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能登島の歴史

  縄文時代前期初頭の集落遺跡である佐波遺跡は佐波式土器の標識遺跡で、この時期能登半島における縄文集落がはじめて海岸部に進出しました。また能登島の八ヶ崎には、5基の後期円墳からなる御経塚古墳群が分布します。終末期の須曾蝦夷穴古墳(→ 写真を見たい人ははココをクリック )があります。能登氏一族の誰かの墓とも、渡来した朝鮮系の人の墓ともいわれています。

 天平20年(748)越中国司(※1)として能登半島を巡視した 大伴家持 は、香島津(現七尾市)から熊来村(現中島町)に向かう途中、「能登の島山」を見て「島総立て船木伐るとうふ能登の島山今日見れば木立繁しも幾代神びそ」と詠んだ歌を残しております。能登は、立国するにあたっては、蝦夷などまだ大和朝廷の威にしたがわない北方の民族に対する軍事拠点としても意味がありました。(※1:この当時能登は越中国に含まれていた)

  現在の七尾のあたりは、当時は鹿島津と呼び、国津(国指定の湊)として大和朝廷の軍港の色合いが濃い港でした。その対岸の能登島は、家持の歌にあるように、それらの国へ出兵するあたって輸送船となる船の材木を供給する貴重な地域でありました。
 中世には、承久3年(1221)9月6日の能登国田数注文に能登島庄という名がみえます。公田数は、同年の検注で19町3段2(もと43町1)に定められた。

  「元亨釈書」の泰澄伝に泰澄の従者としてみえる 臥行者 は能登島の出身者で、飛鉢の呪法にすぐれていたといいます。康永2年(1343)6月21日、伊勢神宮の造営に先立ち、能登島御厨東方のうち野崎村から用途料の日食米が納められました。賦課の対象地は、同村内の地頭自称分2町3段1で、反別7升8合の割合で米18石余を負担していたことが記録されており(「野崎村造料日食米請取状写」天野文書)、能登島に伊勢神宮に供祭物等を貢進する御厨(みくりや)(神領)が成立していたことがこのことからわかります。

 能登島が御厨となった時期は定かではありませんが、建久3年(1192)8月の伊勢大神宮神領注文(神宮雑書)に見られず、それ以降と考えられます。貞治3年(1364)の内宮式年遷宮の費用徴収に備えて作成されたという「神鳳鈔」には、能登島御厨は内外両宮に貢納する神領で、田積は70町とあります。中世後期の外宮神領目録(神宮文庫文書)に上分米25石、外宮神領給人引付(同文書)には、15石の負担分が載っています。また南北朝−室町期頃と推定される天竜寺領目録写(天竜寺文書)に、能登国能登島東方が載っているが、他に天竜寺領としての傍証史料はなく、職の内容や得分収取の具体相は不明です。

 伊夜比咩神社所蔵の嘉元4年(1306)2月6日の本殿造立棟札に、預所乗覚・地頭長谷部宗信・公文代信延・地頭代行親・神主則正らの名がみえます。公文とは、荘園の年貢収納や訴訟などを司る荘官(庄官)です。これらの庄官・地頭らが能登島全域のものか、同社のある向田村を含む能登島西方のものであるかは定かではなく、庄官を補任した庄務権を持つ領主についても、僧侶の預所から寺社領庄園と推測されるのみです。

 範囲は不明ですが、この能登島の荘園には地頭代が置かれていたことから、地頭宗信の本貫地ではなく、彼は能登島に居住していなかった可能性が強いと考えられます。公文代の信延も長谷部氏に「信」の字を名前につけるものが多くいることから長谷部氏と想像できます。また行親もおそらく地頭・長谷部宗信の家人であったろうと考えられます。 長谷部氏 は、鎌倉初期に能登国大屋荘の地頭として入部した、鎌倉御家人 長谷部信連 の子孫と言われ、鎌倉後期には、「長谷部」や「長(ちょう)」を名乗る一族が、能登各地に伸長しました。

  南北朝時代 は、能登島は、東西に分かれており、長谷部(長)氏(長新左衛門尉胤連は、文和2年(1353)9月から同4年6月にかけて、越中守護の桃井直常(ただつね)と結んで、南朝方に属しまた。それで桃井氏一族の桃井兵庫助が能登島にやってきて、能登島西方の金頸城に長胤連とともに拠った。北朝方の能登守護吉見氏頼(うじより)は、氏頼の一族(おそらく嫡子)・吉見詮頼(あきより)を大将とする軍を派兵、七尾湾を船で渡り能登島に上陸し、これと戦った。南朝方はこの戦いで破れている(長胤連と桃井直常は、戦死したかどうかは不明だが、おそらくその後消息が書かれていないことを考えると両名とも戦死した可能性が高い)。

 胤連の居城の金頸城(かなくびじょう)は、向田の東北岸の小さな岬の小高い丘(現在の城山に比定できる)にあり、西方地頭であったらしい。またこの戦いで北朝方について戦った天野安芸守遠政(とおまさ)(東方地頭)の家人、堀籠宗重(ほりごめむねしげ)、および羽咋郡得田保地頭の得田素章の子息・斉藤六章房(さいとうろくのりふさ)が、大将の詮頼より賞されたことが記録されています(同2年9月5日吉見詮頼感状」・同4年7月「天野遠政軍忠状」天野文書)。金頸城跡のマップ

  この戦いの一年後・文和4年(1354)3月、長伊勢守胤連の残党は再び立ち上がった。おそらく越中の南朝方の桃井氏と連携しての作戦行動であったと思われる。これを受けて能登守護吉見氏頼は、長一族追討のため、また吉見詮頼を再度大将にして、軍勢を能登島に派兵した。守護軍を迎え撃つ長一族の軍は激しく抗戦し、3月20日になって金頸城に立て篭もりました。この後、守護方の包囲軍との激しい攻防戦が続き、双方に多数の死傷者を出しました。3ヵ月後の6月14日、ついに金頸城は陥落し長胤連の残党は滅亡してしまいました。

 胤連没落後、西方の地頭は、貞治3年8月に、守護吉見氏頼の一族・吉見伊予守某、嘉慶元年(1387)には、 本庄宗成(ほんじょうむねしげ) (南北朝末期に一時期能登守護になった)に移っており(伊夜比咩神社蔵棟札)、守護領地化していきました。また胤連追討の吉見軍に加わった天野遠政は、観応2年(1351)7月24日先に宛行われていた東方地頭職を守護方から重ねて打渡されています(「紀朝久藤原朝房連署打渡状写」得田文書)。
 
 延文2年(1357)7月2日にも、遠政の所領能登島東方内の野崎・飯浦(はんのうら)両村が守護方から預人を退けたうえで打渡されているが(「惟宗経光打渡状」天野文書)、康安2年(1362)には天野遠政は諏訪神左衛門尉の東方地頭押領を停止し、遠政に安堵すべき旨を幕府に訴えている(同年8月5日「吉見氏頼披露状」天野文書)。つまり諏訪神左衛門尉の手に東方地頭職が移ってしまったらしい。天野遠政の所領回復は実現しなかったらしく、以後天野氏の東方地頭職は知られない。

 この東方地頭だった天野遠政は、鎌倉幕府有力御家人天野遠景(あまのとおかげ)の子孫で、南北朝時代の初め頃になると、天野遠政が北朝方の軍に加わり、各地に転戦しているのが散見できます。おそらく能登島西方地頭であった長氏に対して後進のため、勢力拡大を図り、積極的に北朝方に組したものと思われます。能登島の東方地頭となったのは、観応2年(1351)頃と考えられますが、遠政は能登島に来たことはなく、一族の天野遠経(とおつね)や家人の堀籠宗重らを代官として赴任させていました。(後、畠山氏の時代に、家臣の中に天野慶景、天野章慶、天野次郎などの名前が見えますが、もしかしたら能登島の天野遠政の子孫かもしれません。)

 室町時代になると、全島が、守護畠山氏の直轄地になり、島内の村々に、能登畠山譜代の被官が地頭として配置されました。嘉吉3年(1443)8月、島の惣庄鎮守的地位にあった伊夜比咩神社(いやひめじんじゃ)の本殿上葺では、守護代遊佐忠光が大檀那となり、そのもとで向田村地頭温井孫右衛門尉慶宗や勾(まがり)村(現在の曲)地頭の冨田慶行が守護被官が修復事業に当っています。寛正6年(1465)2月13日の向田村の神明社と八幡社の造営に際しては、同村の地頭温井忠冬と代官荻野宗久がみえます(以上伊夜比咩神社蔵棟札)。神明社は能登島が伊勢神宮の御厨になった時、東方の鎮守として勧請されたと考えられ、八幡社は伊夜比咩神社と同殿となっていました。

  文明
13年(1481)1月11日の能登島八ヵ村公田田数注文(伊夜比咩神社文書)によれば、島内の東西両方の区分が既に消え、全島が八ヵ村(島八ヶ)、すなわち、野崎・須曾・飯浦(はんのうら)・鈎(まがり)・向田(こうだ)・閨牟関(せき・むせき)・えのみ(現えのめ)・蜂ヶ崎から構成されるようになっており、村名・公田数(一宮気多社の段銭2斗米の賦課対象地)・地頭名がみえます。この文書は、向田村の地頭温井氏の代官で向田村に住んでいた三階家吉が島全域の課税対象地を書いたものです。公田数の合計は48町48束刈で、気多社に進納する一宮2斗米は段別6升4合ずつで、島全体では30石6斗4升でありました。(江戸時代以来能登島に伝えられた島の草分八太郎の伝説は、室町期の島八ヵ村にちなむものであろう。)
 島八ヶ村公田数一覧(一宮二斗米賦課対象地)   
村名地頭名公田数
野崎領家分西方殿3町500苅(かり)(うち500苅神社地)
須曾馬淵殿3町660苅(神社共)
飯浦誉田(ほんだ)殿4町298束苅(神社共)
鈎村富田殿5町90苅
向田・閨・無関温井殿10町(神社共)
(うち向田7町、閨・無関3町)
エノミ村波々伯部(ははかべ)殿9町240苅(神社共)
蜂崎波々伯部殿2町140苅(神社共)
野崎地頭遊佐殿7町120苅(神社共)
「能登島のれきし」(能登島町発行)から転載

 「能登島のれきし」(能登島町発行)によると穴水町沖波の諸橋利久さんの家に遺されている『天文年中旧記写』(能登内浦村々給人注文写(諸橋文書))には、戦国時代後期の天文(1531〜1554)年間末頃の能登国内浦沿岸の村々の給人(大名から土地を与えられた侍)の名前が列記されているそうです。
 戦国時代後期の給人表(『天文年中旧写』)
村名給人名村名給人名村名給人名
すそ遊佐殿むせき温井兵庫殿えのみ
(木扁+元)
大上様※
左波皆見富来殿長崎大上様※
飯浦誉田殿鈎村富来野崎遊佐殿・西方殿
通り誉田殿向田温井兵庫殿大崎(給人不収)
田尻誉田殿舟見温井兵庫殿筆島遊佐殿
久来富来殿祖母浦温井兵庫殿二穴温井殿
敷島はちか崎加治殿
祢屋温井兵庫殿大上様※
※大上様とあるのは、守護大名畠山氏のこと。この3ヶ村は重要な地域なので大名が自ら支配したと推定される。
「能登島のれきし」(能登島町発行)から転載

 上記の文書によると、遊佐氏が須曾・筆島、誉田氏が飯浦・通・田尻、富来氏が久来・皆見(みなみ)・鈎、温井(兵庫尉)が禰屋(閨)・牟関(無関)・向田・舟見・祖母浦・二穴、加治氏が蜂崎、畠山徳裕(義続)が、泊・えのめ(木へん+元)・長崎をそれぞれ給地としており、野崎は遊佐・西方両氏の給地でした。
 なお、戦国時代の向田村については、伊夜比咩神社の明応5年(1496)8月の棟札に大檀那として「地頭藤原朝臣温井備中守俊宗」と見えますが、温井氏の給分は後、同氏が弘治の反乱で没落したため改易されたらしく、同神社の永禄元年(1558)9月16日に記された棟札には、向田村の地頭として池田掃部助となっています(伊夜比咩神社蔵棟札)。

 能登を訪れた文人の記録などにも能登島の地名は時々見られる。スソ(須曾)と屏風ヶ崎の名は、永正15年(1518)3月に能登を旅した公家の歌人・ 冷泉為広 の「能州下向日記」に見えます。また天文16年(1547)に能登に下向した彭叔守仙(前東福寺住持)が温井総貞に寄せた漢詩文(独楽亭記)は、風光明媚な七尾湾周辺の情景を描いており、府(中)の北東の島を能登島と称しています。能登島は、何となく近代に付けられたような名前ですが、もうこの頃には、少なくとも「能登島」というこの名称が既にあったようです。

 永正年間
(1505〜1521)には浄土真宗の教線が島内に及び(妙覚寺蔵阿弥陀如来絵像裏書)、石山合戦に際しては、島二十日講中と野崎村惣中から本願寺にたびたび黄金が志納されていました(「本願寺顕如書状案」)。
 向田長順寺の「累代住職記」には、同寺の第二世広順が、曲村専徳寺の左馬坊という豪力無双の僧とともに、石山合戦に参加して手柄を立て、顕如法主直筆の「虎風の御影(みえい)」及び名号をいただいたとあり、現在もその御影などが残っているようです。また祖母浦専正寺には、同寺の海雲坊が石山合戦で使用したと伝えられる旗が遺されています。

 ところで、戦国期の能登島の代表的な土豪として、鰀目(えのめ)の当摩(とうま)(古くは太間)氏がいます。当摩(太間)家は、山城国(京都府南部地方)の出身で、寛元年中(1243〜1247)から能登島に住み、応永年中(1394〜1428)から当摩主計亮(かずえのすけ)貞信(さだのぶ)(明応3年(1494)〜天正14年(1586))が、守護畠山氏に仕え、能登島の沖合いを通る船から船の通行税の役銀を取り立てる「かきとり役」という役目を命ぜられています。前田利家が能登に入部してからは、利家に仕え、天正13年、前からの通り「かきとり役」を命じられています。翌年彼が亡くなり、孫の当摩教信(あつのぶ)がその後を継ぎ、五兵衛尉を名乗りその職も引き継いでいる。

 と言っても、天正10年(1582) 石動山合戦 の時には、どうやら教信の兄にあたる当摩善三郎政誓(と、おそらくその父(名前不明))は、石動山宗徒・上杉勢について前田利家と戦っています。敗退後、善三郎は、上杉景勝にしたがって越後へ行き、扶持を受けて直江沢(直江津)に住み、寛永9年(1632)に没したとあります。善三郎は、越後へ行った後も、能登島に来て上杉方のために働いていた形跡があります。そのため前田家も当初はあまり当摩家を信用していませんでしたが、上杉勢を越中から駆逐した佐々勢を、さらに豊臣秀吉が降してから北陸も平和になり、当摩家を手なずけるため「かきとり役」に命じたようです。

 この他にも、能登島の土豪としては、同じ鰀目に加地太郎秀貞(教信の母貞子の父親)がいたことはわかってます。また鰀目左衛門入道教道長崎左衛門太郎などが伊夜比咩神社の棟札に名が残っているなどから、彼らもそれぞれ鰀目、長崎の土豪と考えられます。

 江戸時代は、加賀藩領で、島組の十村役は当摩氏が継承していました。十村とは、改作仕法(開作仕法とも書く)という加賀藩の農政の大改革が行われた際にできたものです。加賀藩の村々の支配は、トップに御算用場奉行が座り、その下に主に生産面の支配を担当する改作奉行と、村民支配を中心に担当する郡奉行がおり、この改作奉行と郡奉行の双方の下に農民の中から選ばれた十村役がいました。十村はつまり代官役を兼ねた大庄屋のようなものです。

 (参考) 小浦左幸(さこ)と村民の逃散

 慶長13年(1608)の時には、鰀目村太間の名が見え、同じく元和2年(1616)の時には「十村肝煎鰀目たえま(太間)・同かうた(向田)村善右衛門」という名が見えます。初期の十村はその名の通り、十ヶ村ほどを一組として支配していましたから、20ヶ村からなる能登島に2人の十村がいたのは、当然のことのように思えます。その後、十村組の組合併が行われて支配村数が増加するとともに、能登島の十村は1人となり、鰀目村当摩太間が十村役を引き継いだものと考えられます。

 能登島では古代から製塩が盛んに行なわれ、江戸時代でも盛んでした。元文5年(1740)に塩釜98枚(「島組巨細帳写」伊夜比咩神社文書)、天明5年(1785)に塩釜113枚、塩士113を数え(鹿島郡誌)、製塩高の最高は嘉永6年(1853)の22,201俵で、最低は明治元年の6,686俵(御塩方御用留)でした。漁業は、富山湾に面した東部地域では、大小の定置網、中部・西部地域では刺網・引綱・海鼠などの磯漁が主流です。

 能登島は、寛永13年(1638)に、人持組頭・安見隠岐守が向田に流刑されてから、加賀藩の流刑地に指定されるようになりました。最初配所は(流刑者を受け入れた場所)は向田村だけでしたが、流人数が増加する天和元年(1681)から宝永7年(1710)にかけて新たに佐波・長崎・曲(まがり)・鰀目(えのめ)・祖母ヶ浦の五ヶ所が追加されました。その後さらに流刑者が増えたので、正徳元年(1711)から元文5年(1740)にかけて、別所・須曾・閨・二穴・八ヶ崎・半浦・無関の8ヶ村が付け加えられました。

 流人は寛永13年(1636)以降幕末まで134人(113名という本もある)で、政治犯がほとんどだったようです(「加賀藩史料」「流刑人一巻」加越能文庫など)。そのほかの主な流刑者としては、加賀藩の儒者・五十川剛伯とその子・当三郎、当目村(能登町柳田)の又兵衛及び小三郎(一揆の咎で)、加賀藩士・堀主馬、加賀藩士・ 寺島蔵人 、元治元年(1864)に流刑になった加賀藩の勤皇家3人、堀四郎左衛門・大野木源三・久徳伝兵衛などがいます。

 明治22年の町村制施工により東島村・中乃島・西島村が成立、昭和30年(1955)、3村が合併して能登島町が成立。この頃から過疎化が進むが、同57年七尾市石崎町と能登島南西端の屏風崎との間に能登島大橋が開通して離島から脱却した。能登島水族館、能登島ガラス工芸館などの各種施設もで、またさらには平成に入ってから、能登島大橋の無料化、中島町長浦と能登島町通(とおり)との間に、ツインブリッジ能登が開通するなど、リゾート化が進み、観光客の訪れが年毎に増加している。

(能登島関係の他の頁)
  ◎ 能登島の蛸祭

  能登出身の仙人・臥行者
  ◎ 藩政を憂え、能登島に配流された慷慨の士・寺島蔵人

 

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