このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
芭蕉ゆかりの俳人
山崎宗鑑
宗祇
・
宗長
・
荒木田守武
などと交流し俳諧連歌を興隆した。『新撰犬筑波集』を撰集。
寛正6年(1465年)、滋賀県草津市に生まれる。本名は志那範重(通称弥三郎)。幼少時より室町幕府九代将軍足利義尚に仕えた。
延徳元年(1489年)3月26日、義尚は鈎の陣で没す。宗鑑は後世の無常を感じ出家した。
明応年間に京都の山崎に「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。
大阪府三島郡島本町にある
関大明神社
の北側に山崎宗鑑の屋敷があったらしい。
享禄元年(1528年)、観音寺市の
興昌寺
に「一夜庵」を結ぶ。
一夜庵
宗鑑の庵の門には、「
上は来ず、中は来て居ぬ、下は泊まる。二夜泊るは下々の下の客
」とあったという。
天文22年(1553年)10月2日、89歳で亡くなる。
宗鑑はいづくへ行くと人問はばちとようありてあの世へといへ
興昌寺に句碑がある。
かし夜ぎの袖をや霜に橋姫御
貞亨5年(1688年)4月23日、芭蕉は山崎宗鑑の屋敷に立ち寄り、句を詠んでいる。
ありがたき姿おがまむ杜若
又、貞徳・宗鑑・守武の画像に東藤子讃を乞けるに、「何を季に、なにを題に、むつかしの讃や」とゑみたまひ、やがて書てたびけり。その句、其こと葉書、
三翁は風雅の天工を受け得て、心匠を万歳に伝ふ。この影に遊ばんもの、誰か俳言を仰がざらんや
月華の是やまことのあるじ達
芭蕉翁
『
熱田
皺筥物語』
愛知県犬山市の
尾張冨士大宮浅間神社
に宗鑑の句碑がある。
元朝の見るものにせん富士の山
宗鑑の句
手をついて哥申あぐる蛙かな
『阿羅野』
春さむきとし
にがにがしいつ迄嵐ふきのたう
『卯辰集』
かしかまし此里すきよ郭公
宮古のうつけ何を待らん
『
誹諧
釿始』
借錢もきのふの淵ぞけふの春
『曠野後集』
花の香をぬすみてはしる鼠かな
『けふの昔』
元朝の見る物にセん富士の山
『
俳諧
百一集』
元朝の見るものにせん富士の山
『古今句集』
蕉 門
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