このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

今年の旅日記

栗林公園〜飛来峰〜
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高松市栗林町の 栗林公園 (HP)に立ち寄ってみた。

 明治43年(1910年)の『高等小学読本』巻一には、「我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ 偕楽園 、金沢ノ 兼六園 、岡山ノ 後楽園 ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」とあるそうだ。

百花園跡(薬園跡)


 松平5代藩主頼恭公は、花木が咲き誇る百科園に加え、ここに薬園を営んだ。各地から薬草を取り寄せ、その栽培管理には平賀源内も起用、現在は、梅林と茶園になっている。

旧日暮亭(考槃亭)


 松平二代藩主頼常の頃、南庭の東南隅に「考槃亭」という官休庵流の茶亭がありましたが、その後、会僊巌の東方に移築、「日暮亭」と改称され、さらには圏外の私人へ移るなど、この建物は、様々な変遷を経てきた。

 昭和20年(1945年)、関係者の尽力により、再び圏内に「新日暮亭」として甦った由緒ある茶室であるが、歴史的経緯を踏まえ、現在は「旧日暮亭」と呼ばれている。

桶樋滝


 西湖の石壁を流れるこの滝は、旧藩主の鑑賞用としてつくられた。紫雲山の中腹に置いた桶まで人力で水を汲み上げたことから桶樋滝という名前がついたといわれている。現在は西湖の水をポンプアップし流水している。

 明治43年(1910年)10月9日、河東碧梧桐は栗林公園の東讃俳句大会に参列した。

 東讃俳句大会に列したけれども、予は連日の選句に疲れてただ末席を汚したのに過ぎなかった。互選結果後、新傾向に対する質問も出たけれども、これに答えるのが甚だ懶(ものう)い心持であった。大会の席は栗林公園内の、すぐ南湖に臨む一旗亭であったが、麩を投げると寄って来る鯉の中に、一尾五百円千円の値するもののあるということをこの頃始めて知った。その千円鯉は、全体の白い、腹の処に赤味と黒味とを帯びたものである、というような説明を却て興あることに聞いた。


掬月亭


 大正10年(1921年)5月20日、 若山牧水 は栗林公園を訪れている。

大正15年(1926年)、河東碧梧桐は再び栗林公園を訪れている。

   栗林公園即時

水べの石夕明りして渡る橋の一つを




 昭和13年(1938年)10月20日、 高浜虚子 は掬月亭で俳句会。

肌寒も残る寒さも身一つ

      十月二十日 一行の中に年尾も加はり、高松栗林公園内、掬
      月亭俳句会。此夜高松古新町かしく泊。善通寺に正一郎伍長
      を訪ふ。


掬月亭


 昭和24年(1949年)、 中村草田男 は栗林公園を訪れている。

   栗林公園にて 三句

寒水の緋鯉よきのふの癩の島よ

大名・明治三度び代かはる林泉(しま)紅葉

癩者見し新酒美酒飲む人も見し


 昭和29年(1954年)4月17日、 水原秋桜子 は栗林公園で点茶。

   午後降りいづ。栗林公園点茶

若楓雨滴のしげく暮れゆくも

『帰心』

 昭和36年(1961年)11月、 石田波郷 は松山から帰京の途中、高松、屋島に遊ぶ。

   高松栗林公園

敗荷(やれはす)や旅の暇のおのが影

『酒中花』

 昭和44年(1969年)7月、 山口誓子 は栗林公園を訪れた。

   高松栗林公園

遠き世の如く遠くに蓮の華

『不動』

天気は良かったが、風は冷たかった。

堰月橋


 園内で名のある14橋のうちの一つで最も大きい橋であり、その名は弓張り月が湖面に影を写す姿に似ていることからこの名があり、反りをもった美しい大円橋である。

 平成13年に架け替えられたこの堰月橋は、宝くじの普及宣伝事業として整備されたものである。

飛来峰


 飛来峰から眺める南湖を中心とした奥行きのある景観は、本園を代表する絶景の一つ。藩主が江戸を懐かしみ、富士を模して造らせたと伝えられる築山で、“飛来峰”という名称は、中国杭州にある名勝地から得た命名といわれている。

ポスターで見る写真である。

恋ツツジ


 目の前の島(杜鵑嶼(とけんしょ))にあるハートの形をしたツツジは、剪定作業で偶然にできたものである。カップルや結婚式の前写しの背景などとして、人気の撮影スポットになっている。

確かに「日本ノ三公園」より優れていた。

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