このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

俳 人

無礙庵五峰
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中島氏。通称佐源太。別号三日坊。

 明和3年(1766年)、48歳の時に松島・象潟を廻り、秋には須磨・天の橋立で句を詠み、故郷に帰る途中で芭蕉の七十二回忌に 義仲寺 に立ち寄った。

こゝにひたちなる三日房のぬしは、たゝ煙霞の痼疾にその身をわすれ、しはしは風雅のさひしみを得て、やふれ笠を権貴の門にぬかす、菜雑炊のむしろに俳諧のおかしみを味ひて、松しま・象潟の春に遊ひ、須磨・はし立の秋を詠みて、ことし東の故郷へ帰らんとするの道、あは津の寺にまふてける。

芭蕉忌やかれ残りたる硯水

『しぐれ会』 (明和3年刊)

 明和5年(1768年)、二六庵 竹阿 は三日坊に出会っている。

   ○逢三日坊

今日は彼岸の入なれはと、弥谷寺へ詣す。故中・羽客の両士いさなへり。天霧山の麓七曲といふ処にしはらく老足を休め居たるに、丸亀の桃径来れり。翁法師も連たり。今壱人は三日坊といふに、能々見れは、廿年の昔、常陸國額田といふ処にてまみへし比は三十にも足らす、五峰といふ若おのこに有しか、受領して今や行脚の身と成て、斯る所に廻り逢ひける。まことに優曇花とやいわ(ママ)ん。其姿の替るを、

   替れりな額田の春も二十年

『其日くさ』(竹阿編)

 明和5年(1768年)、五峰は京都岡崎の湖白庵に 諸九尼 を訪れている。

 明和7年(1770年)6月1日、諸九尼は額田の五峰を訪れている。

水無月朔日、額田の三日坊の許に着けるに、過しとし都にてむつびかたらひし人々のことなど問ひきゝてんと、なをざりなくとゞめられければ、我もまた語りなぐさまんととゞまりける。


 安永3年(1774年)、木兎坊風石は象潟行脚の途上三日坊の家に数日の逗留。

   額田なる三日坊、五峯行脚に委敷
   宗匠なれは、数日の逗留も旧里の
   親しきおもひあり、はいかい略之

とまれとの今宵そ嬉し合歓の花
 木兎

  あふく蚊やりも細き草の戸
三日坊

ひとり来て男のうへる山田哉
三日坊


 寛政2年(1790年)6月、大子町にある 八龍神社 に芭蕉の句碑を建立。

拝殿の「柳塚奉納」句額に五峰の句が記されているそうだ。

 手向とて植たでもなし言の花    額田  五峯

 寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に無礙庵五峰は 「芭蕉翁」の碑 を建立したと伝えられている。



「芭蕉翁」の上に芭蕉の句が刻まれている。

松風能落葉可水能音凉し

文化8年(1811年)2月29日、没。

五峰の妻素蘭も俳人。

五峰の句

舟で出て中から見たし杜鵑花


髪ゆふた子共からまつころもかへ


名月や空かと思ふ鹿の声


朝顔や今朝焚くものに這かゝり


曙や宵たツ杣に鹿の声


要害は橋から先やかきつばた


半輪は笆にかくす牡丹かな


下もえに鶏の尾をひく籬根哉


蟻飛ふ日を悠然と牡丹かな


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