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西山宗因
「西翁道之記」
寛文2年(1661年)3月初め、難波を出発して松島へ旅立つ。
こゝに寛文四年とあるのは、勿論寛文二年の誤写にちがひない。この句日記によれば、出発後京に四、五日止つて残花を見歩き、三月十日に日の岡越に向ひ、東海道の順路を経て鎌倉に至るまでは春の間であった。奥州道中に移つてからは、すべて秋季の句であるから、夏中江戸に止つてゐたのであらう。
『潁原退藏著作集』(第5巻)
春霞つくる東の日記かな
弥生とともにさぐる腰銭
草鞋もたまりやいたさぬ花見して
時は寛文四年弥生の始、摂州難波のうらを門出せし日、愚息にいひける、
あらすなよ今帰りみん家桜
朝とく馬をすゝめて、
いざ馬士らはや東見ん花盛
京に四五日とゞまりて残花尋ねありきして、
衣裏に成とかたしく花の錦哉
清水
にまうでゝ
毛せんを地主の桜にしくはなし
かたはらの人、
堂からは千寿のちかひ花見哉
今日は十日日岡越にむかひて、
夕ばへはいかに朝日の岡つゝじ
四宮河原にて
四の辻むずかしく霞む大路かな
相坂の関、行もかへるも旅すがたなる中に、都人と覚しきもあり。
會坂の関もて行や花見人
瀬田の橋
日脚さへ廻るか遅し瀬田の橋
草津
弥生也春の草津の姥が餅
水口とまり、夜もすがら、かはずかしましくくねりければ、
水口に灸すへたき蛙かな
坂下、桜さかりなるに、送の人さけたうべたきといひければ、
鈴鹿山ふりさけのめや花の下
四日市より舟にのりて、
四日市いつか帰らん旅の春
海上悠然たり。
帰る波詠めしかすみ伊勢の海
鳴海
詠をれば霞や月になるみがた
八橋
鋤のこせ三河の沢のかきつばた
あらゐのわたし
、人さわがしければ、
のどめのどめ詞あら江の舟子ども
さゝさんをば此濱まつの音
小夜の中山
是はいかに小夜の中山花の昼
宇津のやま
みればみし跡霞行やまぢ哉
長公
柴屋寺
に参りて、
柴の戸のしばしの名こそ世々の春
あべ川にて、
あべ川の春の氷や古かみこ
しづはた山
山はそれしづ機帯や横霞み
江尻をたつとて、
江尻から追風はやし春の駒
清見
、三穂の浦、朧月のあけぼの詞絶たり。富士の山のいたく霞て、麓にいたりてもいまだ見ず。
不二の根をうしとなるべし春霞
富士は雪三里裾野や春の景
箱根峠にて桜を見て、
山ふかみ思ひ侘てやおそざくら
かへり見る空、雲横ぎり、霞ふかし。
共にたちし霞もかすむ都かな
藤沢
にて、
たそがれにつく藤沢のやどり哉
是からは鎌倉通り、
むかし今の御代の廣さをくらべ見る
かまくら海道江戸海道かな
奥州道中
早舟にのれとや月のすみだ川
秋霧は雫の森を立所かな
尋見んつくばの道の秋の色
みなの河霧ぞつもりて秋のうみ
秋は月の色にやゆつる桜川
名やかふる霞の浦の月の秋
水戸領の内、村山といふ所に、景有。
月影のむら松近しうらの秋
名こその関
、是より岩城領。
沖にをれ波は名こその関の月
さはこの御ゆ
、同じ。
尋ぬればさはこのみゆるもみぢ哉
御興行
さざれ石やなれる岩城の千世の秋
野田の玉川
玉河や行風白き霧まがな
緒絶の橋
玉ぬきし緒絶の橋か今朝の露
小河橋
朝霧を渡す小川の橋もなし
松嶋道中、両吟の外、
それ詠霧晴よとも岩根山
袖渡
霧を分朝行袖のわたしかな
名取河、仙臺領
埋木や色なき色に名取川
千賀塩竈
塩かまや色ある霧のうす煙
松島の夕を秋のゆふべかな
まつ嶋や道の野山は色もなし
嶋やそれ霧もてゆつる笆
(まがき)
かな
月にかぜをしまの蜑の袖枕
宮城野を都の嵯峨は花もなし
よね沢嶺
憂秋の旅をも後やしのぶ山
従岩城帰路道中
波も時に會隈川のもみぢかな
むべもその春秋風の関路哉
清水流るゝ柳
のもとにて
秋風や言の葉のこす柳陰
下野の内
風や時雨那須の篠原露もなし
西山宗因
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