサヤノ中山中々ニ越テ余波ゾクルシカリケル

 時ニ鴇馬(はうば)蹄疲テ、日烏翅(つばさ)サガリヌレバ、草命ヲ養ンガ為ニ、 菊川ノ宿 ニ泊ヌ。

 或家ノ柱ニ、中御門中納言宗行卿斯書付ラレタリ。

   彼南陽縣菊水、下流汲齢延、此東海道菊河、宿西岸終命。

 誠ニ哀ニコソ覚レ。其身累葉ノ賢キ枝ニ生レ、其官(つかさ)ハ黄門ノ高キ階(はし)ニ昇ル。雲上ノ月ノ前ニハ、玉ノ冠(かうぶり)光ヲ交ヘ、仙洞ノ花ノ下ニハ、錦ノ袖色ヲ争フ。才身ニタリ栄分ニアマリテ時ノ花ト匂シカバ、人其ヲカザシテ近モ隨ヒ遠キモ靡キ、カゝルウキ目ミントハ思ヤハヨルべキ。

菊川坂石畳


  清見関 ヲ見レバ、西南ハ天ト海ト高低一ニ眼ヲ迷シ、北東ハ山ト磯ト嶮難同ク足ヲツマヅク。盤(いはの)下ニハ浪ノ花、風ニ開春ノ定メナリ、岸ノウヘニハ松ノ色、翠ヲ含テ秋ニオソレズ。浮天ノ浪ハ雲ヲ汀(みぎは)ニテ、月ノミ舟夜出テ漕、沈陸ノ礒ハ磐ヲ路ニテ、風ノ便脚、アシタニスグ。名ヲ得タル所必シモ興ヲエズ、耳ニ耽(ふけ)ル処必ズシモ目ニ耽ラズ、耳目ノ感二ツナガラ従(ゆるし)タルハ此浦ニアリ。波ニ洗テヌレヌレ行バ、濁ル心モ今コゝニ澄リ。宜ナル哉、此処ヲ清見ト名付タル。関屋ニ跡ヲトへバ松風空ク答フ、岸脚ニ苔ヲ尋レバ橦花変ジテ石アリ。関屋ノ辺ニ布タゝミト云処アリ。昔関守ノ布ヲトリオキタルガ、積テ石ニ成タルト云リ

   吹ヨセヨ清見浦風ワスレ貝ヒロフナゴリノ名ニシオハメヤ

   語ラバヤ今日ミルバカリ清見潟オボエシ袖ニカゝル涙ハ

 富士ノ山ヲ見レバ、都ニテ空ニキゝシゝルシニ、半天ニカゝリテ群山ニ越タリ。峰ハ鳥路タリ、麓ハ鹿蹊タリ。人跡歩ミ絶テ独リソビケアガル。雪ハ頭巾ニ似タリ、頂ニ覆テ白シ、雲ハ腹帯ノ如シ、腰ニ囲(めぐり)テ長シ。高キ事ハ天ニ階立(はしたて)タリ、登ル者ハ還テ下ル。長事ハ麓ニ日ヲ経タリ、過ルモノハ山ヲ負テ行。温泉頂ニ沸シテ、細煙幽ニ立チ、冷池、腹ニタゝヘテ洪流川ヲナス。誠ニ此峰ハ峰ノ上ナキ霊山也。霊山ト云バ、定テ垂跡ノ権現ハ尺迦ノ本地タランカ。彼仙女ガ変態ハ、柳ノ腰ヲ昔語ニキゝ、天神ノ築山ハ、松ノ姿ヲ今ノナガメニミル。山ノ頂ニ泉アテ湯ノ如クニ沸ト云フ。昔ハ此峰ニ仙女常ニ遊けリ。東ノ麓ニ新山ト云山アリ。延暦年中、天神クダリテ是ヲツクト云リ。都(すべ)テ此峰ハ、天漢ノ中ニ冲(ヒイリ)テ、人衆ノ外ニ見ユ。眼ヲイタゞキテ立テ、神(たましひ)(※立心偏+「兄」)々トホレタリ。

   幾年ノ雪ツモリテカ富士ノ山イタゞキ白キタカネナルラム

   トヒキツル富士ノ煙ハ空ニキエテ雲ニ余波ノ面影ゾタツ

富士山


 今日ハ 足柄山 ヲ越テ関下宿(せきのもとしゆく)ニ泊ルべキニ、日路(じつろ)ニ烏群リ飛テ、林ノ頂ニ鷺ネグラヲアラソヘバ、山ノ此方ニ竹ノ下ト云処ニトマル。四方ハ高キ山ニテ、一河谷ニ流、嵐落テ枕ヲ扣ク、問ヘバ是松ノ音。霜サエテ袖ニアリ、払ヘバ只月ノ光、寢覚ノ思ニタヘズ。独リ起居テ残ノ夜ヲ明ス。

   見シ人ニ逢夜ノ夢ノナゴリ哉カゲロフ月ニ松風ノ声

   深(ふく)ル夜ノ嵐ノ枕フシワビヌ夢モ宮コニ遠ザカリキテ

紀行・日記



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