このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
吉川五明
五明の句
秋田の人。初号鼠河。別号鶴頭。虫二房。小夜庵。門下に
美丸
がいた。
秋田
五明
吉川伊右エ門
『諸郡銘録』
岩間乙二
・
常世田長翠
・
小野素郷
と共に奥羽四天王と称された。
享保16年(1731年)、那波家初代三郎右衛門祐祥の五男として久保田茶町菊ノ丁に生まれる。22歳で同町の豪商芳川家の養子となる。
宝暦12年(1762年)、五明と改める。
明和5年(1768年)、五明は温湯温泉で湯治。
安永4年(1775年)9月、路丸を伴い温湯温泉で湯治。
同年10月、秋田市の
宝塔寺
に芭蕉の句碑を建立。
四つ五器のそろはぬ花見こゝろ哉
天明元年(1781年)、也鳧庵
一艸
は吉川五明を訪問。
天明2年(1782年)、伊藤紅塵が棲捨てた久保田川尻上野の草庵虫二房を改修し小夜庵を営む。虫二房二世と称す。
天明3年(1783年)、
一艸
は再び五明を訪問して、越冬。
天明4年(1784年)秋、美丸は五明を訪れた。
天明甲辰の秋上野
今人のよぶ名也実は川尻村の内
の小夜菴五明が方へ美丸と云る行脚来れり紀州の産にて今年二十一歳なるが詩歌連俳の達人と云
人見蕉雨『黒甜瑣語』
天明5年(1785年)、五明は渭虹らと共に夜叉袋の素大に招かれる。『梅の浦道』
寛政2年(1790年)、五明は渭虹を伴い八郎潟の月見に赴く。『ひるねの月』
寛政3年(1791年)、
重厚
・宗讃は五明を訪れる。
寛政3年(1791年)、五明 は
象潟
で句を詠んでいる。
象潟や森の流るる朝かすみ
寛政4年(1792年)、
一艸
は三度五明を訪問する。
寛政5年(1793年)、秋田市の
菅原神社
に小夜庵連中は芭蕉の句碑を建立。
春もやや景色調ふ月と梅
寛政5年(1793年)9月、芭蕉百年忌に小夜庵社中は
芭蕉の句碑
を建立。『月以都古』(素大・樗木・野了編)上梓。五明序。
月いつこ鐘はしつめる海の底
寛政6年(1794年)8月、
美濃口春鴻
と
倉田葛三
は五明を訪問。
春鴻葛三を送る
稲刈にまきれて笠の見えすなりぬ 五明
寛政10年(1798年)3月、
『波羅都々美』
(五明編)淡山園主人序。
寛政12年(1800年)、
常世田長翠
は奥州行脚に旅立ち酒田を訪れ、さらに秋田の五明を訪問した。
翌年、再び酒田にやって来て、その足で秋田の五明を訪ねた。
享和3年(1803年)10月26日、73歳で没。
文化元年(1804年)、一周忌に
五明の句碑
を建立。
日向あり陰ありて芭蕉静かなり
文化12年(1815年)、五明十三回忌の追善句集
『小夜志久麗』
(尋風編)。
子日庵一草
跋。
文政2年(1819年)、五明十七回忌の発句集
『小夜の月』
(渭虹編)。
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