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2005年12月24日(土) | ブランの日記 −ドライブ・昼ごはん・焼き芋− | 今日は3連休の中日、朝からよい天気なので、お父さんとドライブに出かけました。目的地は沼津の千本浜公園。いくらボクが寒さに強いといっても、やはり冬は暖かいところに限ります。
お父さんは途中のコンビニで、ジャムパンとおにぎり、それにアクエリアスと缶コーヒーを買いました。今日の昼ごはんです。
ボクは家にいるときは1日2食で、昼ごはんをほとんど食べません。食パンを半分くらい食べるだけです。お母さんが「太りすぎるとよくない」というからです。
でも、お父さんと出かけるときには、一緒に昼ごはんを食べます。これもドライブの楽しみの一つです。今日は門池公園で食べました。パンはジャムのところをお父さんが食べて、ボクはパンだけのところを食べました。おにぎりは具のところをお父さんが食べて、ご飯のところをボクが食べました。お父さんもボクのからだのことを心配して、食べ物には気を遣ってくれているようです。ボクは、本当はジャムや鮭も食べたかったけれど我慢しました。
千本浜公園に着いてみると、公園の入口に焼き芋屋さんがいました。お父さんは焼き芋を2本買ってくれました。甘くてすごく美味しい焼き芋です。お父さんと1本を半分ずつ食べて、もう1本は夜のためにとっておくことにしました。
今日はクリスマス・イブ。ケーキの代わりに焼き芋を食べるつもりです。ケーキは美味しそうに見えるけれど、ボクには、やっぱり自然の甘さが一番です。 |
門池公園にて |
焼き芋屋さんの前で |
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2005年12月17日(土) | 旅館のタオル | この11月、静岡・寸又峡温泉と山梨・石和温泉の旅館に泊まっての体験。
寸又峡温泉では4人同室だったが、部屋においてあるタオルの色がそれぞれ違う。白、黄、青、ピンクとカラフルだ。最初は「はてな?」と思ったがすぐに合点した。各人使ったタオルが分かるようにとの気遣いである。これだけはっきり違っていれば間違えることはない。
石和温泉では2人で1部屋。さてこちらのタオルは、とみると2つとも白色だ。「やっぱり静岡の方が気が利いているか」と思ったが、さにあらず。タオルに書いてある旅館名の文字の色が違うのだ。金色と銀色、しかも刺繍で書かれている。
最近、名入れタオルを業としている人に会う機会があり聞いたところ、こうした例は初耳だという。してみれば、これらの工夫は、まだ一般的ではないのであろう。
確かに、旅館に泊まったときには、誰が使ったタオルか分からなくなることがよくある。もちろん他人のタオルを使うことは気持ちのよいものではない。
客の立場に立って問題を解決しようとした2つの旅館の姿勢に感心した。 | | |
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2005年11月23日(水) | 甲斐大和の“ほうの木” | 11月22日、石和温泉に泊まった。会社から10km足らず、人数は6人ながら一応“社員旅行”という名目である。石和は昭和36年1月、ぶどう畑から湯が出て以降、温泉地として発展した。新宿から特急列車で1時間半というアクセスのよさもあって、多くの団体客を呼び込んだ。大型旅館が林立し歓楽街もできて賑わったが、今では客層が変わり、一時の喧騒はない。私たちが泊まった旅館は、巨石のある日本庭園を囲んで独立した棟が「渡り廊下」でつながっている、何とも趣のある宿である。食事も量より質といったつくりで、満足のゆくものであった。石和は、かつての“男性専科”の温泉地から、家族で安心して泊まれる保養地へと脱皮しているようだ。
明けて23日は朝食後、午前9時に現地解散とする。休日には各人それぞれの大切な時間がある。
小生は甲斐大和に寄って帰宅することにした。10年程前新聞で、「甲斐大和駅近くの神社境内にある“ほうの木”の枝が中央本線の架線にかかっているため切ろうとしたところ、次々と災難が起きて切ることができない」という記事を目にし、現地を見に行ったことがある。今になって何故かふと、あの“ほうの木”はどうなったろう、と思い出したからである。諏訪神社は駅のすぐ近くにある。本殿と線路の間の狭い空間に例の“ほうの木”があり、線路側へ枝を伸ばしている。この時期、すでに葉は落ちているものの枝は相変わらず架線にかかっていて、以前見たときと変わらない。未だもって、この木には誰も手をつけられないようだ。
ところで、この神社の境内には“初鹿野の大杉跡”がある。案内板によると樹幹の根周囲11.5m、樹高31.8m、樹齢371年とある。この杉は、笹子峠の矢立杉、甲斐奈神社橋立の大杉とともに甲州街道三本杉といわれた巨木であったが、明治36年に鉄道が開通し、その振動と蒸気機関車のばい煙で樹勢が衰え枯れたために伐採された、と記されている。
鉄道に支障しながら枝を切らせない“ほうの木”と鉄道開通により倒れた大杉の話・・・。諏訪神社の“ほうの木”は、大杉の無念を受け継いでいるのであろうか。 |
中央本線下り線の
架線にかかる“ほう
の木”の枝 |
屋根で保護され
ている“初鹿野の
大杉跡” |
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2005年11月11日(金) | 奥大井紀行 | 11月5日から1泊2日で奥大井を訪ねた。中年男4人が、“南アルプスあぷとライン”で奥泉から井川まで、紅葉の季節を迎える山峡をゆったりと旅した。
泊りは寸又峡温泉。奥泉から車で30分ほど山の中に分け入ったところにある、秘境と呼ぶに相応しい温泉地だ。お湯はつるつるして泉質は上々。朝6時からやっているという土産屋さんは気さくで親切。ここは地域全体で客を歓迎している。
2日目の朝、“夢の吊り橋”を訪ねてみた。旅館街から2kmほど離れているが、一般車が通行止めになっているため歩きやすい。目的の吊り橋は道路からかなり下に見える。長さは90m、対岸では急な階段を上がらなければならない、と注意書きがある。しばし考えたが、それでも思い切って渡ってみようということになった。“夢の吊り橋”は橋とはいえ、足元に幅50cmほどの板が敷かれているだけの簡素なつくり。目を下に向けると胃袋が口から出てくるような感覚だ。
やっとの思いで渡り終わり振り向くと対岸で2人が手を振っている。なんと渡ったのは2人だけだった。
(※)この旅を、井川線を中心に
出張レポート(2)
としてまとめたのでご覧ください。 | | |
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2005年10月29日(土) | ブランの日記 −金曜日と月曜日− | 金曜日のこと
「ブラン、お父さんからだヨ」
朝ごはんが終わったころ、お母さんが電話器をもってきました。
「そうか、今日は金曜日だ」
お母さんはボクの耳をめくって電話器をあててくれます。
「ブラン、今夜帰るからネ」
お父さんの声が聞こえます。ボクは「クーン」と言って返事をします。
お父さんはボクが1歳半のころ、単身赴任で甲府へ行きました。その時から金曜日の夜に帰ってきて月曜日の朝に出かけるようになりました。
ボクは早寝で、いつもは7時ころに寝ますが、お父さんから電話のあった日は、我慢して起きています。お父さんは、だいたい8時から9時ころには帰ってきて、ボクの頭をなでてくれます。
はじめて電話に出たとき、ボクはお父さんが近くにいるのかと思ってキョロキョロあたりを見回しました。でも今は慣れたので、落ち着いて電話ができるようになりました。
お父さんからの電話は、本当に楽しみです。
月曜日のこと
月曜日の朝、お父さんは6時ころ家を出て甲府へ行きます。ボクは早起きなので、その時間にはとっくに目を覚ましています。甲府へ行く日のお父さんは背広を着ているので、すぐにわかります。それでボクは、お父さんの方は見ないで、お母さんにばかり話しかけます。
「ブランは、ずいぶん割り切っているなー」
お父さんは、こんなボクに少し不満なようです。ボクの態度が休みの日とはあまりにも違うからです。でもボクがお父さんを無視するのには、深い理由があります。ボクが甘えると、金曜日までボクと会えないお父さんが、かえって淋しい思いをするからです。
正直のところ、ボクもつらいので、この日の朝はお父さんと目を合わせないようにします。でも、お父さんの車が家から出て行くときには、我慢しきれなくなって、目であとを追いかけます。 | | |
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2005年10月21日(金) | 小さな靴屋さん | 勤め先の近くに小さな靴屋がある。戦後しばらくして開業したという古い靴屋である。子供たちはすでに独立し、夫婦で店を営んできた。特に紳士靴の品のよさには定評がある。
ところが3年ほど前、ご主人が突然亡くなって奥さんが一人で後を継ぐことになった。奥さんもとうに70歳を超えている。
「私ももうトシだからネ。お父さんが残した靴を早く売って楽をしたいよネ。1年もすれば売り切れると思うから。そしたら店を閉めるつもり」
奥さんの新たな出発だ。次男の結婚式を間近に控えた小生は、店の前途を祝して上等な靴を一足買い求めた。
しかしその後1年が経ち、2年経っても一向に店の閉まる気配はない。
最近久しぶりに店をのぞいてみた。奥さんは相変わらず店の奥にポツンと座っている。気が付いてみれば棚には茶色の靴ばかり。黒い靴は数えるほどしかない。
「はじめはそこそこ売れたんだけどネ。黒い靴から売れるものだから茶色の靴ばかり残っちゃって。そうなるとなかなか売れないんだよネ。うまくいかないもんだネ」
予定がくるったと言いながら、少しも困った風はない。本当は奥さんも商売が好きなのだ。長い間守ってきた店を、そう簡単にはやめられない。ご主人もそのことを百も承知で、こんな仕掛けをしていったのかも知れない。 | | |
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2005年10月1日(土) | 高野山を訪ねる | 9月18日、妻と高野山を訪ねた。真言宗の総本山、空海・弘法大師の山である。
3連休の中日とあって、難波からの急行電車はそこそこに混んでいる。車内は休日の開放的な空気に満ちている。
向かいには老夫婦が、孫であろう2人の男の子を挟んで座っている。子供たちは落ち着かず、しきりに袋菓子を食べている。祖母が何事かくどくどと注意し、祖父は知らぬ顔をきめ込む。
電車は高野山に近づき各駅に停車するが、途中で下車する人は少なく、ほとんどの客が終着駅に向かう。“高野下”を過ぎるといよいよ山道に差しかかる。電車は右に左に曲がりながら急勾配を上る。車輪のきしむ音が絶え間ない。
“極楽橋”に到着する。客は一斉にケーブルカーの駅に向かったが、私たちは帰りの特急券を買って次を待つことにした。ケーブルカーの高野山駅から市中へはバスが頻繁に出ている。
高野山は、標高800m以上の山上に約4000人が住む天空宗教都市である。このうち僧侶の数は1000人を超えるという。
まずは金剛峯寺に立ち寄る。もともと金剛峯寺は高野山の総称であったが、今は豊臣秀吉ゆかりの建物を金剛峯寺という。いかにも時代を感じさせる落ち着いた寺である。狩野派の襖絵、「殺生関白」といわれた秀次切腹の間など、中世の歴史が今日に続いている。
根本大塔のある広場へ行くと、経をあげながら次々と堂を巡る僧侶の一団に会う。ここには俗世間とは別の世界がある。
街中の食堂で昼食をすませ、歩いて奥の院を目指す。途中、一の橋まではゆるやかな下り坂で、道路の両側には手入れの行き届いた寺が並んでいる。
一の橋から奥の院までの参道には、戦国武将や徳川大名、それに名だたる実業家などの墓が延々と続いている。武田信玄と上杉謙信の墓もお互いすぐ近くにある。川中島で何回もまみえ、どちらが勝ったのか負けたのか・・・。
人間の営みの偉大さも、愚かさも、何もかも包み込んだ高野山である。
帰りの電車の時間もあって結局奥の院までは行くことができず、途中からバスで引き返すことにした。バスに乗って、ふとこの秋で結婚30年になることを思い出す。隣の妻にそのことを告げると、ただ軽くうなずくだけである。
30年も夫婦でいれば何も言わなくても気持ちは通じる、と思っていると通じないこともあるから厄介だ。それでも今日は、たぶん通じたと思う。
30周年とはいえ、とりたてて計画のない私たちには、はからずもこの高野山行きが記念旅行になったようだ。
“極楽橋”に、赤と白の鮮やかな特急電車が入ってくる。
午後3時42分、電車は私たちの思いと満席の客を乗せて静かにホームを離れた。 | | |
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2005年9月23日(金) | 阪急・京都本線 | 9月17日から3日間、大阪を訪ねる機会があり、到着初日に半日ほど阪急京都本線を観察した。これを「
出張レポート(1)
」としてまとめたので、ご覧いただければ幸いである。
阪急梅田駅は、1日の利用者が60万人を超える日本で最大の私鉄駅である。この駅の1階、エスカレーターの向かいに山梨県大阪事務所の掲げた大きな電飾パネルがある。阪急電鉄の創業者・小林一三が山梨県出身のためであろうか。梅田駅では山梨県の看板が特等席を占めている。
ところで、この写真に写っているのは、ブランが9月8日の日記に書いた公園である。我が家のすぐ近くの公園を梅田で見ようとは・・・。
何故か誇らしい気分になった。 | | |
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2005年9月8日(木) | ブランの日記 −久々の青空− | 何日も続いていた雨があがって、今日は朝から久々の青空。ボクは所長(実はボクのお父さんです)を誘って公園へ散歩に行きました。公園は研究所から1kmほどのところにあります。所長と散歩をするにはちょうどよい距離です。
自動車道から遊歩道へまわってみると富士山がくっきり見えました。百日草は枯れかけていたけれど、とてもきれいな景色なので、ボクは所長に写真を撮ってもらいました(上)。
途中、友達のゴロウのところに寄りました。ゴロウは公園のすぐ近く、三角屋根の素敵なお家に住んでいます。ゴロウも所長に写真を撮ってもらいました(下)。
公園からの帰り道におしゃれなテニスコートがあります。まだ朝早いせいか、誰もいませんでした。ボクと所長は自動販売機でアクエリアスを買って、テラスで飲みました。所長から「お母さんには内緒だヨ」と言われたので、このことは研究所へ帰ってからも決して話しませんでした。
ボクは口が堅いので、秘書の仕事に向いているのではないかと思います。 | | |
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2005年8月27日(土) | 正門近くの文具店 | 小学校の正門近くに文具店がある。小さい店ながら小学生が必要とするものはすべて揃っている。鉛筆、消しゴム、ノート、画用紙に12色のクレパス。それに、この店にはバラ売りの飴や菓子もおいてあるし、ゴムボールや水鉄砲などのおもちゃもある。誰だって学校帰りには寄りたくなる。
店には“おばさん”がいる。早くに旦那さんを亡くして一人で店をやっている。僕たちが文具を買いに寄ると機嫌よく売ってくれるが、勉強に関係なく、まして少し高いものを買おうとすると必ず「おかあさんは知ってるの?」と聞いてくる。子供だってたまには臨時収入があって自分のほしい物を買ってみたいときもある。しかし、この店の“おばさん”は僕らのせっかくの企てを止めてしまう。お金があったところで気兼ねなく買い物のできる店は他になく、あきらめる以外にない。あとは母親に、小遣いをもらった人の名前と金額を申告して使い道を申請するだけだ。
その後、たまに見かける“おばさん”は、見かけるたびに“おばあさん”になった。今も店をやっていることは知っているが、ここ何年も用はない。
ところでつい最近、方眼紙が必要で近くのコンビニに行ったが「ない」と言う。言われてみれば、方眼紙などというものは、かなり特殊な用紙に属するのであろう。コンビニにないのもやむを得ない。そこで例の文具店を思い出し行ってみることにした。店の中は数十年来変わらない。「ありますよ」と答えながら何故か“おばあさん”は困ったような顔つきだ。持ってきた方眼紙は表紙が黄ばんでいる。棚の上でかなりの年月を経たものだ。「お金はいらない」と言われたが、無理に代金を置いて帰ることにした。
「出入口」と張紙のある動きの悪いガラス戸を開ける。ほんの一瞬よみがえった子供の時代・・・。
一歩表へ出れば現実の世界が待っている。 | | |
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2005年8月26日(金) | 日本国勢図絵 | 図会は“ずえ”と読む。日本国勢図会は毎年6月に刊行されるデータブックである。裏表紙に“厳選したデータをもとに、日本の社会・経済情勢を表とグラフで分かりやすく解説”とあるとおり、50に分類されたテーマごとに要点が手際よく整理されている。統計資料は、私たちが日頃漠然と感じていることを明らかにしてくれる。
例えば第5章の「府県と都市」。三大都市50キロ圏の人口をみると、東京は約31百万人、大阪は約16百万人、名古屋は9百万人弱とある。なるほど、大阪圏は東京圏の約半分か、と納得する。
あわせて大都市圏の昼間人口と常住人口の表をみると、東京都は265万人(うち23区は344万人)の流入超過、埼玉・千葉・神奈川の3県は合わせて251万人の流出超過で、改めて東京の巨大さを知らされる。一方、大阪府への流入は52万人(うち大阪市へは132万人)に過ぎず、隣接の兵庫・奈良両県の流出は合わせて45万人で、京都府については、昼間人口と常住人口がほぼ同数である。
そこで大雑把な推論・・・。①東京は一極集中の巨大都市である。都心へは、都下はもとより隣接県からも多くの通勤者がつめかける。朝夕の通勤輸送は都心を軸に片方向輸送となり、長距離通勤も目立つ。②大阪市へは、府下からの通勤者は多いものの隣接県からの通勤者は東京と比べて格段に少ない。平均通勤距離は短く、京阪神間では京都・神戸方向へ向かう人もあるため通勤輸送は双方向となる。
日本国勢図会:(財)矢野恒太記念会編集・発行 A5判 542ページ 定価2650円 | | |
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2005年8月20日(土) | 齢をとるごとに PartⅡ | 齢をとるごとに身体が衰え、頭も衰える。身体の各機能は若いときと比べるべくもない。それはそれでいたしかたのないことだ。
ところで小生が自分の身体の変化に驚いたのは、つい最近、会社の健康診断の履歴を見て毎年数ミリずつ身長が縮んでいるのに気付いたときである。50歳頃から56歳の今日まで、2cm近く背丈が低くなっている。おそらく背骨のパッキンの一つひとつが劣化し薄くなっているのであろう。なんと、老化はあらゆる方向からやってくる。
頭の衰えで自覚せざるを得ないのが記憶力の減退だ。物を置いた場所、人の名前など、つい最近のことでもフッと忘れてしまう。小生これを称して「カサブランカ症候群」という。「夕べどこにいたの?」「そんな昔のこと覚えてないね・・・」。そんな科白が冗談に思えない。
人間はほぼ20年で成長し、その数倍の年月をかけて衰える。成長の時間に比べ衰えていく時間のほうがゆっくりのように思えるが実はそうではない。先の説によると齢をとるほど時の流れが早くなる。本人は決してゆっくりだとは感じない。成長したのと同じくらいのスピードで衰えているのである。人生80年として、もし人間が40歳まで成長し40歳から衰えるとしたら、私たちは衰えることのあまりの早さに絶望してしまうだろう。
こう考えてくると、人間という生き物は案外バランスよく作られているのかも知れない。 | | |
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2005年8月19日(金) | 齢をとるごとに PartⅠ | 齢をとるごとに時の流れが早くなる。またたく間に1年が過ぎてしまう。小生、当年56歳であるが、同年輩の者に聞いてもこの感覚は共通のものらしい。
なぜ齢をとると時間が早く過ぎるのか。様々な理由が考えられる。「新たな刺激が少なくなるから」、「生活に変化が乏しくなるから」等々。
中で、息子が中学生のとき学校から持ち帰った答えは秀逸だ。もちろん担任からの受け売りである。
曰く、人間は生まれてから今日までを自分の人生のすべてととらえる。10歳の子供は10年が、50歳の中年は50年が自分の人生のすべてである。したがって、10歳の子供の1年は“人生の10分の1”であり、50歳の中年の1年は“人生の50分の1”ということになる。
今の自分の1年が子供のときの1年の“5分の1”に等しいかどうかはともかくとして、なぜか納得できそうな理論である。 | | |
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2005年8月6日(土) | 特別な日 | 小学生のとき、最大の楽しみは玉川学園の叔母の家へ遊びに行くことであった。
4年生の夏、初めてひとりでその叔母の家へ行くことになった。叔母の家に着くまでには途中で電車を3回乗り換えなければならない。
出発の日まで、私は何回も何回も行き方を復習した。大月と八王子では階段を渡ること、原町田で降りたら左へ折れて商店街を通り抜け、新原町田で小田急に乗ること。それまで何回も行ったことがあるとはいえ、ひとりで行くのはまったく新しい体験だ。
私たちが子供の頃、町へ出かけるときには、“よそ行き”の服に着替えたものだ。普段着があまりにも粗末なため、外出用は別に用意しておいた。それは必ずしも上等なものではなかったが、少なくとも小布が当てられているようなことはなかった。叔母の家へ行くときにも必ずその“よそ行き”を着て行った。
明日出発という日、少し窮屈になりはじめたその服を枕元において眠りにつく。
富士吉田駅で「さんろく線」に乗るとき、幼い私にとって間違いなく特別な日が始まるのだ。 | | |
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