このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2008年
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嵯峨野
〜去来の墓〜
落柿舎
の裏に
去来
の墓がある。
去来墳道標の碑
去来先生墳
永井瓢齋の句が刻まれている。
秋風にふきのこされて墓一つ
永井瓢齋は十世庵主。
去来の墓の入口に
与謝野晶子
の小さな歌碑があった。
皐月よし野山のわか葉光満ち末も終りもなき世の如く
去来の墓
嵯峨野の喧噪がうそのように人がいない。
明治41年(1908年)8月23日、
高浜虚子
は「去来の墓」に参拝している。
凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり
由公の墓に参るや伴連れて
此墓に系図はじまるや拝みけり
明治四十一年八月二十三日 日盛会。第二十一回。
『五百句』
昭和3年(1928年)7月1日、
荻原井泉水
は「去来の墓」を見ている。
私達は二尊院の道へ曲って、そこの藪の中にある去来の墓を展した。権、樫、楠などの木がひょろひょろと立っていて、一方は竹林であり、それは落柿舎の裏を蔽っている竹林だから、つまり墓は落柿舎の後庭にあるといってもいいのである。低い竹垣をめぐらした中に、その垣竹よりも低く小さい、烏帽子のような形をした石に、ただ
去 来
と刻んである。所で、この墓というものも、
重厚
が明和年間に落柿舎を再建した後に建ったもので、本当の去来がここに埋められているのではない。
『随筆芭蕉』
(落柿舎)
山口誓子
は「去来の墓」を訪ねている。
二尊院を辞して、藪道を西へ行くと、左側に「去来先生墳」という標石が立っている。導かれてその墓に詣でた。「去来」とただ二字だけ書いたその墓はいつ見ても小さい。
藪道に戻って、西行をつづけ、左折して落柿舎の前に到った。
『句碑をたずねて』
(京都)
去来の本当の墓は
真如堂
の墓地にあった。
旧蹟西行井戸があった。
小倉の麓に住み侍りけるに鹿のなきけるをきゝて
牡鹿なく小倉の山のすそ近みたゞひとりすむ我心かな
『山家集』
西行
の歌碑
牡鹿なく小倉の山のすそ近みただ独りすむわが心かな
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