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2006年12月27日(水)
文大OBのクリスマスコンサート

12月24日(日)、都留市のウグイスホールで都留文科大学OBオーケストラのクリスマスコンサートが開かれた。
このコンサートは、全国で社会人として活躍している文大OBが年1回、学生時代を過ごした都留市に感謝の意をこめて行っているもので、今年で5回を数えるという。
会場となったウグイスホールは、座席数800余りながら、音質のよさで定評がある。ホールの音質の善し悪しは残響時間の長短がポイントで、最近ではハイテク技術で調整しているホールもあるようだが、このホールは自然の響きがよい、ということらしい。
余談になるが、ホールの音響について興味をそそられる内容の小説に、山崎豊子の「仮装集団」(新潮文庫)がある。参考まで。
会場では、開演までに7割ほどの席が埋まった。クラシックのコンサートとはいえ、子どもづれの姿も目立ち、会場内には気のおけない雰囲気がただよう。
時間になって舞台左右の袖から演奏者が入場してきた。メンバー表を見ると、現役の応援もあって総勢90名ほどの堂々たる3管編成だ。
メンバーが着席すると、オーボエのA音にコンマスのヴァイオリンが合わせ、続いて全員がそれに従う。音合わせは、演奏会のムードを高めるための重要な儀式のようだ。
指揮者が入場して演奏会が始まった。クリスマスソングの合間に「運命交響曲」、「アイーダ行進曲」などをはさんだ親しみやすい演奏会だ。
曲目が進むにつれてメンバーの息もあってきた。
最後の曲はラヴェルの「ボレロ」。このオケの十八番だろうか、格段に出来がよい。スネアドラムのリズムは安定し、フルートからクラリネットへと気持ちよくつながった。
それにしてもこの「ボレロ」なる曲は、なんとも不思議な曲である。
ドラムは最初から最後まで3連符を基調にしたリズムを刻む。一方メロディーに3連符はないが、ドラムのリズムと奇妙に合う。
しかもそのメロディーたるや2種類しかない。同じパターンが何回も繰り返される。
それでいて聴く者に単調な感じを与えないのは、曲全体が一つのクレッシェンドでできていて次第に盛り上がり、最後は圧倒的な音量で終わるからだろう。
演奏が終わった後も、いつまでもリズムが身体に残っている、稀有な名曲だ。
1時間半のコンサートが終わり、観客もおおいに満足した。なによりも文大OBの心意気がうれしい。
都留文科大学は全国から優秀な学生が集まり、卒業後はその多くが地元へ帰って教員として活躍している。人口3万人たらずの町が全国へ「先生」を送り出している。
今年の流行語にならえば、都留市のような町にこそ「地方都市の品格」がある、といって差し支えないだろう。

2006年11月28日(火)
マウスの故障

パソコンのマウス(ワイヤレス)が故障したらしい。マウスポインタがウンともスンとも動かない。こうなってみると何とも不便なことおびただしい。
早速、故障したマウスを持って、我が家から最も近いB電器へ行った。以下そこでの対応。
店員:「受け側の故障ということも考えられますので、パソコン本体も持って来てください。メーカーに出すので、かなり日数がかかります」
小生:「それは困ったなー」
店員:「・・・」
それでも、と思い直してパソコンを購入したN電器へも寄ってみた。以下そこでの対応。
店員:「それはお困りですねー。でもワイヤレスでなくてもよければ代替がありますが」
小生:「すぐに使えますか?」
店員:「ウィンドウズに対応していますのでUSBポートにつなぐだけで使えます」
小生:「それは助かった」
同じことを相談したのに、何故こうも結果が違ってしまったのか。
B電器の店員さんは、故障したマウスを直すことのみを考えた。お客さまの質問に素直に(あるいは単純に)答えた。答えに間違いはないにしろ、お客さまを満足させることはできなかった。
N電器の店員さんは、お客さまの困っている点を解決することに回答のポイントをおいた。お客さまの直面している不便を解決することができ、満足させることができた。
簡単なようにみえて相手の真意を見抜くことは難しい。
もちろん、日常の応対の良否が店の評価を大きく左右することは間違いない。

2006年11月13日(月)
四万温泉の旅

11月11日(土)から1泊2日の日程で、かつて同じ会社に勤めていた仲間3人と四万温泉(群馬)へ出かけた。
あいにくの雨模様で天候には恵まれなかったものの山の紅葉は真っ盛り。3連休あとの週末とあって道路はすいており快適な旅行となった。
団塊の世代は芸能関係に弱点があるものの、話のレパートリーは広い。歴史談義から社会批評、スポーツ評論などと、話題はさまざまな方向へ飛ぶ。それでも最後は「健康に気をつけよう」といったところへ落ち着くのが定番だ。
帰途、小生の発案で横川へ立ち寄り、昼食をとることにした。目当てはもちろん“おぎのや”の釜めしだ。「店で食べる客には釜の分だけ値段を安くしてもよいのではないか」と言う者。「釜を置いてゆくのは権利放棄だから値段に差をつける必要はない」という説。どちらでもよいことを議論しながら賞味する。“峠の釜めし”は、一粒のっているアンズの実がミスマッチのようで、いいようのないアクセントになっている。
食事が終わり店を出るときには各人、土産用の釜めしを抱えていた。いろいろ言いながらも、それぞれ伝統の駅弁に満足した証拠だろう。


  河鹿橋(伊香保温泉)

  峠の釜めし(900円)
2006年11月3日(金)
ブランの日記 「ボクのお散歩コース」

ボクのお散歩コースは3つあります。
毎朝お父さんと行くのが「湖畔コース」です。家から湖畔へ出て白鳥さんのいる砂浜まで往復します。運がよければ砂浜で、白鳥さんにご飯をやっているおじさんに出会います。そのときはボクもパンのおすそわけをもらえます。だから「湖畔コース」のお散歩はとても楽しみです。
昼間お母さんと行くのが「神社コース」です。神社の森はこの時期とてもきれいな紅葉で、足もとには落ち葉がじゅうたんのように積もっています。ボクはサクサクと音をたてながら歩きます。運がよければ社務所に宮司さんがいてビスケットをもらえます。だから「神社コース」のお散歩もとても楽しみです。
休日にお父さんと行くのが「公園コース」です。公園の入口にはゴロウ(柴犬)のお家があって、ときどき寄らせてもらいます。お父さんがゴロウのお父さんとお話をしている間は退屈だけど、帰るときにはゴロウのお母さんがお芋やリンゴやいろいろなお菓子をくれます。だからボクは「公園コース」のお散歩が一番楽しみです。


 湖畔のサイクリングロードで

    神社の遊歩道で

    ゴロウの家の庭で
2006年10月21日(土)
挨拶

通勤途上に富士学苑高校がある。禅宗の名刹・月江寺が経営する富士急沿線唯一の私立高校だ。
学校の正門は路地ともいってよいほどの狭い道で人通りは少ないが、生徒たちは通行人を見かけると「こんにちは」と挨拶する。思わずこちらも「こんにちは」と声を返してしまう。こんな当たり前の光景がめずらしくなったのは、いつのころからだろう。
人と人との出会いは挨拶で始まる。挨拶は“相手を人として認めた”というメッセージだ。“心”は“形”にならないと伝わらないが、一方、“形”を整えることで“心”がそれにしたがう、という側面も見逃せない。おそらく禅の教えは後者を重視するのだろう。
いま学校の安全がおびやかされている。それにしても、外部の人間に対して“まず疑え”という教え方には違和感を感じざるをえない。緊急避難的措置とはいえ、いかにも残念としか言いようがない。
人を拒絶するより人を認めたほうが最終的にはよい結果がえられるのでは、と思うのだが・・・。
昨日も帰り道、寺の庭で練習中のソフトボール部員に声をかけられた。野球部が秋季県大会で優勝して学校全体のムードは盛り上がっている。挨拶がいつもより明るく感じたのは、気のせいだけではなさそうだ。

2006年9月28日(木)
職人

30年ほど前、所要があって富士吉田の看板店に立ち寄ったときのこと。ご主人が映画看板を製作していた。6畳敷き2枚はあろうかという大看板だ。映画の題名は忘れたが、外国人の男優と女優の大きな顔が記憶に残っているところをみると、恋愛スペクタクルだったのだろう。
しばらく様子を見ていると、ご主人は女優の顔の一部を手直しして「さてこれで終わった」と言う。素人目にもまだまだ描きかけといった感じなので、「あれっ、これで完成ですか?」と思わず声に出してしまった。
それを聞きとがめたわけではないが、ご主人は「オレは絵描き(画家)じゃない。職人だからナ」という。若い私は「なるほどそんなものか」と思いながらも、なぜかこの言葉がひっかかっていた。
浅田次郎の小説「金の鎖」(短編集「見知らぬ妻へ」中の1編)に同じような場面がある。トップデザイナーがパタンナーを叱りつける。「芸術家を気取るんじゃないわよ。いい、私たちは職人なんだから。プレタポルテという名前の、出来合いの服を作る職人なんだからね。こんな商品に比べたら、私が君たちの年ごろに手さぐりで作っていた9800円均一のサンドレスの方がよっぽど上等だった・・・」(原文のまま)
いささか才能のある者は才能に溺れ、自分を見失うことがある。看板店のご主人は、自分を見極めることのできる職人のひとりだったのだろう。
それから数日後、市内唯一の洋画専門館の正面に、あの看板が高々と掲げられた。近くで見たときは大雑把に見えた絵も、こうして見上げてみれば輪郭がはっきりしてインパクトが強い。
当時、映画の斜陽化は止めようがなく、看板を掲げての上映はかなり珍しいことであった。いま思えば、あの堂々とした看板は、館主と職人からの惜別のメッセージだったのだろうか。1、2週間ほどの上映期間が終わるとともに看板が降ろされて映画館は閉館し、二度と観客を迎えることはなかった。

2006年9月16日(土)
スバル雨?

最近、外国人向けに英語を併記する案内標識が目立つようになってきた。異国へきた不慣れな旅行者にはさぞかし役に立っているだろう、と思いきや中には首をかしげざるをえない表記も少なくない。その類の代表に、単に日本語をローマ字に直しただけ、というものがある。固有名詞と普通名詞をきちんと分けて、普通名詞は英語で表さないと意味が通じない。
その点、上の写真の「河口湖大橋北」=Kawaguchiko-ohashi Bridge N.は、(ohashiが余計のような気もするが)適切だ。一方、下の写真の「スバルライン入口」=SUBARURAINはすべてが大文字で、もともと英語の部分までローマ字になっているため区切りも意味も分からない。何とか読めたとしても「スバル雨」がせいぜいのところだろう。気をつけてみると、似たような標識は結構多い。
ところで話は飛ぶが、「案内標識と雨」とくれば思い出すことがある。息子が小学生の頃、おそらく学校でミリメートルという単位を習ったのだと思うが、「この道路は200mmの雨で通行止めになります」という標識を見て言ったこと。
「お父さん、ここは大きな雨が降るんだね」
なるほど、これは息子の解釈が自然かも知れない。やはり日本語も難しい。

2006年9月8日(金)
山中明神の安産祭り

9月4日から6日まで、山中諏訪神社の例大祭が執り行われた。山中諏訪神社は子授け・安産の神として近郷近在に知られ、例大祭は「山中明神の安産祭り」の名で多くの参拝者を集める。
我が家は1月に次男のところで男の子が生まれ、お礼参りをと思っていたところ、奇しくも神輿の“担ぎ番”にあたった。担ぎ番が巡ってくるのは10年に1度ほどである。今年は孫の誕生と担ぎ番とが重なり、まことにめでたい祭りとなった。
祭り当日、次男一家は帰省することができなかったが、長男が孫の肌着を装束に縫い付けて神輿を担いだ。
元気に産まれることを祈り、健やかに成長することを願う。
いつの時代でも変わらない、素朴な願いだからこそ長い間続いてきたお祭りだ。

(※)安産祭りについては、 情報センター 2005.9.6「山中諏訪神社の安産祭り」で詳しく解説しています。


神輿にしたがう、妊婦や子供を背負った母親たち
2006年9月1日(金)
高木東六先生のこと

8月25日、作曲家の高木東六さんが102歳の天寿をまっとうして亡くなられた。
私はこの先生にいささかの思い出がある。
今から40年ほど前、NHKテレビに「あなたのメロディー」という番組があり、高木先生が審査員を務めていた。素人の作った曲をプロの歌手が歌うという番組で、まだ素人が歌を作るなどということが珍しい時代にあって結構人気があった。
当時高校生の私は、この番組に刺激されてにわかに作曲に興味を持ち、詩も自ら作って2曲ほど応募してみた。結果は当然のこととしてボツだった。さてどうしたものか・・・。いろいろ考えてひとつの方法に行きついた。
当時歌を作る場合は詩が先にあり、それに曲をつける、という手順が普通であった。つまり、曲は詩によって規制されざるをえない。定型的な詩にこだわっているとなかなか新しい発想がでてこない。自由な詩に曲をつけた方がオリジナリティーを発揮できるのではないか。
おりしも同級生のF君が「こんなのを作った」といって自作の詩を見せてくれた。「にきび」という他愛のない詩であるが、少年の心情らしきものがあり、なにより自由な文体だったので、これに曲をつけてみることにした。曲はすぐにできあがり、早速「あなたのメロディー」に応募したところ、何とこれが入選して全国放送されることになった。
放送のための録画は高校2年生の3学期、2月頃だったと思う。当時のNHKは内幸町にあった。F君と私は学生服姿で新橋の駅から放送局へ向かった。NHKの建物はすぐにわかり、通用口から中へ入った。舞台から見るホールはかなりの大きさだ。ここが観客で埋まったところを想像しただけで心臓が口から出てきそうだ。
やがてリハーサルが始まった。伴奏は東京放送管弦楽団。金管のフルバンドにストリングスを加えたスタイルで、総勢30人を超える編成だ。音合わせを聞いただけでも5組の出場者は緊張しきってしまう。司会のアナウンサー氏は「テレビの画面は小さいので、インタビューのときは身体を左右に動かさないでください」などと注意したが、この調子だと本番にはどうなるかわからない。
リハーサルでは出場者の作品が次々と歌われる。歌手も本番並みの声を張り上げる。私たちの出場順番は3番目くらいだったと思う。前奏が始まった。私が単旋律で書いた曲がオーケストラの手になるとこんなに素晴らしくなるものなのか。これにはハイドンもびっくりだ。歌ってくれたのは曲想に相応しく、楠トシエさんだった。
リハーサルが終わって本番になる。私たちの歌が終わり、高木先生がメロディーを口ずさみながらコメントをしてくれた。先生のコメントは辛口で定評がある。「最初は良いんだけど、途中からちょっと音が飛ぶというか、跳ねるというか・・・」。言われてみれば私も気になっていたところである。モーツァルトの感性が望めないのならベートーベンの粘着性を多少でも見習っていれば、あるいは解消することができたかもしれない欠陥だった。
音楽の三要素はメロディー、リズム、ハーモニーという。日本人にはもともとハーモニーの感覚が欠けているといわれるが、先生はハーモニーを大切にする人だったと聞く。例えていえば、メロディーはハーモニーという川に浮かぶ舟のようなものではなかろうか。私は未熟な船頭で川の流れを読みきることができず、舟をふらつかせてしまったのだ。
先生の指導の積み重ねによるのだろう。私たちが出場してから数年後には、この番組から、トワ・エ・モアのヒット曲「空よ」が世にでることになった。

2006年8月23日(水)
ブランの日記 「ケン太に会った」

ボクは毎朝5時半ころ、お父さんと散歩にでかけます。今朝もいつものように歩いていると、めずらしいことにケン太(ゴールデン)が自分の家の庭で寝そべっているのに気がつきました。ケン太のお母さんが「寝坊で困る」と言っているように、こんなに朝早くケン太に会ったことはありません。
ボクは「どうしたんだろう」と思ってケン太に聞いてみると、「齢をとったせいか、最近時々朝早く目が覚める」とのことです。ボクのお父さんに言わせると、(永六輔の受け売りですが)「眠るにもエネルギーが必要」とのことで、だから「齢をとると体力が衰えて朝もゆっくり寝てられない」ということになるのだそうです。そう言われればケン太ももう10歳(人年齢70歳)を超えているのでおじいさんになったんだな、と思いました。
ボクは今でも早起きで朝5時ころには目が覚めます。齢をとってからのことは分からないけど、早起きは気持ちが良いのでずっと続けてゆこうと思います。


ケン太の家の庭で
(手前がボク、奥がケン太)
2006年7月30日(日)
カツ丼とフジキュー

“ところ変われば品変わる”といい、カツ丼も各地で様々なヴァリエーションがあるが、甲府でカツ丼を食べたいと思ったら注意が必要だ。この地の食堂でカツ丼を注文すると、トンカツと千切りキャベツがのったどんぶりご飯がでてくる。いってみればカツライスをどんぶりに押し込んだようなものだ。客が自分でソースをかけて食べるので、ソースカツ丼のセルフサービス版といえなくもないが、よそから来た人は出されたものを見て戸惑いを隠せない。それではこの店に私たちがイメージしている卵とじのカツ丼がないか、といえばこれがあるからややこしい。甲府では卵とじのカツ丼は煮カツ丼という。したがってカツ丼が食べたい場合は、煮カツ丼(カツ丼よりやや高い)を注文しなければならない。
甲府在勤中、このことを甲府育ちの同僚に話したが、彼は何を言われているのか理解できない。人間、本人にとって当たり前すぎることに異論を唱えられても反応する術を知らないのだろう。
山梨県は御坂山地で二分されていて、甲府盆地のある国中地方と富士急行線のある郡内地方とでは方言・習慣などがかなり違う。カツ丼についても、富士急沿線でカツ丼といえば卵とじのカツ丼のことなので、甲府のように注文違いといった誤解は生じない。ただし余談だが、当地は高冷地のためか、やや味が濃い店の多いのはお許し願いたい。
ところで(こじつけ気味ながら)似たような話がある。フジキューのことである。
富士急行の地元である当地でフジキューといえば富士急行株式会社自体、あるいは富士急グループ総体のことだが、当地以外の人がフジキューという場合、富士急ハイランドを指すことが多い。なぜそうなったのかは不明だが、言えることは、富士五湖地方へ来て「フジキューへの行きかたは?」と聞いても地元の人は何を教えてよいか分からない、ということだろう。

2006年7月25日(火)
ブランの日記 「朝のお散歩」

お父さんが自宅から通勤するようになったので、ボクは毎朝お父さんとお散歩をします。
今朝は湖畔へ行ってきました。湖畔には白鳥さんの親子がいます。この前(6月24日)見たときには随分小さかった赤ちゃんも大きくなって、お父さんとお母さんの後をついてゆっくりと泳いでいました。
帰りに広場まで来ると、子供たちが大勢集まってラジオ体操をしていました。体操が終わると全員が一番大きなお兄ちゃんの前へ並びました。「これはお菓子をもらえるに違いない。それならボクも並ぼう」と思って見ていたら、みんな首からさげた紙にハンコを押してもらっただけで帰りはじめました。
ボクはお菓子がもらえないのでちょっとがっかりしたけど、体操は楽しかったのでまた来ようと思います。


     白鳥の親子

     ラジオ体操
2006年7月17日(月)
東電OL殺人事件

1997年(平9)3月19日、井の頭線神泉駅に近い渋谷区円山町の安アパートの1室で女性の遺体が発見された。渋谷警察署の調べで、この女性は東京電力本社に勤務するエリート社員(39歳独身)であることが分かったが、同時に彼女は毎晩この町の一角に立ち、行きずりの男に声をかけるという信じがたい生活を送っていたことも判明した。
捜査の結果、すぐ近くに住むネパール人男性が容疑者として捕らえられた。
この事件を、主に冤罪の観点から追跡したのがジャーナリストの佐野眞一で、「東電OL殺人事件」(新潮文庫)の名で出版されている。
ところで、この女性の父親(故人)の実家が富士急沿線にある、ということで筆者がその墓を訪ねた場面が次のように紹介されている。
〈抜粋〉
「それは大月から富士吉田に向かう富士急行の電車のなかから、すでにはじまっていた。その電車は、彼女が杉並区永福町の家を出て毎日通勤に使っていた井の頭線と同じ京王電鉄の車両が使われていた」「富士の裾野を登山電車のようにゆるやかに登るその電車にゆられながら、私は殺害された彼女がハイヒールの底に感じたであろう円山町の高低差を感じていた」「父親の生家は以外に簡単にわかった。とある駅を降り、小さな疎水ぞいの細い道を行ったところに、その生家はあった」「父親の実家の墓は、家の脇の細い路地を少し行き、富士急行の踏切をまたいですぐのところにあった」

2006年7月15日(土)
O氏との対話

O氏「富士さんは何か趣味をもっていますか?」
富士「えー、まー、いろいろと。他人に話せるようなものじゃないですけど」
O氏「私は切手の収集が趣味だったんですよ」
富士「そうですか。最近ではあまり聞きませんけど、いい趣味ですね」
O氏「以前に比べれば愛好者は減ったようですが、いまでもなかなか根強い人気があるんですよ」
富士「それでは、かなりめずらしい切手を持っていらっしゃる?」
O氏「持っていた、んです。実は数年前自宅が火事にあいまして、そのときコレクションが全部燃えてしまったんです」
富士「ほー。それは残念なことをしましたね」
O氏「富士さん、そのとき私、どのような気持ちになったと思います?」
富士「それは随分がっかりされたんじゃないですか?お察しします」
O氏「それがそうでもないんです。“あー、これで記念切手の発売日を気にしなくてすむ”と・・・。がっかりもしたんですが、むしろ解放感の方が大きかったですな」
富士「なるほどねー。これは経験した人でなければ分からないことですね」
O氏「人は最初の思いとは別に、知らず知らずのうちに自分で自分を不自由にしているのかもしれませんね」

2006年6月24日(土)
ブランの日記 「白鳥の赤ちゃん」

お父さんと、お気に入りの散歩道を通って湖畔を歩いていたら、白鳥の赤ちゃんがお母さんと一緒にいるのを見つけました。とても可愛いのでそばに寄ろうとしたら、白鳥のお母さんにおこられてしまいました。まだ小さすぎてボクと遊ぶことはできないみたいです。ボクは赤ちゃんが早く大きくなって一緒に遊べればいいな、と思いました。

   
写真上=白鳥の赤ちゃんとお母さん
   写真下=お気に入りの散歩道

2006年6月18日(日)
もうすぐ開設1周年

【ブラン】所長、おはようございます。
【富士三六】おはよう。今日も元気そうだね。
【ブラン】「富士急行線研究所」ももうすぐ開設1周年になりますね。
【富士三六】そうか。早いもんだね。
【ブラン】ところで所長、そもそも当研究所をつくったきっかけは何ですか?ボクもわけの分からないうちに所長の秘書になっちゃいましたけど。
【富士三六】同じ職場に同年輩の人がいて、その人がホームページ
(アバノホームページ) をもっているというんで、私もやってみようと思ってね。
【ブラン】五十数歳の手習いというわけですね。
【富士三六】そんなこと言ったって、あの伊能忠敬だって50歳から日本地図を作り始めたんだぞ。
【ブラン】どうも、比べる相手が不釣合いなんだよなー。
【富士三六】ん?何か言ったか?
【ブラン】いいえ。ところでテーマを富士急行線にしたのはなぜですか?
【富士三六】ホームページを作るなら鉄道関係をと思ってね。なかでも身近な富士急行線を選んだということだ。
【ブラン】富士急行線もこの1年いろいろなことがありましたね。これからも「ニューなのはな」がやってきたり河口湖駅が新築オープンしたりと、話題が豊富ですね。
話は変わりますが、所長が5月から始めた「私の撮影ポイント」シリーズはフィルムを使って撮影するんですか?

【富士三六】うん。リバーサルでじっくり撮ってみようと思うんだ。1年かけて“富士急電車の四季”を一巡しようと思っている。
【ブラン】18か所で2枚ずつ撮って“富士急三十六景”なんていうのはどうです?
【富士三六】それはいいね。お前最近すごくセンスがよくなったな。
【ブラン】撮影にはボクも連れていってくださいね。
ところでアクセス数もようやく5000に近づいてきましたね。

【富士三六】アクセス数をふやすには有力なサイトにリンクしてもらうことも大事だけど、何といっても中身の充実だろうな。7月からは単身赴任が終わって富士吉田勤務になるんで、今までより余裕ができると思うけどな。
【ブラン】あれっ!お父さん帰ってくるの?
【富士三六】えっ!お前に話してなかったっけ?
【ブラン】ボク聞いてないよ。なんだ、もっと早く話してくれればよかったのに。
【富士三六】ごめん、ごめん。ついうっかりしてた。
【ブラン】そーかー。お父さん、帰ってくるんだ。

2006年6月4日(日)
映画「明日の記憶」

妻と「明日の記憶」を見た。自ら白血病を経験した渡辺謙が、アルツハイマー病の主人公を熱演して話題になった映画である。

〈あらすじ〉
広告会社の営業部長を務める佐伯は物忘れを繰り返すようになり、妻(樋口可南子)とともに病院を訪ね、アルツハイマー病と宣告される。この病気は脳が次第に萎縮するもので、現在の医学では進行をくい止めることができない。大型プロジェクトを受注し、その責任者としてはりきっている彼の落胆は計り知れない。
病気は徐々に進んでゆく。会議の日程を忘れ、町で道に迷うなど仕事への支障が目立つようになり会社をやめざるをえなくなる。退社した日の週末は娘の結婚式。ここでも挨拶原稿を洗面所へ置き忘れるなど、妻は心配の連続だ。
そして症状は〜多少の希望を見せながらも〜確実に悪化してゆく。

〈余談1〉映画館はそこそこの入場者数で、その多くが中年の夫婦連れ。この映画を見た奥様方の多くが「旦那さんを大切にしよう」という気持ちになることは間違いない。
〈余談2〉映画の終わり近くに富士急行線の三つ峠駅がでてくる。駅前の売店とともに雰囲気のある映像が展開する。富士急行線はしばしば映画やテレビに登場する。
〈余談3〉主人公は広告代理店の部長という設定だが、広告業界に生きる個性豊かな人々をテーマにした小説「シリウスの道」(藤原伊織著)は面白いことこのうえなし。

2006年5月21日(日)
ブランの日記 「白鳥さんと」

朝からよい天気なので、お父さんと湖畔へ散歩に行きました。湖畔には白鳥さんがたくさんいます。白鳥さんにエサをやっているサンジさんに行き会えれば、ボクもパンをもらえるんだけど今日はいませんでした。少しがっかりでした。お父さんは白鳥さんと富士山を写真に撮りました。それでボクも白鳥さんと一緒に写真を撮ってもらいました。
お父さんの話では今年、白鳥さんの子どもがたくさん生まれたそうです。この夏は親子の白鳥さんに会えると思うと今から楽しみです。

2006年5月12日(金)
遼太が来た

5月3日、大阪に住む次男夫婦が孫の遼太とやってきた。遼太は今年1月生まれの4か月。大阪でのお宮参り(初宮詣)以来1か月振りの再会だ。
妻は急に増えた家族にてんてこ舞いだが、気持ちが高ぶって忙しさが苦にならない。孫の可愛さが身体の動きまで軽くする。
それにしても乳児の発育は目覚しい。1か月の間に首がすわり、あやせば笑うようになった。おとなしく寝ているかと思えば、お腹がすいたとぐずりだす。大人は1日中振り回されて子育ての大変さを知らされる。
子供が育つためには多くの人の愛情が必要だ。親はわが子の将来を思い、祖父母は目の前の望みをかなえてやろうとする。子供はさまざまな形の愛情の中で、他人の痛みが分かる人間に育っていく。
大阪へ帰る日(7日)は、妻が三島まで送ることになった。車が角を曲がって見えなくなる。ブラン(愛犬)は別れを惜しんで大騒ぎをしている。
遼太が次にくるのは、おそらく夏。涼しい山中湖で元気に過ごさせてやりたい、と思う。

2006年4月21日(金)
納豆

小生、40歳ころまで納豆が食べられなかった。どうしても、あの臭いとネバネバになじめない。食わず嫌いである。
それが食べられるようになったのは、ブラジルから来た研修生のおかげである。彼は好奇心旺盛で、日本のことを何でも吸収しようとした。当然のこととして食べ物にも強い興味を示した。味噌汁、タクアン、梅干、塩辛といった類のものをことごとく「デリシャス」といってうまそうに食べた。さすがにこれはダメだろうと思い納豆を出してみる。最初は怪訝そうな顔をしていたが、ひと口食べてみてこれまた「デリシャス」という。
こういう光景を見れば、この国に生を受けた者として座視することはできない。そこで小生も生まれてはじめて納豆を口にしてみた。なるほど、これはうまい。こんなうまいものを40年間も知らなかったのが、もったいないような気がした。
それからというもの、わが家の食卓に納豆が顔を出す機会が増えた。思えば妻は、それまで遠慮がちに納豆を食べていたのかも知れない。
ところで、納豆と豆腐は名前が入れ替わったという説がある。そういわれれば“納豆”は豆が納まっていると書くので、今でいう“豆腐”のイメージだ。一方“豆腐”は豆が腐っていると書くので、これは紛れもなく“納豆”のことだろう。
ただそれだけのことであるが、字に書いてみると何やらややこしい結論になってしまった。

2006年4月9日(日)
世界遺産・姫路城

4月7日(金)、妻と姫路城を訪ねた。姫路城は白鷺城とも呼ばれ、1993年、法隆寺とともに世界文化遺産に登録された「天下の名城」だ。JR姫路駅から城までは1kmほど。幅広い歩道のある通りが真っ直ぐに伸びている。城の周囲は広い公園で、平日にもかかわらず大勢の人が桜の花を楽しんでいる。目につくのは老人の団体と外国人のグループ。この国では高齢化と国際化が同時に進行している。
「正面登閣口」で入場券を求める。料金は一人600円。ここから天守閣に向かうのだが、途中小さな門がいくつもあり、通路は折れ曲がっていてなかなか目的の場所へ行き着かない。人の流れに沿って進み、ようやく「入口」の表示が見えて中へ入る。天守閣は外観は5層であるが、中は地下1階地上6階になっている。階段は急で上に行くほど狭くなる。最上階にたどり着き、小さな窓から外を覗く。視界を遮るものは何もない。
姫路城は一度も戦に遭わなかった奇蹟の城だ。もともと“軍事的構造物”であったが故に平和の尊さを訴えている。ここを訪れた多く人が、「この城がいつまでも『不戦の城』として美しい姿でいてほしい」と願うに違いない。


    春爛漫の姫路城
2006年4月2日(日)
身延線・桜の駅

4月1日、妻とブランを連れ立って身延線の桜見物に出かけた。
スタートは十島駅。山梨県最南端の駅で、駅前の駐車場に沿って10本ほど立派な桜の木が並んでいる。駅前の商店でパンを買おうとしたが“ない”という。仕方なくビスケットを買ってブランのおやつにした。私たちは近くの食堂で簡単な昼食をすます。
身延線は富士川の東岸を走っている。富士川沿いの集落は主に西岸にあるため、こちら側の道路はすいていて快適だ。
次に寄ったのは甲斐大島駅。ここでの目当ては駅前にある1本の桜。駅のシンボルというに相応しい枝ぶりだ。花は8分咲きというところか。
進んで身延駅前を通過する。時間は午後2時。久遠寺のしだれ桜を見物して帰路につく観光客で賑わっている。この時期、静岡・身延間では臨時特急「しだれ桜号」も運転されている。
久遠寺までは交通規制もあり車で行くのは無理なので、そのまま北進して塩之沢駅に寄る。この駅は身延線の桜の駅としては最も有名で、この時期ライトアップもされる。線路と並行に桜の木が並んでいて撮影には好適。この日もカメラを手にした人が何人かいた。
帰りは下部温泉から国道300号線を通って本栖湖へ出る。この道は山に向かってつづら折れの急坂を上る山岳道路。せいぜい上ったところにトンネルがあり、そこを抜けると本栖湖と富士山が目の前に見える。富士五湖の標高の高さが実感できる道路である。


甲斐大島の駅前には1本の立派な桜の木がある

塩之沢駅は身延線随一の桜の名所
2006年3月24日(金)
ヤカン

ヤカンが古くなり、湯が沸いたことを知らせる笛が鳴らなくなった。妻はときたま他のことに気をとられ、つい湯を沸かしていることを忘れてしまう。これは危険だ。
そこで小生、気を利かせ、職場近くのホームセンターでヤカンを買って帰宅した。“笛吹きケトル”と表示があるので、これなら間違いない。そそぎ口に笛がついている。早速水を入れてガスコンロにかけてみる。ところが笛が鳴らない。さては水の量が少ないか、と思い水を足してみたが、かすかな音がするばかりである。
妻と私が出した結論は「ヤカンがおかしい」「不良品だ」ということだ。妻曰く、「だいたい値段が安すぎる。あなたはいつも安物買いのゼニ失い」だと。小生曰く、「これは外国製だから品質管理ができてないんじゃないか?そういえば、このホームセンターでは以前クギを買ったけど曲ってばかりで使い物にならなかった」と。いろいろ難癖をつけて自分の罪を軽減し、何とか責任をホームセンターの方へ押し付けようとする。ついには、ヤカンを「“お客様相談センター”へ送るか」というところまでいってしまった。
そうこうしているうちに、よく見るとフタから湯気がもれていることに気がついた。このヤカンは沸騰したときに湯があふれ出ないように、フタがパチンと閉まる仕組みになっている。そこでフタをしっかり閉めてみる。するとすぐにヒュ〜と笛が鳴り始めた。
いまどきの商品は細かいところにまで気が配られている。それとは知らず、すぐに「品物が悪い」と決めつける。まず自分の理解力を疑う前に品物を疑う。
どうも最近、そういう傾向が強くなった。
要は次第に頭が固くなり、新しいものについていけなくなってきている証左であろう。

2006年3月19日(日)
ボケたらあかん長生きしなはれ

ボケたらあかん長生きしなはれ にくまれ口に泣きごとに 人の陰口愚痴言わず
他人の事はほめなはれ 聞かれりゃ教えてあげてでも 知ってる事でも知らんふり
何時でもあほでいるこっちゃ

勝ったらいかん負けなはれ いづれお世話になる身なら 若いもんには花もたせ
一歩さがってゆずるのが 円満にゆくコツですわ 何時も感謝を忘れずに
どんなときでもへえおおきに

お金と欲を捨てなはれ なんぼゼニ・カネあってでも 死んだら持っていけまへん
あの人はええ人やった そない人から言われるよう 生きてるうちにバラまいて
山程徳を積みなはれ

と言うのはそれは表向き ほんまはゼニを離さずに 死ぬまでしっかり持ってなはれ
人にケチやと言われても お金があるから大事にし 皆べんちゃら言うてくれる
ないしょやけんどほんまだっせ

昔の事はみな忘れ 自慢話はしなはんな わしらの時代はもう過ぎた
なんぼ頑張り力んでも 体が言うことききまへん あんたは偉いわしゃあかん
そんな気持ちでおりなはれ

我が子に孫に世間さま どなたからでもしたわれる えヽ年寄りになりなはれ
ボケたらあかんそのために 頭のせんたく生きがいに 何か一つの趣味持って
せいぜい長生きしなはれや

                                         松下幸之助

2006年3月18日(土)
日本を創った12人

堺屋太一の「日本を創った12人」(PHP文庫)。聖徳太子から松下幸之助まで、“日本の社会・経済・文化の形成に大きな影響を与えた”とする12人を採りあげ評価している。12人の中には織田信長や徳川家康といった定番の人物は当然として、架空の人物である光源氏、アメリカ人のマッカーサーもいて人選の妙が面白い。
とりわけ珍しいのは石田梅岩。吉宗が改革を進めていた享保の時代に「石門心学」(せきもんしんがく)の始祖として“勤勉と倹約”を説いた。“勤勉に働き倹約して清貧に生きることが人生修行である”とする。俗学といわれながらも分かりやすい例え話で人気があり、その後弟子により各地に多くの塾ができて、庶民に限らず大名に至るまで幅広い層の支持をえた。もちろん、この教えが当時の社会の安定にとって都合のよいものであった、ということであろう。そして今日、“「石門心学」は「ちゃんとイズム」という形になって息づいている”というのが筆者の説である。
ところで、“心学”といえば思い出すのが落語の「天災」。乱暴者の八五郎が心学者の紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)に、“腹立たしいことがあっても天災だと思えば腹が立たない”と諭され心を入れ替える話であるが、落語の題材になるところが、いかにも心学の心学たる所以であろう。
〈登場する12人〉
  ・聖徳太子 ・光源氏 ・源頼朝 ・織田信長 ・石田光成 ・徳川家康
  ・石田梅岩 ・大久保利通 ・渋沢栄一 ・マッカーサー ・池田勇人 ・松下幸之助

2006年3月8日(水)
ブランの日記 「富士山一周」

3月のある日、お父さんの車で富士山を一周しました。
お天気がよくて暖かく、とても楽しい一日でした。
そのことを日記を書いているうちにだんだん長くなって、それに写真もたくさんあるのでここへは書ききれなくなりました。なので、別ページにまとめましたので見てください。 こちら からどうぞ。

2006年2月26日(日)
旧友との再会

2月25日、大学時代の友人二人と約30年ぶりに再会した。土曜日の午後5時、待ち合わせの新宿駅南口は大変な人混みだ。久しぶりの東京に気後れしてしまう。それでも携帯電話のおかげで二人はすぐに見つかった。両君ともに若いときの記憶とズレがない。
M君が知っている中華料理店へ入り片隅へ腰をおろす。西口の繁華街からわずかな距離にありながら静かな場所だ。ここなら落ち着いて話ができる。
これだけ長いブランクがあると、さぞかし懐かしくて感無量か、というとそうでもない。会ってしまえば学生時代そのままに、何の違和感もなく話がはずむ。
団塊の世代といわれる私たちは、激動の学生時代を過ごし、会社では仕事に集中し、いま卒業の時期を迎えようとしている。「職縁社会」に生きてきた私たちには、新たなコミュニティーが必要だ。
もともと話し好きな世代である。見る目の確かさには自信がある。いささか青臭い議論が続くが、最後は健康で過ごせたこと、家庭人としての責任が果たせたことなど、日常の満足に行き着く。それぞれ相応に齢を重ねてきたのだ。
ふと気がつくと時計は9時を回っている。当然のように“割り勘”で勘定をすませて表へ出る。この習慣も学生時代と変わらない。
新宿駅は相変わらずの雑踏だ。
22時発の特急「かいじ」が9番ホームに入ってきた。大月では富士急行線の最終電車が待っている。

2006年2月10日(金)
お好み焼きと地下鉄

先の土曜日、妻の帰宅が遅くなるので長男と外食をすることにした。行った先は、大阪らしいネーミングのお好み焼き屋。学生時代を京都で過ごした彼は、時折関西風のものを食べたくなるらしい。夕飯にはやや早めだったこともあり店内はすいていた。
注文の品はすぐにやってきた。それもそのはず、この店は材料だけ提供し、客が自分で焼くという東京流の方式だ。大阪のお好み焼き屋では店員が焼くのが当たり前。どうやら大阪流は店の名前だけらしい。
とはいえ、鉄板の上に材料を広げてみると案外ボリュームがある。具もたっぷりだ。焼きあがったころを見計らって扇形に切り目を入れ取り皿に乗せる。
そのとき、ふと向かいの長男を見ると、タテ、ヨコに切り目を入れている。聞いてみると「大阪ではコレが一般的」だという。
しばらく彼の手元を眺めていると抽象的なイメージが具体性を帯びてきた。
“大阪の地下鉄路線図”だ。
大阪環状線に囲まれた地下鉄網は、いま目の前にあるお好み焼きの姿そのものだ。
地下鉄建設計画に携わったすべての人々が、無意識のうちにお好み焼きの切り目に支配されていた。大阪人が最も好む食べ物が深層心理に強く影響して今の路線網ができあがった、と考えるのは穿ちすぎだろうか。
“大阪学”を体系化した帝塚山学院大学の大谷晃一先生の意見を伺いたいところである。
ところで、大阪のような路線網を都市計画の教科書では“ペーターゼン式”という。高速鉄道網のモデルのひとつである。蛇足ながら、東京の場合は、“ターナー式”に近いとみられている。

2006年1月23日(月)
初孫の誕生

1月16日、大阪に住む次男から「男の子が生まれた」との連絡が入る。母子ともに順調で、退院予定日は21日(土)とのこと。私たち夫婦は、それにあわせて大阪へ行くことにした。
20日(金)、三島から新幹線に乗る。新大阪へは次男が迎えに来ていて、彼の車でそのまま病院へ向かった。病院は次男夫婦の住まい近くにあり、小さいながらも一通りの診療科目が揃っている。
3階の産婦人科は、外来などの雰囲気とはまったく違って華やいでいる。最近模様替えをしたというこのフロアは、いかにも大阪らしい派手な内装で結婚式場のようだ。見ると厚いガラス越しに新生児が10人ほど、それぞれのベッドに寝かされている。私たちの孫はちょっと見にくい位置にいたが、看護士が気付いて見やすいように移動してくれた。
これまで次男からは写真付きのメールが何通も届いていて、イメージはできているつもりであったが、実際に会ってみると可愛さはひとしおだ。もちろん欲目もある。
次男は自分の妻について「子供を産んだら母親らしくなった」という。それはそうだろう。母親はすでに母親であり、父親はこれから父親になるのだ。
21日(土)には予定通り退院。いったん家に落ち着いてから、その日のうちに里帰りをする段取りである。彼女の実家は広島県の福山で、母親が付き添いのために来てくれた。
出発は新大阪18時35分発のレールスター。若い父親は子供のために個室を準備した。生まれてから5日目の旅立ち。福山へ向かう列車の赤い尾灯を見送り、私たち夫婦は“遼太”の前途に幸せを願わずにはいられなかった。

2006年1月14日(土)
今日一日を生きる  《T・T氏の手記》

正月の高校同窓新年会の席で泌尿器科医のSが、男性60歳になったら健康診断の際、PSA(前立腺特異抗原)の検査をするよう勧めた。前立腺癌の早期発見にはPSAの検査が有用で、検査は「簡単で少量の血液で可能」という。
自分は排尿困難・夜間頻尿等の自覚症状はなかったが、2月に通院先の総合病院泌尿器科でPSAを検査した。数値は9.8と高く要精密検査となる。
3月に、3日間の入院で前立腺針生検(組織を探り検査)を受けた。1週間後、医師から前立腺癌といわれる。1か月先にCTとRIの両検査を予約し、女性ホルモン薬の処方をうける。CTはコンピュータ断層撮影で肝臓・腎臓等内臓への、RIは放射性同位元素を注射して骨への癌の転移を調べるという。
66歳を目前にして癌といわれると、気丈な男でもいささか心が動揺し、家に帰るとあれやこれやの思いが錯綜する。苦しくなるか、痛くなるか、いよいよ死ぬのか、果ては家族に何を言い残すべきかと、急に気が弱くなり焦燥感に駆られる。
が一方で、おかげさまで65歳まで生かされてきたのだから、これ以上の寿命は望むまいとも思う。
でもすぐに「今までは他人(ひと)のことかと思うたが俺が死ぬとはこれはたまらぬ」の古歌の心境に引き戻される。
気持ちの整理に次の道歌をも思う。
「この秋は水か風か知らねども今日のつとめに田草とるなり」
また、良寛の「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」を引用した栗田氏はいう。「身にふりかかることはみな、いつでも素直に受けましょう」(栗田勇書・春秋社刊『わが心の良寛』)
考え抜いた末、先人の生き方にならい、ひたすら「今日一日の命」を生きると決める。病気になったことはいたしかたない。今日一日を明るく生きよう。
ようやくいくらか心の整理ができた。
先のCT・RI両検査の結果では、内臓・骨・リンバ腺に癌の転移がないと分かり、ほっとした。現段階での根本治療には前立腺全摘出手術があり、4時間の手術で3週間入院になるが、成功率は99.5%だと医師は説明してくれた。なれば手術も避けられまい。
友人からは「知人に前立腺癌を摘出した者がいるが、いまは元気だよ」と慰められもした。
一切は医師を信頼し、おまかせするほかない。
今や、朝起きたとき、歩くとき、車を運転するとき、そのたびごとに今日一日を生きるのだと自分に言い聞かせている。また、床に就いたら今日一日生かされたことを感謝し眠る。
                               (平成16年5月14日)

(甲府市在住のT・T氏の手記。氏はこの後手術を受けて、いま元気に商売に励んでいる)

2006年1月8日(日)
2006 初詣

1月8日、家族3人で三嶋大社へ出かけた。大晦日から3日間風邪でふせってしまったためやや遅い初詣となった。三嶋大社は旧官幣大社で伊豆国一ノ宮の格式である。正月もこの時期になれば参拝者も少ないのでは、と思っていたが境内はかなりの人出である。賽銭をあげてこの1年の健康を願い、交通安全のお守りを買う。
考えてみれば、この“初詣”という習慣は、普段宗教的行動の少ない日本人の多くが参加する特異な行事である。特に崇敬している神社や寺へ行くわけではない。
“みんながするからする”という発想は、いつも日本人の基本的行動パターンの中心にある。
お参りをし願い事はするが、決して神仏をあてしているわけではない。初詣は参拝者がそれぞれ、今年の決意や希望などを確認するための儀式なのかもしれない。
帰路、富士南麓にある「ヘルシーパーク裾野」へ寄った。ここは公営の日帰り温泉施設で、大浴場(内風呂・露天風呂・サウナ)のほかプール(歩行運動用)もある。また、食堂や休憩室も広く、ゆっくりとくつろぐことができる。露天風呂からは間近に富士の姿を眺めることができ、100%源泉使用の湯とともにこの施設のセールスポイントになっている。
入浴料は3時間まで500円。


正月三が日を過ぎても多くの参拝者で賑わう三嶋大社

富士南麓にある日帰り温泉施設「ヘルシーパーク裾野」
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所長室です。写真は、ボクが所長のお供で岳南鉄道の岳南江尾駅へ出張したときのものです。岳南鉄道は、所長が好きな鉄道のひとつです。
所長は不在のときが多いのですが、部屋のドアはいつでも開いています。自由に出入りして構いません。机の上にある所長の雑記帳は〜たまにしか書いてないのですが〜自由にお読みください。

所長室

2006年

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