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穴水の歴史
<概略史・中居の鋳物・長氏の歴史など> |
(2001年3月28日加筆修正)
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<先史時代から現代までの穴水の概略史>
穴水は七尾北湾の北東の入江の一番奥にある。縄文時代以来多くの遺跡がある。代表的な遺跡としては、甲小寺(かぶとこでら)遺跡(縄文前期初頭)、新崎(にんざき)遺跡(縄文中期前葉)、その他に御物石器の由来ともなった比良遺跡などもある。古墳時代の遺跡としては、前波古墳群など特殊な横穴式石室を備えるものがある。特に穴水町内浦の袖ヶ畑遺跡からは、安政2年(1855)に優美な金銅装双龍式環頭大刀が発掘され著名である。
「続日本紀」の養老2年(718)9月2日条によれば、越前国に属した能登が、能登(後の鹿島)・羽咋・鳳至・珠洲の4郡が割かれ、能登国が立国されます。しかし、天平13年(741)11月10日、能登国は越中に併合されます(「続日本紀」)。同20年春頃、越中守 大伴家持 が、出挙督励のため、旧能登国の4郡を視察しています。彼は、羽咋から外浦を通って輪島から珠洲へ周り、珠洲正院のあたりから舟で穴水に入り、そこから中島の方に向かった事が記録されています。天平宝字元年(757)に、能登は、越中から分かれ、再び立国しています。
ところで、能登国ができた頃の穴水だが、鳳至郡にあったかというと、どうもそうでなかったようだ。「日本後紀」大同3年(808)10月19日条によれば、能登郡にあった穴水駅が廃止されたことが書かれている。同時に、鳳至郡の三井・大市・待野(3つとも現輪島市)の3駅及び鹿島郡の越蘇駅(七尾市)が廃止されたことが書かれています。となると、どうやらこの頃は、鳳至郡と能登郡の境界は、現在の穴水町と輪島市の境界付近にあったらしく、穴水は鹿島郡に属していたようだ。古代における産業だが、穴水は他の能登の海岸地域と同様、土器製塩が盛んに行なわれていたようだ。
中世、鎌倉時代初期に御家人の長谷部信連が、鳳至郡西部と鹿島郡北東部にまたがる大屋庄(現輪島市)の地頭として入部した。この頃、大屋庄穴水保・曾山開発(かいほつ)(現穴水町)・三井保(現輪島市)は鹿島郡で、現鳳至郡の宇出津村などは珠洲郡に属していた。鳳至郡の郡域は、その後徐々に拡大し戦国時代中頃には近世の郡域になったと思われます。
室町期以降、能登守護畠山氏の分国経営の関心が、奥能登鳳至郡の内浦沿岸部に向けられ、旧来の荘園所領の再編により諸橋六郷(現穴水町&能都町)や穴水南北(現穴水町)が形成されました。戦国期には、後程詳しく述べますが、中居で鋳物の生産が発展し、諸橋六郷ではブリ漁も始まり、穴水など内浦沿岸部は活況を呈してきました。また穴水城に拠った長谷部氏の後裔である長氏は、輪島や鵜川を基盤とした温井氏、宇出津崎山城の三宅(小三郎)氏など、郡内に割拠する有力国人達と、鳳至郡における主導権争いを演じた。
天正4年(1576)11月越後の上杉謙信は、 能登攻略を開始 し、長氏の穴水城は陥落、翌5年9月には七尾城も、温井・遊佐・三宅氏がこぞって裏切り落城し、最後まで抵抗した長一族は、討滅が図られた。しかし、織田方に支援を求めに派遣されていた長連龍は生き残った。翌年、上杉謙信の脳卒中による突然の死により上杉勢は急に衰えを見せた。織田勢はそこを見計らい、前田利家らを派遣し、長連龍をその与力とし、上杉方を攻めた。長連龍は、利家と一緒に攻撃に加わわったりするとともに、郡内の在所の長(おさ)衆の支援なども受けて、長氏のかつての居城であった穴水城を奪回するための攻防を展開した。
一方、諸橋六郷に領主的基盤を持つ温井・三宅一党は、上杉氏に帰属したが、やがて叛旗を翻し、天正7年(1579)ついに上杉勢を能登から一掃した。天正9年能登一国は織田信長より前田利家に与えられたが、翌10年5月、上杉軍の長景連らが突如奧能登に乱入し、棚木城(現宇出津町)に立て篭もった。越中に出陣中の前田利家は、長連龍に鎮圧に当たらせた。上杉勢は壊滅し、その後、奥能登に政治的安定がもたらされた。この合戦で、鎮圧軍に積極的に荷担した在所長衆らが、やがて利家から扶持百姓に登用され、初期加賀藩政の郷村支配を担う道が開かれた。中世の遺跡としては、穴水町西川島遺跡群などがある。
年は前後するが、天正9年能登を領有した前田利家は、まず長百姓に命じ、戦乱で逃散していた農民の帰村を促し、郡内の有力百姓19名に扶持を与えて領内統治に利用し、同10年から11年にかけて郡内の検地を実施した。
穴水は平地が少ないので、山林や海に依存する部分が大きく、早くから、比良湊の大坂登米積船の存在も知られ、近世後期には蝦夷松前や瀬戸内との鯡(にしん)、〆粕、米などの交易も盛んであった。
漁業、製塩業も沿岸各地で行なわれ、寛文年間(1661〜73)以前から御塩蔵が新﨑(にんざき)村など10村に設置されていました。加賀藩の塩専売政策に基づいて各浜に貸付けられた製塩釜は、多くは、中居町・中居南町で鋳造されたものであった。また日用釜の広く貸し付けられていた。しかし、近世中期以降は、越中高岡から進出した高岡釜のため、中居釜の貸付けは減少していった。
寛文7年、長氏の内紛事件である 浦野事件 で、長谷部信連以来の子の末孫の宇留地(うるち)(現穴水町)(と阿岸(あぎし)(現門前町)の)長氏が断絶している。(といっても長氏全体が滅びた訳では勿論なく、前田家の重臣であった連龍の子孫である長氏は、存続し幕末まで続き、今日にまでに至っている)
慶長11年(10年説もある)、能登に土方雄久領62ヶ村・高1万3千石が置かれ、うち鳳至郡内に22村おかれた。穴水には、鹿島村、鵜島村、大町村、川島村、天神谷村、上唐川村、下唐川村、七海(しつみ)村、梶村、藤巻村、岩車村、鹿波村、曾良村、中谷(なかんたに)村の14の土方領の村があった。これらの土方領は、貞享元年(1684)家督相続に関する内紛により没収され、幕府領となり、元禄2年(1689)から同8年までの鳥居忠英領、同11年から同13年までの水野勝長領の時代を除いて幕府領であった。
しかし、 黒島村と加賀藩領鹿磯村(現門前町)との間の寄鯨に関する紛争 により、享保7年(1722)幕府領から加賀藩預地となって幕末にいたっている。(旧土方領である天領の問題について、もう少し知りたい方は、こちらの頁 「七尾における天領」 を参考にしてください!)
嘉永3年(1850)に加賀藩は、加賀藩は海防体制の一環として藩の海岸各所に台場を築いたが、鳳至郡内でも、黒島村(現門前町)と宇出津にも台場を築いた。そして嘉永6年(1853)には、藩主斉泰が、能登の海岸を巡視し穴水も巡視している。
明治2年(1869)の版籍奉還により加賀藩領の村は金沢藩に属した。翌3年5月、幕府領の村々は飛騨県(6月高山県と改称)となる。同4年の廃藩置県により、7月金沢藩は金沢県となり、同年11月能登国のうちの金沢県と高山県は七尾県となる。この時、穴水を含めた鳳至郡の全町村が七尾県となる。同5年2月金沢県は、石川県と改称、同年9月七尾県は廃止され、石川県となっています。
明治22年の町村制施行により、穴水村、島崎村、東保(とうぼ)村、中居村、南北村、兜村、諸橋村が成立。明治36年穴水村は、町政施行。明治41年穴水町は、島崎村、東保村を合併。昭和8年(1933)仲居村と南北村は合併して住吉村となる。昭和29年穴水村は、住吉村、兜村を合併、翌昭和30年、さらに諸橋村を編入した。
< 中居の鋳物 >
中居町(現、鳳至郡穴水町中居)は、古代末期から鋳物の生産地であったといわれ、中世にも数多くの製品を残している。前田利家が、能登の所口(七尾)にいた天正9年(1581)、中居の鋳物師・宮崎彦九郎を所口に招いて、翌10年には、七尾に移住した。同11年、利家が金沢城に入ると再び、利家は呼び寄せ、金沢に移り、木ノ新保(現、金沢市此花町、本町、1、2丁目)に屋敷地を与えられた。
以後、子孫は、代々寒雉(かんち)と称し、寒雉釜と称される名品を製作した。現在も、子孫の彦九郎氏(金沢市彦三(ひこそ)町)は、釜を作り、工芸作家として著名である。
寛永年間(1624〜44)、藩が塩の専売制をとると、農村で塩釜が必要となり、中居村に注文が殺到したといわれ、貸釜も急増した。この時期からしばらくが中居鋳物の最盛期であったようである。
下って、宝暦期(1751〜64)から天明期は疲弊し、釜の新調が差し控えられたようであるが、この時期、越中高岡町(現、高岡市)の金物町居住の鋳物師たちは、貸釜をもって能登に進出した。以後、中居の鋳物は急速に衰微した。ちなみに、大正13年(1924)には完全に廃絶した。
< 穴水関係その他・リンク >
(穴水関係その他の頁)
長谷部信連
長氏一族
明治期に能登の旅行記を著した天文学者・パーシヴァル・ローエル
「能登の城・砦・館」 のページ→ 穴水城跡
旧日本海軍潜水学校七尾分校
(穴水関係のホームページへのリンク)
穴水町のホームページ
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