このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

北京めざして (1)
6年間とちょっと勤めた会社を2000年8月から一年間休職して、北京へ留学することにしました。入学手続きは8月28日から始まるのですが、せっかくの機会だからと大阪港から船で上海に入り、中国のいくつかの街を好きなように見て回ってから北京に行こうと思い、今回の旅が始まりました。

8月11日に東京で王菲つながりのネット友達である「だいたくへりおす」君が壮行会を開いてくれ案の定徹夜になり、12日に必死に荷造りをして東京を発ち、日本を出る前に見ておきたかった所を見てから13日に大阪着。大阪ではやはり王菲つながりの「Uncle Kei」さんが壮行会を催して下さり、出発前最後の14日の夜は帰省中の会社の先輩と後輩と一緒に「じゃんじゃん横町」というディープな街で軽く飲み、その後は網友の「踏台」さんや何故か大阪滞在中の「YOKO」さんらとミナミで中国カラオケという締めでした。

このページは8月15日に大阪港を出てから28日に北京語言文化大学の門をくぐるまでの12日間の旅行記です。
2000年8月15日正午、大阪港国際フェリーターミナルから貨客船「新鑑真号」で出航。いよいよ47時間(二泊三日)の船旅が始まりました。宿泊していた大阪の本町から地下鉄中央線一本で「コスモスクエア」駅下車。200円の市バスに乗るつもりでしたが、バスの時間が合わなくて似たような格好の人に声をかけてタクシーで行きました。4人で700円程度だったのでかえって安かったです。外から見た新鑑真号は思っていたよりも大きくて(約14,000トン)、新しかった(1994年就航)ので安心しました。

出航時に岸壁で見送る人たちがかなりいて、船のデッキからも10人くらいの中国人の小姐たちが泣きながらいつまでもいつまでも手を振っていました。「奴隷船のようなすし詰め状態だろう」とか「船酔いでゲロゲロらしい」とか散々に脅されたのですが、ご覧のように海は至って穏やか。14人部屋の二等船室も広々としていて快適でした。海はいくら見ていても飽きなくてしょっちゅうデッキから眺めていました。47時間の出発でもあるのですが、私にとっては1年間の始まりでもあり、色々な意味でいい船出になりました。
船の中には、食堂(二回の朝食は無料)、売店、カラオケ、ゲームセンター、卓球室、喫茶室、喫煙ロビー、自販機(ビールとたばこが免税なので安い)、シャワー、トイレ、洗濯室(洗濯機も乾燥機も無料)などの設備があり、さらに二日目の晩には食堂で船員と乗客の交流会(実際は無料カラオケ大会)があったりして飽きることはありませんでした。やることが無いときは船に揺られながら甲板のベンチで寝たり、部屋で寝たり...って寝てばかりだったな。学生時代のバイト仲間の一戸君が「面白そうだな」と半ば思いつきでついてきたことも助かりました。彼は一週間だけ会社を休んで往復の4泊はこの船で過ごし、上海に2泊だけするつもりで来たのです。97年7月の香港返還も6月頃に電話で話していたらやはり突然「行こうよ」ということで決まったのですが、ホントに腐れ縁なんでしょう。

写真は食堂の昼ご飯。朝食は無料で、昼と夜は学生食堂か社員食堂のような仕組みでいくつかおかずを選べます。この日はご飯とスープを各自買って、野菜の炒め物と肉料理は分けあって食べました。全部で二人で500円くらいでした。船内の食堂と売店では人民元も使えます。
ちょっとありきたりな写真ですが、初日にデッキから見た夕日です。たぶん四国沖あたりだと思います。

実は出発前に大阪で一眼レフのカメラを買ったのですが、北京で現像してみたら自転車を買ってもらってうれしくて意味もなく近所を乗りまくる小学生のように無意味な写真ばかり撮っていました。夕日も似たような構図で何枚もありました。

前にも書いたように海はずっと穏やかだったのですが、部屋で横になっていると微かに今まで経験した揺れとは異なる動きを身体で感じて自分が海の上に居ることに気づかされます。

私はぜんぜん船酔いしなかったのですが、船内で知り合った日本人の学生は吐くことは無いにしても気分があまりすぐれないようでした。あ、この学生は食事のときに話していたら偶然に私と同じ学校で学部まで同じであることが判明。就職の内定先まで同業他社でした。チベットまで行くと言っていたけど元気かな〜。

それから船旅というと何となくロマンスでもあるかと思ってしまいますが(って私だけ?)、我々の周りに集まってくるのは男子学生諸君ばかりでした。唯一、交流会のときに私のテーブルにいきなりやってきて「おにーさんがさっき歌っていた歌はなんですか?」と訪ねてきた日本人のかわいい女子学生がいたのですが、彼氏と一緒でした。ふん。
船内のカラオケです。スナックのように小姐が横につくわけではありませんでした。まぁ別に期待していたわけではありませんが、と一応言っておきます。

日本の歌と中国の歌の両方があったのですが、中国人の女性がひたすら日本の演歌を歌い、私はひたすら中国語の歌を歌っていました。今回は陳昇の「把我的悲傷留給自己」に初挑戦しました。それにしても中国人女性の演歌はかなりうまかったです。

ここのお会計は水割りを1杯だけと8曲くらい歌って1200円くらいでした。
新しく買った一眼レフカメラでほとんど撮影していたので、デジカメの画像は思い切り飛びますが、三日目の朝を迎えてデッキに出てみたらもうそこは中国でした。

濁った水に広い川幅。ここは長江が東海(東シナ海)にそそぎ込む河口付近で、外高橋港というところらしいです。長江航路の客船やコンテナ船など多くの船が行き交って賑やかでした。

いよいよ上海は目の前。
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