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2007年12月29日(土)
「正負の法則」考察

今年おおいにオーラを発した美輪明宏の説くところが“正負の法則”である。著書「ああ正負の法則」(PARCO出版)によると、どうもこの法則は、二つの“基本法則”がより合わさってできあがっているらしい。
第一の基本法則は、物事の良し悪しは一面的に判断できない、ということである。“良い”(正)と見えることもすべての面で良いとは限らない。逆も真で、“悪い”(負)と思われることのなかにも、考え方によっては良い面もある。極論すれば、負の体験があるからこそ正の喜びが大きくなる、というのは負の持っている最大の効能である。
第二の基本法則は、人生では正のとき(良いとき)ばかりが続くことはありえない、ということである。豊臣秀吉にしても、マリー・アントワネットにしても、上りつめたあとはただ下るだけの人生であった。ほかにも、こうした例は枚挙にいとまがない。正と負は人それぞれ、それらが人生のどの局面で現れるにしろ、一生のうちに精算されるのだ。
さて、これらの基本原則を踏まえて、私たちはどのように生きたらよいのだろう。
恵まれているときには奢ることなく、その幸せを分かつような行動が求められるだろう。こうした行動が、来るべき負の量を軽減するのに役立つ。
一方、苦しいからといって過度に落ち込む必要はない。きちんと対処していれば、後からよいことがやってくる。
美輪明宏は、「この世のことは、みなバランスがとれるようにできている」と言いたいのだろう。

2007年12月8日(土)
ブランの日記 「紅富士」

ボクは毎朝、お父さんとお散歩に行きます。6時20分ころ家を出て、湖畔まで行って帰ってきます。
最近、晴れた日の朝は冷え込みが厳しいのですが、その分、富士山が紅色に染まって、とてもきれいに見えます。それでボクは、お父さんに写真を撮ってもらいました。
いま、紅富士になるのは6時40分ころですが、これから少しづつ遅くなって、お正月には7時ころになります。
お父さんの話によると、「紅富士の湯」では12月から3月までの休日に、朝6時から営業しているのだそうです。
ボクも、お風呂から紅富士を眺めたいんだけど、ちょっと無理みたいです。

2007年11月19日(月)
三人旅

11月18日(日)から1泊2日で、飛騨路を訪れた。かつて同じ職場で働いていた仲間たちとの三人旅である。
中央道で中津川まで行き、馬籠宿による。馬籠宿は妻籠宿とともに江戸時代の宿場町の風情がよく保存されており、多くの観光客で賑わっている。島崎藤村ゆかりの地だが、市町村合併で長野県から岐阜県になり、話題になったのも記憶に新しい。
当日の泊まりは下呂温泉。山峡の温泉であるが、“有馬・草津とともに日本三名泉”を自称している。確かに、源泉かけ流し100%の看板にうそはない。
久し振りに会ったからには、ゆっくりと話でも、とは思ってみても、寄る年波に目の方が許さない。午後10時前には三人揃って眠ってしまった。
翌日は、高山回り、安房峠経由で帰途についた。昨日の雨が山では雪で、道路が除雪されている。季節が遅れているとはいえ、厳しい冬はもうすぐだ。
冬の気配に追われるように、松本平へと下りたった。
    
写真=下呂駅近く、第六益田川橋梁を渡るキハ48形  【クリックで拡大】

2007年10月20日(土)
甲州街道

甲州街道は山梨県を東西に貫き、東京と諏訪を結んでいる。江戸時代のはじめ五街道のひとつとして整備されたが、建設目的が変わっている。
東海道は江戸と京都を結ぶ大動脈である。中山道は東海道のバイパス的役割を果たすとともに、北陸への起点になっている。日光街道は東照宮参詣の道であり、宇都宮までは奥州街道と共用。その奥州街道は東北地方への幹線だ。
さて、甲州街道はどうだろう。
1603年、徳川家康が征夷大将軍になり、全国を統一した。とはいえ、大阪の豊臣をはじめ、すべての大名が徳川に臣従しているわけではない。
家康は江戸が他国(藩)に攻め込まれたときのことを考え、逃げ込む場所として、四方を山に囲まれた要害の地である甲府盆地(天領)を考えた。
甲州街道は徳川逃亡のためにつくられた、ということになる。
それにしても、権力を握ると同時に最悪の事態に備える発想には驚かざるをえない。
こういう慎重さの積み重ねにより、徳川幕府は250年以上も続いたといえよう。

【おまけ】旧中山道(きゅうなかせんどう)を、“いちにちじゅうやまみち”と読んだアナウンサーがいるとか。中山道のイメージは確かにそのとおりだが・・・。

      
写真=甲州街道沿い 鳥沢の家並み

2007年10月8日(月)
西湖“いやしの里”根場

西湖“いやしの里”根場(ねんば)は、西湖北岸にある観光施設。茅葺の民家が20軒ほどあり、それぞれが陶芸や和紙づくり、小物づくりなどを体験することができるテーマ館になっている。また、園内に2店あるそば屋は、そば打ち選手権の成績で出店業者に選ばれるなど、名店としての評価が高い。
当地は昭和41年9月、台風による土石流で多数の犠牲者をだした。当時、筆者は高校3年生であったが、在校生のなかにも罹災者がいたため、その年の学園祭は中止になった。
被災した住民は湖の対岸に集団移住したが、それから40年の歳月を経て、かつての農村風景が復活した。



  ←パンフレット【クリックで拡大】


      
茅葺の屋根が並ぶ 

     西湖“いやしの里”根場

 
  入場料:大人 200円
    駐車料:普通 300円

2007年9月23日(日)
「ヴァンフォーレ甲府」正念場の試合で逆転勝利

サッカーJ1のヴァンフォーレ甲府は22日、ホームの小瀬競技場でサンフレッチェ広島と対戦し、2−1で逆転勝ちした。甲府は前半、先制を許したものの、後半に入るとセットプレーから同点に追いつき、終了間際に新外国人アルベルトがシュートを決めて勝ち越した。
この日、大宮が千葉に破れたため甲府は順位を一つ上げて、J2への降格対象となる17位から、J2との入れ替え戦に出場する16位となった。
リーグ戦の残りは8試合。強豪チームとの対戦が数多く残っていて、最後まで厳しい状況が続く。
“3年目のJ1”に向けて、健闘を祈る。

     
写真=22日の小瀬競技場での試合(18:30キックオフ)から  【いずれもクリックで拡大】

2007年9月17日(月)
六道地蔵

箱根宮ノ下から芦ノ湖へ向かう国道1号線沿いに、国の史跡・重要文化財に指定されている「元箱根石仏・石塔群」がある。石像仏は7群に別れているが、数百メートルの範囲内に点在しており、徒歩で容易に見て回ることができる。
なかでも圧巻は、六道地蔵といわれる磨崖仏である。背後の山からせり出した岩に彫られた巨大な座像で、鎌倉時代後期(1300年)の作とされる。
人は亡くなると、生前の業によって閻魔大王に裁かれ、六道のいずれかで生まれかわり、死にかわる。六道とは、天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のことをいう。もともと地蔵菩薩は閻魔大王の本地で、各道(世界)それぞれにいると考えるのが一般的だ。このため六体の地蔵が並んでいる「六地蔵」はよく見かけるが、この六道地蔵は一体で六道すべてを守っているのであろうか。そう思って見れば、この仏像は、その大きさといい座った姿といい、いかにも堂々としていて地蔵というイメージを超えている。
このほかの石仏・石塔は、国道を挟んで精進池側にある。なかでも「二十五菩薩」は、自然の岩に丁寧に彫られた数多くの石像に、思わず見入らずにはいられない。
この辺りは今でも、火山性の荒涼とした景色である。鎌倉時代の人々は、この地に賽の河原を連想し、数多くの石像仏を作ったのであろうか。

 
写真上=国道1号線を地下道で横断すれば、六道地蔵の堂が見える。
 写真中=巨大な六道地蔵は、お地蔵様のイメージを超えている。
 写真下=二十五菩薩は、自然の岩に丁寧に彫られている。

            【写真はクリックで拡大】

2007年9月1日(土)
大日影トンネル遊歩道

勝沼ぶどう郷駅近くの廃線トンネルを活用した「大日影(おおひかげ)トンネル遊歩道」(全長約1.4km)が完成し、8月29日から一般公開さている。トンネルは1897年(明30)に起工し、1903年(明36)に開通。1968年(昭43)には複線化により下り専用となったが、新トンネルの開通により、1997年(平9)に廃線となった。
内部は総レンガづくりで、明治後期の構造物の雰囲気が色濃く残っている。待避所には鉄道の歴史を説明する案内板もあり、興味深い。
通行時間は午前9時から午後3時まで。
この時期でも、なかはひんやりするほど涼しい。
   
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大日影トンネル遊歩道(右)入口 左2本は現役の新大日影トンネル

シンネル内部 レンガの壁には蒸気機関車のススがついている

駅前にはEF6418が静態保存されている 右はその説明看板
2007年8月26日(日)
ブランの日記 「マラソンおじさん」

毎日散歩をしていると、いろいろな人と知り合いになります。マラソンおじさんも、そのなかの一人です。マラソンおじさんは別荘を持っていて、年に何回も山中湖へきます。いつも元気に湖畔でマラソンをしているので、ボクは「マラソンおじさん」という名前をつけました。おじさんは以前、高校で歴史の先生をしていたとのことですが、何年か前に定年退職したそうです。
今朝、おじさんの別荘まで散歩をしました。ボクは、おとうさんとおじさんがお話をしている間、おとなしく待っていました。そうしていると、おじさんはボクのことをほめてくれます。だからボクは、おじさんが大好きです。              
            
 【写真はクリックで拡大】

  マラソンおじさんの
    別荘の前で
2007年8月18日(土)
思い違い

だれしも、自分ではごく当然と思っていたことが、実は違っていた、という経験をお持ちだろう。“思い違い”の困ることは、−その性格上− 本人に自覚がないことである。他人が忠告してくれればよいが、なかなかそうもいかないのが実情だ。
18日(土)、江戸東京博物館で開催されている「鉄道大博覧会」を見に行った。両国駅へ着いたのがちょうど12時。近くの食堂で昼食をとることにした。注文のソバが来るまでの間、何気なくレシートを見ていて気がついたが、この店の住所が「墨田区横綱」となっている。私の記憶では、ここは横綱ではなく「横網(よこあみ)」である。両国から国技館、相撲、横綱へとイメージがつながって、こういう思い違いにつながったのだろうが、なぜか納得できる間違いである。
さて博覧会は、というと、こちらは夏休み中の休日とあって大変な混雑であった。昭和30年代がテーマだが、見学者は若い人が多い。若い世代には、当時の世相が新鮮にうつるのだろうか。
それにしても、鉄道ブームである。鉄道に関心のある人が増えている。これはおそらく、思い違いではない。


   両国駅の住所は「横網」が正しい


←←1907年製の下工(くだこう)弁慶号
←若い女性の見学者も多い
   
(いずれも鉄道大博覧会にて)

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2007年7月14日(土)
「定刻発車」

「定刻発車」(新潮文庫)は、交通図書賞・フジタ未来経営賞を受賞した名著である。筆者は、経済・経営ライターの三戸祐子氏。鉄道本の枠を超えた高い視点と広い視野に、知的好奇心を刺激される一冊だ。
わが国の鉄道は、正確さで世界に類をみない。その秘密はどこにあるのだろうか。著者の関心は、そこから始まる。
本書の特徴の第一は、定時運行が実現した背景を、社会的・歴史的に説きおこしている点である。このため、日本人の行動習慣や時間感覚を江戸時代にまで遡って検討する。
特徴の第二は、膨大な資料に裏付けられた実証的分析であり、参考文献の多さには驚くばかりだ。本文には各章ごとに注釈がついており、あたかも論文のようなつくりである。
「定刻初車」を実現するためには、巨大な鉄道システムの各要素が正確に機能し、「安全・正確・迅速」という相反する目標を同時に達成しなければならない。
私たちが日常、当たり前として受け止めていることの重みを、改めて教えられた。

2007年6月30日(土)
デュランティ

名文家といわれるジャーナリストの話によると、よい文章を書くコツは「センテンスを短くすること」と「形容詞を使わないこと」だそうである。
いわれるとおり、センテンスが長くなり、「・・・が、」でつないだりしていると主語がどこかへ行ってしまって分かりにくい文章になる。短く切ったほうが分かりやすいことは確かだ。
また、「形容詞を使わない」とは感情表現に頼らないことを意味している。いくら「美しい」とか「悲しい」とか強調してみても、具体的内容が伴わなければ読者の心は動かせない。
6月30日(土)、裾野市民文化センターで千住真理子のヴァイオリンリサイタルがあり、妻と聴きに行った。クラシックの名曲からポピュラーまで、幅広い選曲で親しみやすい演奏会だ。
会場はずいぶん寒い。ヴァイオリン保護のため冷房をきかせて湿度を下げているからだという(当日は雨)。ヴァイオリンは、「300年の眠りから覚めた」といわれるストラディヴァリウスの「デュランティ」。もちろんその響きは素晴らしいのだが、残念ながら小生は、−−力量不足の悲しさゆえ−−どこがどう素晴らしいのか上手に表現する方法を知らない。
前出のジャーナリスト氏にいわれるまでもなく、まったく中身のない感想になってしまった。それでも、本人が満足したのだから理屈はどうでもよいではないか、と思ってみたりもするのだが・・・、もちろん半分以上負け惜しみである。
千住真理子の話から:「ヴァイオリンは人の耳が聴くことのできない音も出している。私たちは聴こえない音もからだで感じている」

2007年6月24日(日)
「死亡推定時刻」(小説)

「死亡推定時刻」(光文社文庫)は、河口湖畔の町を舞台に設定した長編小説である。圧倒的な迫力で、一気に最後まで読ませてしまう力をもった一冊だ。
この小説の特徴のひとつは、実在する施設や団体の名前をそのまま使っていることである。富士急電鉄(原文のまま)、富士急タクシー、ハイランド・リゾート、富士吉田署、東京高等裁判所、といった類である。この効果もあって読者は、読み進めるうちに、本書がノンフィクション作品であるかのような錯覚に陥る。もっとも、作者自身「あとがき」で、筋書きは架空のものだが細部のほとんどは実際のものである、と述べている。
物語は、一代で財をなした河口湖町(※)の土建会社社長の娘が誘拐され、殺害されるところから始まる。数日後、近くの勝山村(※)に住む無職の青年が捕らえられ、犯人にされてゆく。冒頭から冤罪であることを明らかにしたうえで話が展開する。
本書のなかの言葉を借りれば、冤罪事件とは「あざなえる縄」(あざなうとは縄をなうこと)のようなものだという。一人や二人の悪意で起きるものではなく、何十人もの人間がしたこと、悪意ばかりでなく、ときには善意や義務感などまでが、縄をなう藁のように縒(よ)り合わさってできあがる。したがって、できあがってしまった縄を元にもどすのは容易なことではない。
小説「死亡推定時刻」は、その構造を見事なまでに明らかにしている。
作者の朔立木(さくたつき)は、現役の法律家(弁護士らしい)ということだが正体不明。山梨県を舞台にしたことについては、土地勘があるという理由にすぎない、としている。
  (※)河口湖町と勝山村は、現在合併して富士河口湖町になっている。

2007年6月12日(火)
天神社

岳南鉄道吉原本町駅前の吉原商店街の一角に天満宮がある。天満宮は天神社ともいい、死して天神(雷神)となった菅原道真をまつっている。道真は学問の神様として名高いが、もともと、神田明神にまつられている平将門同様の「祟り神」であった。
大宰府に左遷された道真が亡くなってからというもの、道真追い落としをはかった者たちの周囲では不幸が続き、あまつさえ御所清凉殿に雷が落ちて多数の死者をだした。
こうした事態を道真の祟りとして恐れた為政者が天満宮を造営し、道真を神にまつりあげた、ということらしい。
道真が怨霊となって災厄をもたらした、とは信じがたい。「祟り神」が登場する背景は、所業をなした者が「祟られても仕方がない」と認めたことにほかならない。「祟り神」は自責の念にさいなまれた勝者が思い悩んだすえ、その幻影から逃れるために自ら創造したものとはいえないだろうか。
6月の第2土曜日と日曜日の2日間、吉原では5社による祇園祭が行われ、今年も商店街は20万人の人出でにぎわった。
もちろん、この5社のなかに天神社もはいっている。

    
 (祭りの2日間、岳南鉄道は臨時列車を運転した)


     吉原の天神社

          祇園祭の神輿
2007年5月24日(木)
みたらし団子

私が勤める事務所の隣に和菓子屋がある。古くからの店で、数十年来構えは変わらないものの味のよさに定評があり、地元ではひいきにしている人も少なくない。
その店のおばあさんが“みたらし団子”をもって訪ねてきた。聞けば「うちの客がお宅の駐車場を借りるから」 そのお礼だ、とのことである。
事務所の駐車場はそこそこ広く、車を1台や2台とめたところで差し支えはない。気にしないように言ったが、「隣の駐車場のおかげで商売ができる」という気持ちに変わりはない。おばあさんは、団子をおいて帰っていった。
こうした心配りに、近頃なかなか行き会わない。思えばひと昔前まで当たり前だったこと、いかにも日本的と思われる付き合いや振る舞いが、日々消えてゆく。
事務所付近の商店街は建物が老朽し、いまでは“昭和レトロの町”と呼ばれて、映画のロケなどにも使われる。
ところが今日あらためて、この町は、外観だけが“昭和”でなかったことに気付かされた。“昭和レトロの町”には、“昭和庶民の心”というべきものが息づいている。
いただいた“みたらし団子”の歯ごたえと砂糖醤油のタレも、どこか懐かしい昭和の味を伝えていた。

2007年5月10日(木)
郡内の小山田

NHKの大河ドラマ「風林火山」を見ていると、武田信玄が小山田信有を「郡内の小山田」と呼んでいるのに気がつく。他の家臣を単に「板垣」、「甘利」などと呼んでいるのとは明らかにニュアンスが違っている。
山梨県(甲斐国)は甲府盆地を中心とする「国中地方」と、富士山麓から桂川(相模川)沿いにかけての「郡内地方」とに大別され、現在でもこれらの呼称が日常的に使われている。
国中と郡内は、三つ峠山・御坂山などが連なる御坂山塊と大菩薩嶺で二分され、同じ県でありながら、それぞれ異なった風土や文化をもっている。
国中地方は広々とした平坦な土地に恵まれ、周囲を山に囲まれた盆地特有の気候により、ブドウやモモなどの果樹栽培が盛んである。
一方、郡内地方は、高冷地であったり(富士山麓)急峻であったり(桂川流域)と、気候条件・地勢ともに厳しく、農業だけに頼れない土地柄で、古くから織物業が栄えた。近隣との関係では、山麓地域は静岡と交流があり、大月・上野原などは東京多摩地方との行き来が活発で、「たまなし」と呼ばれることもある。
信玄の当時から、国中からは郡内がやや異質の地に感じたのであろう。それが信玄をしてわざわざ「郡内の小山田」と言わせたのかもしれない。
もっとも小山田は武田の家臣ではなく、同盟者であった、との説もあり、そうであったとすれば、「郡内の小山田」という呼び方は、「郡内を治めている小山田」の意と解せなくもない。
信玄亡き後、武田の家督を継いだ勝頼は「長篠の合戦」(1575年)に破れ、その7年後に織田・徳川軍に追われて郡内(大月方面)へ逃れようとしたが、小山田家次代の信茂により笹子峠で行く手をはばまれ、天目山で果てることになった(1582年)。
その小山田自身も、間もなく織田に討たれている。
小山田はそれまで武田の下で数々の武功をたて活躍してきたが、最後のところへきて読みを誤り、残念な結果を導いてしまった。


     国中側(勝沼)から見た笹子峠

   郡内側(河口湖)から見た御坂の山々
2007年4月20日(金)
魚の小骨

その日の夕食にカマスの塩焼きがでた。妻に言わせると、カマスは高級魚の部類にはいり、栄養価も高いということだ。早速食べてみると、白身で淡白な味が悪くない。
ところがどうしたことか、小骨が喉に刺さってしまった。何とかしようと思い、ご飯を飲み込んでみたが効果がない。お茶を飲もうが、バナナを食べようが変わりがない。仕方なく妻に白状して処置を頼んだが、返ってきた言葉は「よくかまないからだ」という、答えにもならない答えだ。いずれにしても、食後に喉を刺激してさらに悲惨な結果になってもいけない、ということで、明日の朝のぞいてみよう、ということになった。
からだというものは、ちょっとした異変でも気になるものだ。喉に違和感を覚えながら色々なことに思いがめぐる。
そういえば1か月ほど前、入学試験でハシの使い方を検査科目にいれた女子高がある、との新聞記事を見た。今回の反省からすれば、ハシの使い方の巧拙判定をするなら魚を食べさせるに限るのではないか、などと脈絡のないことを考えたりする。
それにしても、最近になって“年寄り的行動”が目についてきた。自分で開けたドアに額をぶつけたこともあるし、靴が完全に脱げないうちに玄関へ上がろうとしてつまずいたこともある。ましてや今度は魚の小骨だ。心配する前に叱られるのも仕方がない、と自覚する。
床に就いてからは、このまま小骨が抜けなかったらどうしよう、と妙に悲観的になったりしたのだが、さて翌朝、目がさめてみたら喉にまったく痛みがない。どうやら眠っている間に小骨はとれてしまったらしい。うれしさのあまり妻にそのことを言おうとしたが、昨夜のことは話題にもならない。どうやら妻は、小骨の件はすっかり忘れてしまったらしい。
そこで教訓・・・。当事者と当事者でない者の間には、物事の捉え方や感じ方に相当の開きがある、と心得るべきだ。当事者は当事者でない者の認識に寛容であらねばならず、当事者でない者は当事者を理解できるだけの想像力を養わねばならない。
何とも大げさな結論に行き着いた。

2007年4月4日(水)
ブランの日記  「風邪にご用心」

今朝、目がさめたら雪が5cmくらい積もっていました。2、3日前は夏のように暑かったのに、この時期は気温の変化が激しく、本当に油断ができません。お母さんは風邪をひいたらしく、コンコン咳をしています。
お母さんは、自分のからだのことはあまり心配しないのに、ボクが体調をくずすとあわてて病院へ連れて行きます。お医者さんはやさしいけれど、すぐに注射をするので苦手です。ボクはからだが大きいので、病気によっては2本注射されることもあります。
それに−これはボクがかなり気にしていることですが−病院へ行くと診察代がかかるので、お母さんに余計な負担をかけることになります。
だからボクは、栄養と睡眠をたっぷりとって、風邪をひかないように気をつけています。
   
【写真はクリックで大きくなります】


雪景色の
サイクリングロード

いつも通る散歩道
2007年3月24日(土)
七軒町

河口湖の駅前を通ったとき、つい最近まで「スバルライン入口」となっていた交差点の名称が「七軒町」に変わっているのに気がついた。みると、ローマ字表記が“ひちけんちょう”になっている。「七軒町」は正式な地名にはないため、地元でこの地区一帯をそう呼んでいるのであろう。
“し”と“ひ”を混同するのは「江戸ことば」の代表といわれている。下町育ちの江戸っ子は、質屋を“ひちや”といい、執筆を“ひっぴつ”などという。かといって“し”という発音が苦手というわけではなさそうだ。逆に、人を“しと”といい、飛行機を“しこうき”などといったりするからだ。
おそらく、こういう言い方自体が江戸っ子らしさの表現なのであろう。
方言(というのが適切かどうかはともかく)は、思わぬところへ飛地していておもしろい。

2007年3月5日(月)
伊豆の国

テレビの旅番組に誘われて、妻と伊豆長岡への温泉旅行としゃれてみた。
宿に着くまで時間に余裕があったので、遠回りをして修善寺経由で行くことにした。高速道路をおりて修善寺の町を走っていると、「伊豆市」という文字がやけに目につく。そういえば平成の大合併で、修善寺町は伊豆市になったのだ、と気がつく。
修善寺を通り過ぎて伊豆長岡が近づいてくると、今度目につくのは「伊豆の国市」という看板だ。なるほど、伊豆長岡町は伊豆の国市になったのか、と納得する。それにしても「伊豆市」と「伊豆の国市」が隣接しているのは、いかにも紛らわしい。
そういえば、山梨県でも今回の合併劇で、−隣接してはいないものの− 「甲斐市」と「甲州市」が誕生した。
宿での夕食後、「似たようなことがあるものだ」と思いながら横になっていたら、心地よい湯疲れで寝入ってしまった。
町が市に変わっても、伊豆長岡温泉のよさに変わりはない。

2007年2月24日(土)
ブランの日記  「すべり台」

お父さんがお休みなので、ふたりで公園に行きました。公園にはすべり台があります。いつかボクもやってみようと思っていたのでお父さんを誘ってみると、「一緒にすべろう」という返事です。ここのすべり台はローラー式なので、とても気持ちがいいにちがいありません。
ボクはうれしくなって階段へ足をかけたけど、丸太でつくってあるのですべってうまくのぼれません。それでは別の階段を、と思ってのぼろうとしたら今度は急すぎて、やっぱりうまくゆきません。かなり頑張ってみたけど、結局階段をのぼることができなくて、すべり台に乗ることができませんでした。
せっかくすべり台に乗ろうと思ったのに、階段のおかげで乗ることができなくて、本当に残念でした。

  
 (写真はクリックで大きくなります)

  丸太の階段     急な階段

乗れないで残念だったすべり台
2007年2月10日(土)
「六曜」とは大安や仏滅のこと

出勤前に民放のテレビを見ていると、多くの局で「星座占い」をやっている。どうせあてにはならない、と思いつつもなぜか気になって、つい目がいってしまう。若い人たちは、こうしたたぐいの占いが結構好きで、話のタネにしては盛り上がっている。
占いとはやや趣を異にするが、老若男女を問わず日本人に根強く支持されているのが「六曜」だ。大安とか仏滅というもので、それぞれの日に意味があり、-その意味にも諸説あるが- 大安は良い日、仏滅は悪い日、というのが常識になっている。
それでは、この六曜はどのようにして決められるのだろうか。暦を見ると、必ずしも6日ごとのサイクルになっていないところが不思議なのだが、結論をいうと旧暦の月と日を足した数字を6で割った余りの数が基準になっている。すなわち余りがなければ(6で割り切れれば)「大安」、余りが1なら「赤口」、以下同様に「先勝」(余り2)、「友引」(余り3)、「先負」(余り4)と進んで余りが5なら「仏滅」ということになる。必ずしも順番通りになっていないのは、月が変わって余りの数が連続しないことにその理由があるのはお気づきであろう。
この結果、例えば中秋の名月(十五夜)は旧暦の8月15日なので、毎年必ず仏滅になる。
式にすれば   (8+15)÷6=3・・・5   余り5=仏滅  ということになる。
こうみてくると興ざめのような気もするが、いつも忌み嫌われている仏滅にも、こんな優雅な一日があってもよいのではないか、と思えなくもない。

2007年2月のこよみ抜粋
曜日
新暦2.112.122.132.142.152.162.172.182.192.20
旧暦12.2412.2512.2612.2712.2812.2912.301.11.21.3
六曜大安赤口先勝友引先負仏滅大安先勝友引先負
2007年1月23日(火)
薬指

大阪の次男から、孫の歩く様子が動画のメールで送られてくる。ようやく1歳になったばかりで、まだ足もとがおぼつかない。それでも歩きながら、何かを見つけてはしきりに指を差す。「指差し行動」は子どもの知能が発達してゆくひとつの過程であるという。
よく見ると、−当たり前のようであるが− 自然に人差し指をたてている。なるほど、「人差し指」とはよく名づけたものだと感心してしまう。
ところで、ほかの指にもそれぞれ命名に至った理由がある。
親指と小指はその外観から名づけられたものだろう。中指は文字通り真ん中の指なので、これも納得がゆく。人差し指は前述の通り、その働きから名づけられた。それではさて、薬指はなぜこういう名前になったのか。
関西地方では、年配者のなかに薬指を「紅差し指」という人がいる。そういえば女性が口紅を整えるときには、無意識に薬指をつかうことが多いようだ。さかのぼってその昔、医者が軟膏などを塗るときにも薬指をつかったと聞く。
薬指は、ふだんあまり出番のない指だけに「無名指」という異名もあるが、こうしたつかわれ方をすることで存在感を示してきたのだろう。

2007年1月12日(金)
はしは右手で

私たちが子どもの頃、はしは右手に持つのが当たり前だった。左利きの子は親のしつけで、不自由を感じながらも右手ではしを使ったものだ。
考えてみればこんな理不尽なことはないのだが、実際世の中はすべからく、といっていいほど右利き用にできている。主婦が使う包丁やはさみはその最たるものだ。身近な電気製品でもスイッチは右側についているし、自動車だって右足だけで操作するようにできている。さらに楽器のたぐいに至っては左利きはまったく考慮されていないかのようだ。左利き用の道具が一般的に使われているのは野球ぐらいのものだろう。
そもそもこのように右利き優位(というよりは絶対)の世の中になったのは、文字が右利き用にできてしまったためだろう。日本の文字は、右手を使わないとうまく書けないようにできている。
左利きの人は右利き用の世界に合わせていくしか方法がない。だから昔の親は、わが子が生きていくうえで不便がないよう左利きの子にもはしを右手に持たせ、右手が上手に使えるように訓練した。「はしを右手にもつ」は、わが国のしつけの基本であった。
ところが最近では、左手にはしを持つ人も結構目立つようになってきた。以前のような考え方が希薄になってきたのだろうか。たしかにはしは、右も左もないシンプルな道具である。食事のときくらいは利き手を自由に使いたい、というのは人情であろう。
普段何かと不便を強いられている左利きの人たちの、そういう気持ちに共感できないこともない。
まこと、しつけとは、単純に善悪を断じえないものである。

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所長室です。写真は、ボクが所長のお供で岳南鉄道の岳南江尾駅へ出張したときのものです。岳南鉄道は、所長が好きな鉄道のひとつです。
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2007年

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