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其の十七 |
筑後川の歴史と橋ば戸籍上の源流「田の原橋」から見てきた旅も17回目、振り返ってみたら |
筑後川は夏目漱石もたまがったごと、菜の花の時期がいちばん。しかし、最近は白かダイコンの花が混じりだした。 |
![]() 豆津橋ば渡っとる国道264号線は、久留米と佐賀間の幹線で、佐賀の県庁前ば真っ直ぐに田園風景のなかば東へ約15kmで筑後川の土手に突き当たる。 ![]() 久留米藩側が堤防作って守れば、筑後川の水は対岸の佐賀藩側にあふれ出す。 このへんの治水事業は江戸時代初期から藩が主導して始まっとった。 関ヶ原の戦いで、久留米城主の小早川秀包と柳河城主の立花宗茂は西軍に加担したもんやケン改易され、代わりに石田三成ば掴まえるていう大手柄ば立てた田中吉政(たなか よしまさ)が、筑後一国・柳河32万石の国主として、慶長6年(1601)に入部した。 吉政は入部するなり筑後川の改修に取り組み、慶長11年(1606)から13年の歳月ば掛けて瀬の下地区(久留米市)の蛇行ば解消するため、川ばショートカットする瀬の下捷水路(しょうすいろ)ば開削した。前号にも「瀬下開削」で書いとります。 しかし。田中吉政には後継ぎがおらんやったもんやケン改易されてしもうた。その後、久留米21万石の藩主となった有馬豊氏(ありま とようじ)は、引き続きこのへんの河川整備ばして、寛永年間(1624年〜1643年)には安武堤防ば築堤した。 ![]() ![]() ![]() 荒籠 (あらこ) ちゃなんかいな。 当時の堤防は現在のような連続したもんじゃのうて、霞堤(かすみてい)ていわれる不連続堤で、農地への一時的な氾濫は許容する構造になっとった。 また、控提(ひかえてい)ていうとば作って下流や市街地に氾濫が拡大せんごたる工夫ばしとった。 荒籠いうとは水流ば弱めるため、堤防から流れに対して直角に石垣ば築き出したもんで、一種の防波堤タイ。悪ういえば水ば対岸さいはねくり飛ばすしくみタイ。 小森野から若津までの22kmの間に、290ヵ所も築かれとつたていう。 これが原因で上流部では福岡藩と久留米藩が、下流部では久留米藩と佐賀藩が対立。「荒籠騒動」が絶えんやった。 各藩が勝手に水の「かけあいっこ」ばするもんやケン、かえって洪水被害が大きゅうなるていう皮肉なことも起こった。 上・筑後川下流の「荒籠」 中・奥に見えるのが三隈川の「横堤」 下・成富兵庫茂安が作った「石井樋」の「象の鼻」 上・豆津橋から下流約2km。佐賀からの国道264号線が筑後川右岸の土手に合流するところに、成富兵庫茂安の功績碑がある。彼が作った千栗土居の真ん真ん中。 瀬ノ下ば蛇行してきたチッゴカワは、豆津橋ば抜けたらまた直角に曲がる。こらあ誰が見たっちゃ、ここでは洪水が起こる。で、久留米藩はここに堤防ば築いた。地名が安武やケン「安武堤防」ていうた。いまはここに「安武堤防」ていう西鉄のバス停がある。「古賀坂」の信号から東へ金丸川に沿うていくと、後で出てくる「二ツ橋・うしろ向き地蔵」さんがおんなる。 豆津橋から下流へ向こうて左岸ば約1kmほど下って来ると「古賀坂」ていう信号がある。 ![]() あまりのむごさに目ばそむけなった うしろ向き地蔵 ![]() ![]() ![]()
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![]() 左上・豆津橋、みやき町側の親柱。久留米側とは飾りのデザインば変えてある。 上左・湯の尻川に架かる「女橋」の親柱には、なんか血のようなもんがこびりついとって、人殺しの予感がする。 |
日本住血吸虫症ばっかしでスペース喰うてしもうたバッテン、 ![]() ![]() 筑後大堰ができてからは、水位が一定に保たれることによって、川の水ば用水路に取り込むことができるようになった。 この堰の目的はいろいろあって、筑後川の治水と利水、堰ではあるバッテン、多目的ダムの役目もしとる。福岡市の水がめのひとつでもある。 明治あたりまでは、どげんもこげんも手の打ちようがなかったバッテン、近年、久留米市など流域市町村は対策ば取り始めた。○患者の早期発見と治療。○感染予防の情報提供。○用水路への薬剤散布などなど。 ![]() 上・みやき町側からの大堰 筑後大堰(ちくごおおぜき)は車が通れて橋のごたるけど、久留米市と佐賀県三養基郡みやき町に跨って架かる可動堰(かどうぜき)。河口から23kmの地点に建設されとる。 ![]() ![]() ![]() 日本住血吸虫症なんて (にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう) 知っとったぁ 古うは天正10年の記録にその症状が残されとるケン、何百年も日本人が悩まされてきた病気らしか。 上・筑後大堰ば上からのぞくとこうなる。上が上流で貯水しとるほう。可動堰やケン、堰の高さの調整で下に落とす水ばコントロールでける。 ![]() そらあよかったよかった。 宮入貝は別名カタヤマガイても呼ばれる小型の巻貝で、小さいものは数mm、大きいものでも7mm程度の円錐型ばしとるとゲナ。水陸両性で湿地帯が好き。沼や小川や田の畦の水草などに住み、陸上にもはい上がってくるていう。いかに公衆衛生の観点からとはいえ全滅させられて、今頃は人間ばたいがい恨んどろうや。 ![]() ![]() ![]() 水道用水や農業用水ば、ダムや河の貯水域から用水路にひきこむことば取水(しゅすい)ていう。
![]() 左下・「古賀坂排水機場」は金丸川の河口で、水かさが増したときにゲートば開けると1分間で60立方米の排水機能がある。 |
![]() ![]() なんでここに渡しが要ったとか ? この事故ば悼んで事故から4年後、天建寺橋が優先的に架けられた。 天建寺橋(てんけんじばし)は、佐賀県三養基郡みやき町と福岡県久留米市との間に架かっとるPC斜張橋。 ![]() ![]() ![]() 天建寺の渡しと学童遭難の碑 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ところで、なし ? 天建寺橋か ? そんなら天建寺いうとはなんな ? ![]() ![]() 上・巾12m。二代目天建寺橋は広々として余裕たっぷり。下・河川敷も広うして土手には菜の花が真っ盛り。 上・天建寺橋から見た下流側。筑後川ももうこの辺りまで下ってくると川幅が広か。 遭難した子ども達は六地蔵になってお墓から、いまはスマートになった斜長橋ば、土井外地区児童たちが安全に通学しとるとば見守っとる。 て、いう話ば聞いたケン、天建寺の碑の回りば探し回ったバッテン、六地蔵が見つからん。 3回目の挑戦でやっと畑の水やりしよるジイサンにきいたら「昔はお墓におんなはったけど、墓が共同の納骨堂になったケン、そっちに移動してもろうた」ゲナ。駅長さっそく納骨堂ば探して六地蔵に逢うてきた。 ![]() ![]() ![]() あたりには黄花コスモスがいっぱいに咲いとった。 |
今号は人が死んだり、殺されたりの話ばっかしやった。次号はもちっと明るか話ば取材してきまっしょうタイ。 |
なかなか進まん筑後川の旅。次回の |
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