このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
チェコのプラハへ行きたい。いつ頃かそう思うようになった。パリやロンドン、ローマ。ヨーロッパには魅力的な街はいくつもある。プラハに惹かれた最大の理由は、ある画家の存在だった。その足跡を訪ねてみたい。という思いが強かった。それから、ある写真集で見たプラハの街並み、そして裏路地。そこを歩いてみたい。 | ||||||||||||
●5月22日 プラハ 前日の夕方プラハに着いた。今日は朝からプラハ市内を巡る。プラハ本駅からプラハの市内観光ルートをひととおり歩いてみる。火薬塔から天文時計のある市庁舎へ、時計はちょうど10時で、からくり時計が動き出す。これを見ようと多くの観光客が集まっていた。そのまま入り組んだ路を進むとカレル橋に出た。カレル橋を渡る前に、橋の入り口にある塔に登ってみる。モルダウ川、チェコではヴルタヴァ川と呼ばれる悠々とした流れに掛かるカレル橋は、14世紀後半から15世紀初頭にかけて建設された。全長520m、幅は10mの石造りの橋で、その後600年以上、幾度の洪水にも耐えてきた。当時の建築技術が如何に優れていたかを、その耐久性を持って体現している。そのカレル橋を塔から見下ろし、遠くにプラハ城を望むのがお決まりの構図。小高い丘にあるプラハ城の斜面を、階段状に続く建物の並びがまた美しい。脳裏にはスメタナの連続交響詩「我が祖国」から「モルダウ」の調べが流れる。鼻歌で12分独りオーケストラといきたいところだが、他の観光客も居るのでやめておく。モルダウの流れと反対側を見下ろした風景も素晴らしい。茶色の屋根のスキマに、入り組んだ路地を人々が行き交う。こちらを飽きず眺めてしまう。もっとも高所恐怖症の人にはおすすめできないが。 塔から降りて賑やかなカレル橋を渡る。30体の聖人の銅像が両側から迎えてくれる。カレル橋の聖人で一番の人気者が、ヤン・ネポムツキー像。銅像の土台を触ると願いが叶うということで触ってみようと思ったが、腰にバッジを付けた日本人の団体だけが数十人並んでいるのを見て早々に退散した。
カレル橋から路地を抜けつつ、プラハ城に向かった。プラハ城の門の前に着いたのは、衛兵交代式の始まる30分前。門の近くのベンチに座っていると観客整理用のロープが張られ始めた。今なら一番先頭で観られると思い、ロープをくぐる。交代式の始まる正午が近づくにつれ、みるみる人が増え、振り返ると人垣が五重六重にもなっている。こんなときの待ち時間、西洋人は楽しみ方を心得ている。ロープの内側を移動する観光客に「おしみない」拍手を送る。それに挙手して応えるタダの観光客。窓を開けて回る衛兵がチラチラ現われる度にコールして大騒ぎする。勤務中は笑わない衛兵も思わず苦笑い。そんな様子を見ているうちに待ち時間はあっという間に過ぎ、正午を迎える。宮殿の窓からブラスバンドが現われ交代式が始まる。30人ほどの出番の兵士が、正門から入場し、同じく30人ほどのアケ番と向き合って整列し、槍やら剣やら旗やらを交換する。そして音楽に合わせて行進。まあ、それだけのことだが、観光の儀式だと思って最後まで観る。もっとも、最後まで観ないと身動きが取れなかったが。 交代式が終わると人垣になって観光客が場内の聖ヴィート大聖堂に一気になだれ込む。ここでもっぱら人気なのは教会に入って左から3番目のステンドグラス。私もこのステンドグラスがお目当てだった。このステンドグラスをデザインした画家こそ、アールヌーヴォーの時代パリで花咲き、晩年は祖国チェコにその才能を捧げた、アルフォンス・ミュシャである。柔らかい独特な曲線を用いたフレームに美しい女性像。アールヌーヴォーの時代、パリではタバコやワインの販促ポスターなど、庶民に愛される作品を多く残した。パリの街角やカフェを彩った作品は、日本の浮世絵みたいな存在だったそうだ。しかし、ここのステンドグラスは華やかな時代のものとは趣が違い、受難の苦しみや哀しみを描いたものである。華やかな女性の姿とは対照的な絵だが、ステンドグラスの細部を観ると、やはりあの特徴的な曲線が至るところで用いられており、ミュシャを感じることができる。
そのあと、大聖堂の塔に登ってみる。287段の階段を息を切らして登ると、今度は、ため息が出るほどの美しい街並みが眼下に広がる展望台へ出た。先ほどの橋の塔とはまた数段高い位置から、プラハの旧市街を一望できる。無秩序な高層ビルや派手な看板などお呼びでない。街全体がむかしの姿のままなのである。街の景観を守るということはこういう姿なのだと思う。 聖ヴィート大聖堂を出て少し遅めのランチを食べた後は、もっぱらミュシャ巡りとなった。今度はトラムに乗って、ミュシャミュージアムへ。中に入ると、ミュシャの年表とともに迎えてくれたのが、お気に入りの絵「黄道十二宮」。19世紀末期のパリ。『芸術はみんなのためのもの』というミュシャの信念が産んだ、たった10フランのリトグラフであった。その他にも、街灯に貼られていたポスターなど、有名な作品も展示されているが、作品の点数は少なめだった。しかしながら、作品よりも目を惹く資料は多く展示されている。ラフスケッチや試し刷りのポスター、モチーフにした写真、そして家族との写真など、完成された作品以外に見所がある。 ミュージアムの次は、市庁舎前で見つけたミュシャ・エキシビジョンという展示施設へ。ここではミュージアムで物足りなかった分、たっぷりと作品を鑑賞できた。ここでは小さなものに多く出会えた。ミュシャが手がけたのはポスターのような大きなものだけではなく、雑誌の挿絵や、チェコに戻ってからは祖国の為にと、切手や紙幣のデザインも手がけた。当時の雑誌の切れ端が、額縁に入れられただけでやけに輝いて見える。 ミュシャ巡りの締めは、レストラン・ミュシャ。店内はアールヌーヴォー風に装飾され、壁にはもちろんミュシャの絵。チェコビールで喉を潤し、伝統的なチェコ料理を頂く。今日のメインはグラーシュとよばれる牛のシチュー。チェックの時にミュシャの絵葉書が1枚付いてきた。 そして、夜のプラハを歩いてホテルへと戻ったが、プラハの見所はまだまだある。残念ながら明日の朝、早めの列車でプラハを発つ。後ろ髪ひかれる思いだが、プラハの更なる魅力の発見は、次回にとっておこう。
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