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長塚節ゆかりの地


長塚節の歌

   竹の里人をおとなひて席上に詠みける歌

歌人の竹の里人おとなへばやまひの牀に繪をかきてあり

荒庭に敷きたる板のかたはらに古鉢ならび赤き花咲く

明治35年(1902年)

   千葉の野を過ぐ

千葉の野を越えてしくれば蜀黍の高穗の上に海あらはれぬ

もろこしの穗の上に見ゆる千葉の海こぎ出し船はあさりすらしも

百枝垂る千葉の海に網おろし鰺かも捕らし船さはにうく

九月十九日、 正岡先生 の訃いたる、この日栗ひらひなどしてありければ

年のはに栗はひりひてさゝげむと思ひし心すべもすべなさ

さゝぐべき栗のこゝだも掻きあつめ吾はせしかど人ぞいまさぬ

なにせむに今はひりはむ秋風に枝のみか栗ひたに落つれど

   二十日、 根岸庵 にいたる

うつそみにありける時にとりきけむ菅の小蓑は久しくありけり

   二十三日、 おくつき に詣でゝ

かくの如樒の枝は手向くべくなりにし君は悲しきろかも

笥にもりてたむくる水はなき人のうまらにきこす水にかもあらむ

   廿五日、初七日にあたりふたゝびおくつきにまうでぬ、寺のうら
   手より蜀黍のしげきがなかをかへるとて

吾心はたも悲しもともずりの黍の秋風やむ時なしに

秋風のいゆりなびかす蜀黍の止まず悲しも思ひしもへば

もろこしの穗ぬれ吹き越す秋風の淋しき野邊にまたかへり見む

秋風のわたる黍野を衣手のかへりし來れば淋しくもあるか

明治36年(1903年)

   八月一日、嵐山に遊ぶ、 大悲閣 途上

さやさやに水行くなべに山坂の竹の落葉を踏めば涼しも

   八月四日、 法隆寺 を見に行く、田のほとりに、あらたに梨をうゑ
   たるを見てよめる

あまたゝび來むと我はもふ斑鳩いかるがの苗なる梨のなりもならずも

   十日、よべ一夜は船にねて、ひる近きに勝浦といふところへつ
   く、船のなかより 那智の瀧 をみる、かくばかりなる瀧の海よりみ
   ゆる、よそにはたぐひもなかるべし

三輪崎の輪崎をすぎてたちむかふ那智の檜山の瀧の白木綿

   那智の山をわけて瀧の上にいたりみるに谷ふかくして、はろか    に熊野の海をのぞむ

丹敷戸畔丹敷の浦はいさなとる船も泛ばず浪のよる見ゆ

谷ふかみもろ木はあれど杉がうれを眞下に見れば畏きろかも

   やどりの庭よりは谷を隔てゝまのあたりに瀧のみゆるに、月の
   冴えたる夜なりければふくるまでいも寢ずてよみける

眞熊野の熊野の浦ゆてる月のひかり滿ち渡る那智の瀧山

みれど飽かぬ那智の瀧山ゆきめぐり月夜にみたり惜しけくもあらず

眞熊野や那智の垂水の白木綿のいや白木綿と月照り渡る

ひとみなの見まくの欲れる那智山の瀧見るがへに月にあへるかも

このみゆる那智の山邊にいほるとも月の照る夜はつねにあらめやも

   熊野より船にて志摩へかへると、夜はふねに寢てあけがたに
   鳥羽の港につきてそこより伊勢の海を三河の 伊良胡が崎 にい
   たる

三河の伊良胡が崎はあまが住む庭のまなごに松の葉ぞ散る

   十六日、つとめて伊良胡が崎をめぐりてよめる

いせの海をふきこす秋の初風は伊良胡が崎の松の樹を吹く

しほさゐの伊良胡が崎の萱(わすれ)草なみのしぶきにぬれつゝぞさく

まつがさ集(三)

那珂川に網曳く人の目も離れず鮭を待つごと君待つ我は

明治38年(1905年)

明治三十年七月、予上毛 草津の温泉 に浴しき、地は四面めぐらすに重疊たる山嶽を以てし、風物の一も眼を慰むるに足るものあることなし。滞留洵に十一週日時に或は野花を探りて僅に無聊を銷するに過ぎず、その間一日淺間の山嶺に雲の峰の上騰するを見て始めて天地の壯大なるを感じたりき。いま乃ちこれを取りて短歌七首を作る。(十月五日作)

芒野ゆふりさけ見れば淺間嶺に没日(いりひ)に燒けて雲たち出でぬ

とことはに燃ゆる火の山淺間山天の遙に立てる雲かも

楯なはる山の眞洞におもはぬに雲の八つ峰をけふ見つるかも

まなかひの狹國(さきくに)なれど怪しくも遙けきかもよ雲の八つ峰は

淺間嶺にたち騰る雲は天地に輝る日の宮の天の眞柱

淺間嶺は雲のたちしかば常の日は天に見しかど低山に見ゆ

眞柱と聳えし雲は燃ゆる火の蓋しか消ちし行方知らずも

    臺が原 に入る

白妙にかはらはゝこのさきつゞく釜無川に日は暮れむとす

   四日、臺が原驛外

小雀(こがらめ)の榎の木に騷ぐ朝まだき木綿波雲に見ゆる山の秀(ほ)

   信州に入る

釜なしの蔦木の橋をさわたれば蓬がおどろ雨こぼれきぬ

   木曾川の沿岸をゆく

鱗なす秋の白雲棚引きて犬山の城松の上に見ゆ

   各務が原

淺茅生の各務が原は群れて刈る秣千草眞熊手に掻く

    養老の瀧

白栲(しろたへ)の瀧浴衣掛けて干す樹々の櫻は紅葉散るかも

瀧の邊の槭(もみぢ)の青葉ぬれ青葉しぶきをいたみ散りにけるかも

   二十日、雨、 法然院

ひやゝけく庭にもりたる白沙の松の落葉に秋雨ぞ降る

竹村は草も茗荷も黄葉してあかるき雨に鵯ぞ鳴くなる

   白河村

女郎花つかねて浸てし白河の水さびしらに降る秋の雨

   一乘寺村

秋雨のしくしくそゝぐ竹垣にほうけて白きたらの木の花
    詩仙堂

落葉せるさくらがもとにい添ひたつ木槿の花の白き秋雨

唐鶸(からひは)の雨をさびしみ鳴く庭に十もとに足らぬ黍垂れにけり

   廿五日、攝州 須磨寺

須磨寺の松の木の葉の散る庭に飼ふ鹿悲し聲ひそみ鳴く

   須磨敦盛塚

松蔭の草の茂みに群れさきて埃に浴みしおしろいの花

   明石 人丸社

淡路のや松尾が崎に白帆捲く船明かに松の上に見ゆ

   大原

粽巻く笹のひろ葉を大原のふりにし郷は秋の日に干す

   寂光院途上

鴨跖草の花のみだれに押しつけてあまたも干せる山の眞柴か

   寂光院

あさあさの佛のために伐りにけむ柴苑は淋し花なしにして

   堅田 浮御堂

小波のさやさや來よる葦村の花にもつかぬ夕蜻蛉かも

   廿九日、朝再び浮御堂に上る、此あたりの家々皆叺を
   つくるとて筵おり繩を綯ふ

長繩の薦ゆふ藁の藁砧とゞと聞え來これの葦邊に
   導かれて近傍の名所を探る、 野々宮

冷かに竹藪めぐる樫の木の木の間に青き秋の空かも

   天主閣にのぼる

名を知らぬ末枯草の穗に茂き甍のうへに秋の虫鳴く

   夕、 彦根 を去らむとして湖水をのぞむ

比良の山ながらふ雲に落つる日の夕かゞやきに葦の花白し

明治39年(1906年)

   七日平の町より平潟の港へかへる途上磐城関田の浜を過ぎて

汐干潟磯のいくりに釣る人は波打ち來くれば足揚(あげ)て避けつつ

    平潟港 即時

松魚船入江につどひ檣(ほばしら)に網建て干せり帆を張るが如し

『青草集』

明治41年(1908年)

   初秋の歌

小夜深にさきて散るとふ稗草のひそやかにして秋さりぬらむ

馬追虫(うまおひ)の髭のそよろに來る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし

芋の葉にこぼるゝ玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつゝあらむ

   濃霧の歌

      明治四十一年九月十一日上州松井田の宿より村閭の間を求
      めて榛名山を越ゆ、湖畔を傳ひて所謂榛原の平を過ぐるに
      たまたま濃霧の來り襲ふに逢ひければ乃ち此の歌を作る

群山の尾ぬれに秀でし相馬嶺ゆいづ湧き出でし天つ霧かも

ゆゝしくも見ゆる霧かも倒に相馬が嶽ゆ搖りおろし來ぬ

明治45年(1912年)

喉頭結核といふ恐しき病ひにかゝりしに知らでありければ心にも止めざりしを打ち捨ておかば餘命は僅かに一年を保つに過ぎざるべしといへばさすがに心はいたくうち騷がれて

生きも死にも天のまにまにと平らけく思ひたりしは常の時なりき

我が命惜しと悲しといはまくを恥ぢて思ひしは皆昔なり

大正3年(1914年)

   鍼の如く 五

      一

   八月十四日、退院

朝顔は蔓もて偃へれおもはぬに榊の枝に赤き花一つ

   十八日、日向の小林より乘合馬車に身をすぼ
   めて、まだ夜のほどに宮崎へこゝろざす

草深き垣根にけぶる烏瓜たまづさにいさゝか眠き夜は明けにけり

霧島は馬の蹄にたてゝゆく埃のなかに遠ぞきにけり

   二十七日、宮崎にのがる、明くれば大淀川のほとりをさまよふ

朝まだき涼しくわたる橋の上に霧島低く沈みたり見ゆ

   三十一日、内海の港より船に乘りて吹毛井といふところにつ
   く、次の日は朝の程に 鵜戸の窟 にまうでゝ其の日ひと日は樓
   上にいねてやすらふ

手枕に疊のあとのこちたきに幾時われは眠りたるらむ

   懶き身をおこしてやがて呆然として遠く目を放つ

うるはしき鵜戸うどの入江の懷にかへる舟かも沖に帆は滿つ

   二十二日、觀世音寺にまうでんと宰府より間道をつたふ

稻扱くとすてたる藁に霜ふりて梢の柿は赤くなりにけり

   彼の蒼然たる古鐘をあふぐ、ことしはまだはじめてなり

手を當てゝ鐘はたふとき冷たさに爪叩き聽く其のかそけきを

   住持は知れる人なり、かりのすまひにひとしき庫裏なれども猶
   ほ且かの縁のひろきを憾む

朱欒植ゑて庭暖き冬の日の障子に足らずいまは傾きぬ

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