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其の十七

     筑後川の歴史と橋ば戸籍上の源流「田の原橋」から見てきた旅も17回目、振り返ってみたら
           「ようまた物好きに・・・」と駅長自分で感心しとります。

  1回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL5851/index.html   押戸石・田の原橋
  2回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL5952/index.html   下筌ダム・大山川
  3回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6053/index.html   鳴子川・九重夢大吊橋
  4回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6154/index.html   玖珠川・町田発電所・竜門の滝
  5回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6255/index.html   女子畑発電所・日田の水路・三隈川

  6回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6356/index.html   八丁原地熱発電・夜明けダム
  7回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6457/index.html   四大井堰(袋野堰・大石堰)丹羽頼母
  8回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6558/index.html   山田堰・朝倉の三連水車
  9回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6659/index.html   恵利堰・草野又六・おさえちゃん
  10回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6760/index.html   田主丸のカッパ・鯉とりマーシャン

 11回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6861/index.html   昭和橋・原鶴大橋・恵蘇宿橋・・・
 12回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL6962/index.html   筑後川合戦・武知光秀
 13回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL7063/index.html   筑後川橋・大城橋・神代橋
 14回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL7164/index.html   合川大橋・宮の陣橋・蝉丸塔
 15回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL7265/index.html   久留米大橋・2000年橋

 16回   http://www.geocities.jp/tttban2000/SL7366/index.html   千栗堤防・七木地蔵・長門石

 
1回から続けて見ろうていうときは、1回のHPアドレスばクリックして、1回目ば読んだら「戻る」操作で
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 17回目の今回は久留米市と佐賀ば繋いどる
「豆津橋」から下流へたどります。

 筑後川は夏目漱石もたまがったごと、菜の花の時期がいちばん。しかし、最近は白かダイコンの花が混じりだした。

 豆津橋(まめづばし)は、福岡県の久留米市と佐賀県のみやき町の間にかかる国道264号の橋。

 久留米はもう誰でも知っとるやろうバッテン、
みやき町(みやきちょう)いうとは、平成の大合併でシリ叩かれて、2005年に三養基郡の中原町・北茂安町・三根町が合併して発足した。

 なし町名が
「みやき」になったとか ?  「三養基郡(みやきぐん)」の読みが元になっとると。
 三養基郡ももともと、明治29年(1896)に合併してでけた郡でクサ、合併前の「三根郡)みねぐん)」「養父郡)やぶぐん)」「基肄郡)きいぐん)」の頭文字ば並べて
「三養基」て名前ばつけとった。
 
 町民に新町名の公募ばしたら、最終候補には「三養基町」「なみき町」などが残った。「なみき町」は中原(なかばる)、三根(みね)、北茂安(きたしげやす)の頭文字を並べた語呂合わせ。

 結局むかしの三養基ばかなにして「みやき町」に決めた。佐賀県で最初のひらがなの市町村名ていう。

 「豆津橋」のこのあたりが、源流からやったら120Km。河口まで24km780m。筑後川に架かる橋の数が35バッテン、源流の玖珠川、大山川それぞれの支流まで入れたら、100を越す大小のはしが架かっとるちゃなかろうか。

 豆津橋ば渡っとる国道264号線は、久留米と佐賀間の幹線で、佐賀の県庁前ば真っ直ぐに田園風景のなかば東へ約15kmで筑後川の土手に突き当たる。

 土手ば約2km走れば豆津橋。国道34号線ば「横番切る(博多山笠用語で近道ぬける)」格好で、久留米、または国道3号線への短絡線の役割も果たしとる。

 以前は橋ば渡ったら左折して、大石町の狭か道ば縄手町交差点までトロトロくだりよったバッテン、朝夕の混雑が激しかもんやケン、最近、豆津橋ば直進して本町交差点に抜けるバイパスがでけて、市内へ入りやすうなった。

 久留米藩側が堤防作って守れば、筑後川の水は対岸の佐賀藩側にあふれ出す。

 肥前佐賀藩はだまっちゃおられん、鍋島直茂の重臣やった
成富茂安(なりどみ・しげやす)に命じて三根郡・養父郡(やぶぐん)・基肄郡(きいぐん)ば水害から守るため、寛永20年(1643) 安武堤防の対岸に12キロメートルの二重堤防ば作らせた。

 これが前回取りあげた
「千栗(ちりく)堤防」タイ。この千栗堤防は以来300年近くにわたり堤防決壊などがなく、地域住民ば水害から守った。
 
 このため茂安は大変尊敬され、茂安の名にちなんだ北茂安村・南茂安村が存在したほどやった。

 
一方、左岸の安武堤防は、千栗堤防とほぼ同程度の規模やったとバッテン、千栗堤防に強度的に対抗できんやったケン、大水のときは有馬藩のほうが被害ば受けるごとなった。

 有馬藩ではどうしたかていうと「佐賀の成富兵庫茂安に匹敵する土木技術者はおらんとか」て探したら、おったおった。

 この筑後川ドキュメント7回目の大石堰ば指揮した丹羽頼母重次(にわ たのも)がおった。

 「そうタイ。頼母がヨカ。あれに頼もう(頼母)」て呼び出された頼母は、早速、河岸防護ば目的とした荒籠(あらこ)ば築造した。

 このへんの治水事業は江戸時代初期から藩が主導して始まっとった。

 関ヶ原の戦いで、久留米城主の小早川秀包と柳河城主の立花宗茂は西軍に加担したもんやケン改易され、代わりに石田三成ば掴まえるていう大手柄ば立てた田中吉政(たなか よしまさ)が、筑後一国・柳河32万石の国主として、慶長6年(1601)に入部した。

 吉政は入部するなり筑後川の改修に取り組み、慶長11年(1606)から13年の歳月ば掛けて瀬の下地区(久留米市)の蛇行ば解消するため、川ばショートカットする瀬の下捷水路(しょうすいろ)ば開削した。前号にも「瀬下開削」で書いとります。

 しかし。田中吉政には後継ぎがおらんやったもんやケン改易されてしもうた。その後、久留米21万石の藩主となった有馬豊氏(ありま とようじ)は、引き続きこのへんの河川整備ばして、寛永年間(1624年〜1643年)には安武堤防ば築堤した。

 荒籠 (あらこ) ちゃなんかいな。

 当時の堤防は現在のような連続したもんじゃのうて、
霞堤(かすみてい)ていわれる不連続堤で、農地への一時的な氾濫は許容する構造になっとった。

 また、
控提(ひかえてい)ていうとば作って下流や市街地に氾濫が拡大せんごたる工夫ばしとった。

 荒籠いうとは水流ば弱めるため、堤防から流れに対して直角に石垣ば築き出したもんで、一種の防波堤タイ。悪ういえば水ば対岸さい
はねくり飛ばすしくみタイ。
 小森野から若津までの22kmの間に、290ヵ所も築かれとつたていう。

 
これが原因で上流部では福岡藩と久留米藩が、下流部では久留米藩と佐賀藩が対立。「荒籠騒動」が絶えんやった。

 各藩が勝手に水の「かけあいっこ」ばするもんやケン、かえって洪水被害が大きゅうなるていう皮肉なことも起こった。

上・筑後川下流の「荒籠」
中・奥に見えるのが三隈川の「横堤」
下・成富兵庫茂安が作った「石井樋」の「象の鼻」

上・豆津橋から下流約2km。佐賀からの国道264号線が筑後川右岸の土手に合流するところに、成富兵庫茂安の功績碑がある。彼が作った千栗土居の真ん真ん中。

瀬ノ下ば蛇行してきたチッゴカワは、豆津橋ば抜けたらまた直角に曲がる。こらあ誰が見たっちゃ、ここでは洪水が起こる。で、久留米藩はここに堤防ば築いた。地名が安武やケン「安武堤防」ていうた。いまはここに「安武堤防」ていう西鉄のバス停がある。「古賀坂」の信号から東へ金丸川に沿うていくと、後で出てくる「二ツ橋・うしろ向き地蔵」さんがおんなる。

 豆津橋から下流へ向こうて左岸ば約1kmほど下って来ると「古賀坂」ていう信号がある。
 直ぐ傍に古賀坂排水処理場の水門があって、久留米市内から流れてきた長さ4.1kmの金丸川が筑後川に合流する。

 信号で左折して1kmばかり金丸川に沿うて津福のほうへ走って行くと、左からきた湯の尻川との合流地点に小さか二つ橋が架かっとる。

 場所の名前も
二ツ橋。金丸川に架かっとるとが「男橋」で湯の尻川んとが「女橋」

 橋は渡らんでたもとから右に曲がった細い道が旧の柳川街道に繋がっとる。50mも行くと左手にマンションがあって、その先石段ば五六段上がったとこが広場で、ここに六体のお地蔵さんが祀られとんなる。

 普通お地蔵さんは道路に向いて立っとんなるとが当たり前バッテン、ここんとは後ろ向き。
 人呼んで
「うしろ向き地蔵」 なしうしろ向いとんなるとか ?

あまりのむごさに目ばそむけなった

      うしろ向き地蔵


 江戸時代中期の享保17年(1732)の夏に、有名な「享保の大飢饉」ていわれるとがあって、冷夏と害虫によって西日本各地が大凶作に見舞われた。

 被害は西日本諸藩のうち46藩にもおよび、総石高は236万石やったとが、この年の収穫は僅27%弱の63万石程度やったていう。

 餓死者が12,000人にも達し、250万の人々が飢餓に苦しんだていわれとる。お隣の福岡藩では、総人口の三分の一に相当する10万人もの死者がでたていう。

 久留米でも、わずかばかりの収獲米ば年貢に納めた後は、川魚やタニシなどば食べて生き延びとったゲナ。家財道具も売り払うてしもうたケン、農家の家の中はがらんとしとって淋しかもんやったゲナ。

 年貢の入り悪うなったもんやケン、久留米藩は
「人別銀」ていう増税策ばうちだした。アベノミクスが財源不足で、簡単に消費税ば上げるていいようとと同じ発想タイ。

 
「人別銀」とは、藩士およびその召使い、農工商・僧侶・神官・浪人に至るまで、所得じゃのうて人間ひとりひとりから税金ば取るていう新しか税制やった。

 藩士は禄高100俵につき銀札10匁、農工商などは、8歳以上の男女すべてに1人につき銀札6匁ば1ヶ月に6分ずつ毎月15日までに差し出せていうもんやった。

 これなら飢饉(いまなら景気)は関係ナカ。いまの消費税どころじゃない。生きとる人間からは誰彼なく税金ば、間違いなくとろうていう悪法タイ。
 役人なんて昔も今も一緒。頭は良うして悪知恵は働くバッテン、血も涙もナカ。


 「こらあいくらなんでも黙っちゃおられんじゃんの」

 宝暦4年(1754年)3月19日、竹野郡(今の田主丸あたり)に集まった少数の集団が、ついには16万人ていう人数にふくれあがり、日本の百姓一揆の中でも有数の規模になっていった。

 これば聞いて腰抜かした久留米藩、農民たちに人気のある家老の有馬石見(ありまいわみ)が農民代表から直接要求ば聞き、「何れも願いの通り詮議する」いうて鎮めようてした。

 要するに最大の要求やった「人別銀」の賦課が撤廃されたとタイ。「勝った、勝った。やっあ団結のちからバイ」て農民たちは喜んで、それぞれの村に帰っていった。

 騒動は十三日間で収まったとバッテン、このまま引き下がられん藩は、その後、首謀者の庄屋たちば洗いだし、37人の庄屋と百姓ば1日で処刑してしもうた。

 その処刑場が、お地蔵さんの立っとんなったこの辺り、いま駅長が立っとる竹藪から柳川街道の一帯やった。二ツ橋の刑場跡ていう。

 斬首しただけじゃ納まらんで、街道沿いのはぜ並木の枝に首ば並べてさらしたていう「むごさ」やった。

 刎首の処刑ばまともに見せられた地蔵さんたち、翌朝付近の人が気がついたら、一夜のうちに地蔵さんは刑場の方に背ば向けて、六体みんなの首が落ち、落ちた頭ば拾い上げてみたら、どれも目ばしっかりとつぶっとんなったゲナ。

左上・豆津橋、みやき町側の親柱。久留米側とは飾りのデザインば変えてある。
右上・橋の路面にはタイルの久留米絣がはめ込まれとるバッテン、運転しょうもんなぁ見る訳にはいかん。
左・欄干も捻りば入れたりして凝っとんなるバッテン、これも運転者は気がつくめえ。
下・豆津橋は車が頻繁に通る。1車線道路の許容量ば超えて1日2万台以上やケン、特に久留米側の信号は渋滞が慢性化しとった。
最近やっと豆津バイパがでけて流れるごとなった。

上左・湯の尻川に架かる「女橋」の親柱には、なんか血のようなもんがこびりついとって、人殺しの予感がする。
上右・金丸川に架かる「男橋」 なんで男橋・女橋があるとかは分からん。大小ふたつ並んどるけんか ?
下・男橋わたった南が旧柳川街道の脇道。さて、むこうのこんもりしたあたりが久留米藩の処刑場があったとこゲナ。ここにうしろ向き地蔵さんがおんなさる。

 日本住血吸虫症ばっかしでスペース喰うてしもうたバッテン、
 筑後大堰ができるまえには、上流のほうに上鶴床固めとていう、固定式の堰があった。この堰があることで、あるていどの水位と水の量が保たれ、その水ばのみ水や農業などに利用しよった。

 バッテン、この固定堰には大きな問題があった。そらなんか ?
 大雨により水位が大きく上がるため、堰き止めとった水が堤防の外にあふれ、洪水ば引き起こすことがたびたび発生したとタイ。とくに昭和28年6月の西日本大洪水では、被害者が54万人もでてしもうた。

 こげなことがあっちゃあいかん、いうことで上流の上鶴床固めば撤去し、約500m下流にいまの筑後大堰がでけた訳タイ。筑後大堰は、可動堰やケン、ゲートば上げ下げすることで、流れる水の量ば変えることができる。
 大雨のときには、水ば止めんでどんどん流し、洪水ば起こさんごと調節できるようになった。

 筑後大堰ができてからは、水位が一定に保たれることによって、川の水ば用水路に取り込むことができるようになった。

 普段は上流側の水位ば下流側よりも高く保つことによって、海水が上がってくるとば水の圧力でふせぐこともできる。満潮の影響でどうしても下流側の水位が上流側より高くなりそうなときには、ゲートば全部閉めて、逆流するとば防ぐこともできる。

 筑後大堰がでけたことにより、その上流側の小森野堰と、宝満川の下野堰までの間ば、貯水域(ダムといっしょ)としてたくさんの量の水ば貯めておかれるごとなった。最低でも標高+2.44mの水位が保たれ、
+3.15mば満水の状態ていうとる。

 そして+2.44mよりも水位が高ければ、その分の水ば利用できるというごと取り決めてある。
 早う云えば、満水のときには、ひろい貯水域全体の71cmの高さの水が、水道水などに使えるていうことタイ。
 その水の量は93万立方米にもなり、筑後川からかなり離れた福岡県、佐賀県の都市部へも水の供給がでけるごとなったていう訳。

右・そればばコントロールしとる「水資源機構」

 この堰の目的はいろいろあって、筑後川の治水と利水、堰ではあるバッテン、多目的ダムの役目もしとる。福岡市の水がめのひとつでもある。

 建設時にはダムと環境の問題で、有明海のノリ養殖の不漁の一因ていわれ、漁業協同組合と激しゅうケンカもしたバッテン、その一方で日本住血吸虫症の撲滅ていう環境改善にも役割ば果たしとる。

 ちょっとちょっと。日本住血吸虫症なんて聞き慣れんもんやが、なんですな。
 そうやろう、日本住血吸虫症なんてだれもあんまり知らんばいねぇ。駅長もこれまで全然、聞いたこともなかった。

 明治あたりまでは、どげんもこげんも手の打ちようがなかったバッテン、近年、久留米市など流域市町村は対策ば取り始めた。○患者の早期発見と治療。○感染予防の情報提供。○用水路への薬剤散布などなど。

 バッテン、根本的に解決するには「ミヤイリガイば絶滅させる以外に方法はなか」ていうことになった。
 そこで河川管理者の建設省九州地方建設局は、河川整備計画のなかに「ミヤイリガイ撲滅」ば組み入れることにした。具体的には河川敷ば整地し、コンクリート護岸にしてミヤイリガイが繁殖するススキ原や湿地帯ば埋め立て、生息地ばなくそうてした。

 事業は昭和40年(1965)から開始され、まず宝満川流域で河川敷整備と水門の改築、護岸工事ば実施した。
 この結果昭和45年(1970)には宝満川下流域ではミヤイリガイの根絶に成功。上流部の鳥栖市でも昭和44年(1969)以降はススキの刈り取りば徹底的に実施して根絶に追い込んだ。

 しかし新宝満川左岸の久留米市小森野では、その後もミヤイリガイの棲息が確認されたもんやケン、水資源開発公団は「筑後川水系水資源開発基本計画」の一環として「筑後大堰」の建設ば計画した。この事業は大規模な河川敷改修ば伴うバッテン、本格的な日本住血吸虫撲滅にも有効ということで実行に移された。

 昭和59年(1984)に筑後大堰が完成、この間も建設省・水資源開発公団は徹底的な河川敷整備ばすすめ、流域市町村では河川敷の清掃、ススキの刈り取りば徹底して、ミヤイリガイの生息地ば壊滅させていった。

 この結果平成2年(1990) 福岡県と久留米市はミヤイリガイの棲息調査ば行い、撲滅されたことば確認し「安全宣言」ば発表した。10年後の平成12年(2000)フォロー調査の結果、新規感染患者もミヤイリガイ発生も皆無やったケン、「終息宣言」が発表され、筑後川流域で長年流域住民ば悩ませた日本住血吸虫症の完全撲滅に成功した。

上・みやき町側からの大堰
左・久留米側からの大堰。
写真では分かりにっかバッテン、左の下流より上流(右)のほうが水位が高か。

 筑後大堰(ちくごおおぜき)は車が通れて橋のごたるけど、久留米市と佐賀県三養基郡みやき町に跨って架かる可動堰(かどうぜき)。河口から23kmの地点に建設されとる。

 計画されたとは昭和49年(1974)の「筑後川水系水資源開発基本計画」による。完成したとは昭和60年(1985) 高さ13.8mのりっぱなもんタイ。

 作ったときは水資源開発公団、いまは
独立行政法人水資源機構ていう。堰の直ぐ傍にあってここが管理しとる。
 駅長が写真ば撮った後、資料ば貰いによったら、たったパンフレット1枚やるとに「何に使うとかとか、どなたですかとか」根掘り葉掘り聞いてきた。公団とか行政法人なんていうとは、なしまぁだお役所気分でおるとかいな。


   日本住血吸虫症なんて
 
(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)
    知っとったぁ

 古うは天正10年の記録にその症状が残されとるケン、何百年も日本人が悩まされてきた病気らしか。

 日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)いう舌噛みそうな名前の虫は、ミヤイリガイていう巻貝ば棲家にしてクサ、川に入った人などの皮膚にくっつき、皮膚炎ば手始めに、高熱やら消化器の急性症状ば起こすとゲナ。

 しかも、肝臓やら脾臓に入り込んで肝硬変による黄疸やら腹水ば起こして、最終的には人間ば死亡させるていう恐ろしか寄生虫病タイ。

 全く知らんことやったバッテン、筑後川の下流域、特に支流の宝満川流域から、豆津橋一帯の久留米市・佐賀県三養基郡周辺は、この虫がうんと繁殖して、永年苦しめられてきたとゲナ。

 当時は発症すると有効な治療法がなかったもんやケン、多くの流域住民が感染し病に倒れたていう。

上・筑後大堰ば上からのぞくとこうなる。上が上流で貯水しとるほう。可動堰やケン、堰の高さの調整で下に落とす水ばコントロールでける。
 立ちくらみ・目まいのする人はこげな角度からは見らんほうがヨカ。
左・6基ある水門ば望遠レンズでひっぱった。左が上流側。

 そらあよかったよかった。
 お陰で今は日本住血吸虫症の心配ばせんでよかごとなったとねぇ。

 これも初めて知ったとバッテン、日本住血吸虫症いうとはクサ、マラリアやフィラリアとともに
世界の三大寄生虫病のひとつとされとったとゲナ。

 
われわれはよかったバッテン(中国では今でも152万人がこの病気に罹っとるゲナ) 日本住血吸虫に住みつかれたいうだけで、皆殺しされた宮入貝(ミヤイリガイ)は、たまったもんじゃなかタイ。

 宮入貝は別名カタヤマガイても呼ばれる小型の巻貝で、小さいものは数mm、大きいものでも7mm程度の円錐型ばしとるとゲナ。水陸両性で湿地帯が好き。沼や小川や田の畦の水草などに住み、陸上にもはい上がってくるていう。いかに公衆衛生の観点からとはいえ全滅させられて、今頃は人間ばたいがい恨んどろうや。

 そこに気がついたケンか、久留米市はミヤイリガイば供養するための
「宮入貝供養塔」ば宮の陣に建立した。

 水道用水や農業用水ば、ダムや河の貯水域から用水路にひきこむことば取水(しゅすい)ていう。

 ダムや河の水位が低くなっとると、用水路に水ば引き込むことがでけん。

 筑後大堰の貯水域では最低でも標高の+2.44mの水位が保たれとるケン、水道用水や、筑後川下流の灌漑用水は、いつも安定的に取水できるとタイ。

 割り当てられとる水の量は
1)福岡地区水道企業団 0.076m3/s(秒)
2)福岡県南広域水道企業団 0.157m3/s
3) 佐賀東部水道企業団   0.117m3/s


 初めに書いたノリ漁への問題も、昭和59年(1984)に漁連との交渉で全て解決。現在は特に水量が少のうなる冬季に、漁連の要請によって必要な水量ば放流しとるケン、ノリ漁への支障は出とらん。


 ちょっと見ただけでは、なんのことはなかただの堰でも、詳しゅう見ていくとこげな役割と社会効果があっとると。大昔の人たちが上流の「袋野堰・大石堰・山田堰・恵利堰(7〜9回で取りあげ書いた)」で苦労しなったことが生かされて、近代技術でここまで完成された。

 駅長は「ごくろうさんねぇ」いうて堰の上ば車で渡ってきた。

左下・「古賀坂排水機場」は金丸川の河口で、水かさが増したときにゲートば開けると1分間で60立方米の排水機能がある。
右下・金丸川は筑後大堰の下ばスルーして筑後川に合流する。左が筑後川。奥が古賀坂排水機場。


 昭和25年2月13日早朝、通学のため乗っとった土井外地区の小中学生45名が、あと20mで岸に着くていうとき、ふいに突風が吹いて舟が傾いた。びっくりした児童達が立ち上がったもんやケン、あっという間に舟は転覆。子ども達は冬の冷たか筑後川に投げだされてしもうた。

 この事故で小学生6名の尊い命が犠牲となった。
 六年生・末次 康悦  五年生・森 カツ子   
 三年生 ・小柳 ヒロ子 福田 紀男   一年生・井上徳英  田中 一義

 後に、その遭難の碑が、天建寺橋のすぐ上流の左岸堤防に建った。

 碑文には、次のように刻まれてとつた。
 「昭和25年2月13日午前7時30分頃川向こうの学校に登校するための渡船が転覆し、6人の学童の小さな命が奪われました。これを悼み六面体のお地蔵様がつくられましたが、現在では、土井外区の墓地にまつられています。
 幼い命の犠牲によって天建寺橋が架けられ多くの人々が便利になりました。四十年近い歳月が経ちましたが、この日の悲しみは今だに私の脳裏から消え去ることはありません。
 この思いと、この子らの死を忘れないようにとの願いをこめて遭難現場の見えるこの地に追悼の碑を建立しました。」
 昭和63年9月吉日 建立                   福田紀男の姉キヌ子(佐賀市)

   

 なんでここに渡しが要ったとか ?
 福岡県側に住んどる小学生がなし佐賀県側に通いよったとか ?

 上の地図みたら分かるゴト、むかしの筑後川はここで大きゅう福岡側へ蛇行しとった。蛇行しとる川の真ん中が県境ヤッタケン、天建寺土井外地区は佐賀県と陸続きやった。

 筑後川の蛇行ば直すため改修工事ばしたら、それまで三根町やった土井外(どいほか)地区が、切り離されて福岡県側と陸続きになってしもうた。

 しかし、県境は改修前の蛇行しとった川の中心線から変わらんケン、土井外地区は川ばへだてた陸の孤島となった。土井外地区の住人にとってもとの佐賀側への移動手段はこの渡し舟しかなかった。

 もちろん土井外地区の生徒たちも、今まで通り三根町の学校に通うためには、天建寺の渡しば利用するしかなかった。

 この事故ば悼んで事故から4年後、天建寺橋が優先的に架けられた。

 建設された初代の橋は(いまのは二代目)車道と歩道が別々の橋になっとった。

 そして現在の位置よりもやや南に架かっとった。初代の橋は車道がせまく、トラックと普通乗用車の離合でもかなり厳しかもんやったていう。

 平成11年(1999)に今の橋が開通した。この橋は長さが426m、幅12m、道路面からの高さは53.5m。
 
 二基の橋脚に直径20センチのワイヤー80 本で橋げたば吊っとる。

 筑後川に架かる唯一のPC(プレストレスト・コンクリート)斜張橋やケン、旧三根町が町のシンボルとして自慢の橋にしとった。


左・みやき町側のたもとから望遠で引っぱったら橋ば吊っとるワイヤーだらけの写真になってしもうた。

 天建寺橋(てんけんじばし)は、佐賀県三養基郡みやき町と福岡県久留米市との間に架かっとるPC斜張橋。

PC斜張橋いうとは、コンクリート製の吊橋のこと。県道138号線が渡っとる。これは安武・大善寺から佐賀への幹線国道264号線ば結んどる。

 
天建寺橋が建設される前までは、ここは「天建寺渡し」ていう渡船が運行されとった。
 佐賀県三根町(現:みやき町)では、坂口区と土井外区が筑後川ばはさんで福岡県側にあった(佐賀県なのに福岡県としか陸続きじゃなかった)ため、小学生なども通学時に渡船ば利用しとった。

 ところがタイ。昭和25年(1950)2月13日、強風にあおられてその渡船が沈没。6人の小学生が亡くなった。

        
         天建寺の渡しと学童遭難の碑

ところで、なし ?  天建寺橋か ?

 近くに天建寺ていうお寺があるけんタイ。その寺町やったケン、この地区の地名も天建寺ていうとる。

 天建寺土井内(てんけんじ どいうち)
 天建寺土井外 (てんけんじ どいほか)
 天建寺南島 (てんけんじ みなみじま)
 天建寺持丸 (もちまる)

 そんなら天建寺いうとはなんな ?

 鎌倉時代の正応元年(1288)に、当地の地頭やった
源義宣(みなもとの よしのぶ)が、東方明照和尚ば開山として開いた由緒ある寺ゲナ。

 例によって物好き駅長が行ってみた。
 山門ばくぐると、明治7年佐賀の役での戦火の名残り、白壇の枯れ木やら、その役で焼け残ったていう仏殿がある。天井絵に圧倒された。

上・巾12m。二代目天建寺橋は広々として余裕たっぷり。下・河川敷も広うして土手には菜の花が真っ盛り。

        上・天建寺橋から見た下流側。筑後川ももうこの辺りまで下ってくると川幅が広か。

 遭難した子ども達は六地蔵になってお墓から、いまはスマートになった斜長橋ば、土井外地区児童たちが安全に通学しとるとば見守っとる。
 て、いう話ば聞いたケン、天建寺の碑の回りば探し回ったバッテン、六地蔵が見つからん。

 3回目の挑戦でやっと畑の水やりしよるジイサンにきいたら「昔はお墓におんなはったけど、墓が共同の納骨堂になったケン、そっちに移動してもろうた」ゲナ。駅長さっそく納骨堂ば探して六地蔵に逢うてきた。
あたりには黄花コスモスがいっぱいに咲いとった。

  今号は人が死んだり、殺されたりの話ばっかしやった。次号はもちっと明るか話ば取材してきまっしょうタイ。
  下田大橋・六五郎橋・青木中津大橋まで下ります。
        取材期間 2010.3.21〜2013.8.23

       なかなか進まん筑後川の旅。次回のは、本流に入っての12回目です。

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