このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
私の旅日記
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2013年
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大智寺
〜獅子庵〜
岐阜市山県北野に大智寺という寺がある。
臨済宗妙心寺派
の寺である。
明応9年(1500年)、開山。
大智寺観音堂
岐阜県指定史跡獅子庵
獅子庵は、松尾芭蕉の十哲の一人で美濃派俳諧の始祖である
各務支考
の住居である。史跡には、このほかに句碑と池が含まれている。
各務支考は寛文5年(1665年)、山県郡北野村西山組で生まれた。同村の大智寺(臨済宗妙心寺派)へ入り、龍潭禅師の弟子となったが、やがて仏門を離れた。
元禄3年(1690年)3月、26才のとき近江粟津の
無名庵
に芭蕉を訪ねて門下となり、以来俳諧を志し芭蕉に従って各地を遊歴した。
正徳元年(1711年)46才のとき郷里に帰り、この庵に住んだが以後も美濃を中心に俳諧の普及に務め、享保16年(1731年)2月7日、67才の生涯を閉じた。
獅子庵の北側には支考の遺骨を納めた梅花仏と歴代道統の句碑がある。支考の句碑には次のように刻まれている。
牛叱る声に鴨立つ夕かな
黄山老人
岐阜市教育委員会
「獅子庵」は現在「解体復元工事」中。
梅花佛
明治44年(1911年)4月14日、河東碧梧桐は大智寺を訪れている。
四月十四日。曇。
冷石、琅々と共に山県郡の北野にある雲黄山大智寺を訪うた。寺には支考が自ら死せりと称して建てた墓表があるとのことであったからだ。墓は同寺塔頭内の梅泉院というのにある。院は現存しておらぬ。墓表は小さな丸い形で、表面に「梅花仏」と三字刻してある。裏に「宝永辛卯八月十六日亡名、門人小子蓮二房建之」とある。墓の下には獅子庵遺跡と称する小さな建物もあった。支考が死せりと称して一狂言書いたことはその著「阿難話」に審らかである。爾後門人の名をもって、種々の著述もし例の詭弁をも逞うしておる。
『続三千里』
「芭蕉翁」の碑
右に再和派二十一世徐庵までの碑が並んでいる。
左の歴代道統(以哉派)の句碑が並んでいる。
中央に芭蕉の句碑があった。
古池や蛙飛こむ水の音
出典は『蛙合』(仙化編)。
貞亨3年(1686年)春、
深川芭蕉庵
で詠まれた句。
芭蕉の右に支考の句碑
左に
廬元坊
の句碑
牛叱る声に鴨立つ夕かな
住倦た世とは虚なり月と花
支考の右に
五竹坊
の句碑
廬元坊の左に
以哉坊
の句碑
仰向いて分別はなし今日の月
差別なふ神も仏も桜かな
天保14年(1843年)3月、
">山本友佐坊
は11基の句碑を建立。
美濃派道統二十七世の長屋其馨
(きけい)
は二十一世から二十六世までの句碑を建立。
再和派の連塔は北方町の
西運寺
にある。
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