このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

旅のあれこれ文 学


村上霽月ゆかりの地

 明治2年(1869年)8月9日、村上霽月は愛媛県伊予郡西垣生(現・松山市西垣生町)に生まれる。名は半太郎。

 明治28年(1895年)10月7日、 正岡子規 は人力車で霽月邸を訪ねる。

村上霽月邸跡


霽月の村居 に至る。宮に隣り松林を負ひて倉戸前いかめしき住居也

粟の穂に鷄飼ふや一構


 明治28年(1895年)11月、上京中に根岸の 子規庵 を訪ねる。

 明治29年(1896年)1月3日、 高浜虚子 は子規庵の初句会で村上霽月を知る。この日、 夏目漱石森鴎外 も出席。

 明治29年(1896年)3月1日、 漱石虚子 が霽月を訪ねる。

 明治29年(1896年)4月、高浜虚子は夏目漱石の第五高等校赴任を送り、宮島に遊び紅葉谷公園に泊まる。漱石は霽月に贈る句を虚子に托している。

   松山より熊本に行く時
    虚子 に托して霽月 に贈る〔一句〕

逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし

 明治32年(1899年)、村上霽月は3週間の九州旅行をする。10月31日、霽月は漱石宅を訪れた。

見るからに君痩せたりな露時雨

白菊に酌むべき酒も候はず

村上霽月「九州めぐり句稿」より

 昭和4年(1929年)、今出主婦会が 鍵谷カナ頌功堂 に霽月の句碑を建立。



朝鵙ニ夕鵙ニかすり織りすゝむ

 昭和16年(1941年)、伊予市の 鎌倉神社 に夏目漱石の句碑を建立。村上霽月書。



木枯らしや冠者の墓撲つ松落葉
蒲殿の以与以与悲し可連尾花
 (かばどののいよいよかなしかれおばな)

晩年は「今出吟社」を結成。その中には若き日の 石田波郷 もいた。

昭和21年(1946年)2月5日、78歳で逝去。

   霽月逝く

白髯を遺して君や春寒し

『草雲雀』 (「鶏頭」より)

長楽寺 に村上家の墓がある。

昭和23年(1948年)2月、 霽月の句碑 を建立。霽月自筆。



初暦好日三百六十五

昭和39年(1964年)4月、霽月の句碑を建立。霽月自筆。



酔眼耳天地麗ら麗ら可奈

平成8年(1996年)11月、垣生中学校創立50周年記念に 霽月の句碑 を建立。



第一峰に立てハ炎天なかりけり

松山市の 「閑林園」 に霽月の句碑がある。



天地正大之気巍々千秋に聳えけり
(てんちせいだいのきぎぎせんしゅうにそびえけり)

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