このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

街 道中山道


吹上「間の宿」

さくら橋 から榛名通りに出ると、陸橋の下に「中山道間の宿」の碑があった。


中山道間の宿


吹上「間の宿」

 中山道の街道筋にあたる吹上は、 鴻巣熊谷 の「あいの宿」として発展した街ですが、江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。

 しかし、それにもかかわらず重要視されたのは、 日光東照宮 を警護する武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。

 年に30家もの大名が江戸や国元へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳人 小林一茶加舎白雄 、狂言師で戯作者でもあった 太田南畝 、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ得意な作品を残しています。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品にかぞえられていました。

 この場所は、かっての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。

「鴻巣 吹上富士遠望」(栄泉)


「お休み本陣」の当主林兵右衛門は俳人 喬駟

 享和元年(1801年)3月18日、 鶴田卓池井上士朗 に随行して江戸を立ち信州へ旅をする。

  吹 上

吹上の里の名にちるさくらかな


 享和2年(1802年)4月6日、太田南畝 は吹上村を通る。

一里塚右榎也。左田の中にあり をへて長き堤をゆく。又堤を下りて吹上村の立場なり。足袋うるもの多し。又、忍領吹上村ふくびやうの妙薬釜屋源兵衛といへる招牌あり。


 天保2年(1831年)10月12日、渡辺崋山は夜明け前に駕籠で鴻巣を発ち、吹上で休む。

 吹あげといふ処に駕おろし、おのこども飯す。又行、久下といふ。


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